20230526

They were grandfather and grandson but they looked enough alike to be brothers and brothers not too far apart in age, for Mr.Head had a youthful expression by daylight, while the boy’s look was ancient, as if he knew everything already and would be pleased to forget it.
(Flannery O’Connor “The Artificial Nigger”)



 10時ごろ起床。熟睡の感あり。起き抜けの感覚で、あ、治ったな、とわかった。それで今日は平常モードで過ごすことに。授業は休んだが、夕飯もじぶんで食堂まで回収しにいくつもり(もちろんマスクは装着していくが)。
 歯磨きしながらスマホでニュースをチェックする。朝食兼昼食はクリームパン。コーヒーも飲む。小腹がすいたところで、バナナや梨なども追加で食す。きのうに引き続き、キッチンと阳台の窓をあけて、部屋に風を通す。
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ウェブ各所を巡回し、2022年5月26日づけの記事の読み返し。以下、初出は2021年5月26日づけの記事。

 ヒューマン・ネイチャーが「人間の本性」ならば、ヒューマン・フェイトは「人間の運命」とでも訳すことができるもので、僕が作り出した表現です。この概念を提示するにあたって参考にしたのはジャン=ジャック・ルソーの自然人の概念でした。
 ルソーによれば、自然人はいかなる束縛も受けずに自由に生きています。たしかに誰かと一夜を共にすることもあるだろう。しかし、いかなる束縛もなければ、人間はその後、その相手と一緒にいるはずがないとルソーは言います。自由にひとりで生きていき、同じことを繰り返すはずだと。ルソーは家族制度を自然なものだと論じたジョン・ロックを批判してこのようなことを述べました。子どもが生まれるまでには十か月かかるというのに、その間、なんの束縛もない、自然状態における男女が、その間ずっと一緒にいるなどというのは不自然であって、ロックは社会状態における常識を自然状態に投影したにすぎないというわけです。
 ルソーが言うことは論理としては筋が通っていると思われます。たしかに自然人というものが存在するとしたら、何ものにも、誰にも拘束されることなく、フラフラと自分の好きなとおりに生きていくでしょう。それはわからなくはない。
 しかし、少し立ち止まって考えてみると、どこか納得できないところがあります。というのも、私たちのほとんどは、たとえ自由であろうとも、誰かと一緒にいたいと願うものだからです。たしかに自由なら誰かと一緒にいる必要はない。誰かと一緒にいるというのは面倒なことばかりでしょう。にもかかわらず、私たちが誰かと一緒にいたいと願うのはなぜなのか。ここには大きな謎があります。
 ここでヒントになるのは、自然状態が、これまでも存在せず、今も存在しておらず、これからも存在することはない状態であり、したがって、自然人は実際には存在しない虚構的な存在だということです。ルソーはこの虚構的存在を説明することで、社会状態という現実を分析しようとした。自然人が虚構的存在であるというのは、それが純粋な人間本性を具現化しているということです。仮にまったく無傷の純粋な人間本性がこの世に存在として現れ出たとしたら、それはたしかにルソーの言うとおりになるでしょう。
 しかし私たちは、絶対に、無傷の純粋な人間本性ではあり得ません。現実のなかで生きることで私たちは多かれ少なかれ必ず傷を負うからです。熊谷さんの言う予測誤差もまた傷の原因でしょう。おなかが空いているのに、すぐには食事が与えられない。そうしたズレだけでも私たちは傷を負います。私たちを傷を負うことを運命づけられている。
 傷を負うことが私たちの運命であるとすると、その傷によってもたらされるさまざまな結果・効果は普遍的なものであることになります。つまり、人間が傷を負った存在であることに例外はないわけです。そうすると、傷のもたらす結果・効果はまるで人間の本性であるかのように見える。しかし、もしそれらを混同してしまったら、あとから人間に付与される性質がもともとそこに内在していたことになってしまう。だから、自然人のような虚構を立てて人間の本性を考えると同時に、普遍的に存在するこの世での人間的生のあり方を、人間の運命という概念で考える必要があるのではないか。つるつるのヒューマン・ネイチャーを想定したうえで、ざらざらした傷だらけの存在にならざるを得ないというわれわれの運命、ヒューマン・フェイトについて考える必要があるのではないか。
 ヒューマン・フェイトとして考えられるべき傷が、人をして、誰かと一緒にいたいと感じさせるのではないかというのが私の仮説です。これは精神分析の知見にも依拠したものであって、ある意味ではそれを言い換えたものかもしれませんが、ヒューマン・ネイチャーとヒューマン・フェイトという対で考えることで見えてくるものがあると思って、こういうふうに僕は命名しているんですね。
國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 p.163-166 國分発言)

 それから10年前の記事の読み返し&再掲もたまっていたので、まとめて片付ける。2013年5月22日づけの記事から同年同月26日づけの記事まで。以下は26日づけの記事より。

――私はね、時々こういう埒もないことを考えるんです。人生というのは、地面に穴を掘って、そしてそれを埋めることじゃないかってね。若い時には、一心不乱に、目的も何も分からずに、せっせと掘って行く。自分の廻りに掘った土が堆く積み重なる。そして何処からか、何時からか、今度はその土を穴の中に投げ込んでそれを埋めて行く。自分の掘った土ばかりじゃなく、他人の掘った土までもシャベルですくって穴の中に入れる。
福永武彦「退屈な少年」)

 以下も26日づけの記事より。(…)さんの話はおぼえていたが、(…)さんの知り合いのヤクザの話は完全に忘れていた。

出勤してすぐ(…)さんにうながされるままに水瓶をのぞいてみると、きのうは三匹しかいなかった赤ちゃんメダカが十匹以上に増えていた。午後にもういちどのぞいてみるとさらにもう十匹以上増えていて、空前のベビーラッシュである。円筒型のゴミ箱を急ごしらえの水瓶かわりにしてまだ孵化していない卵のくっついた水草をそちらにうつした。来週出勤するときにはもっともっと増えているかもしれない。(…)さんが子メダカの写メをとって職場の名前でやっているtwitterにアップしようかと迷っていて、これ社長に見つかったら何サボってんですかといわれそうだもんなーというものだからいくらなんでもそこまで冷たくあしらわれることもないんじゃないですかと応じると、まあそうやよなぁといって、でもまたすぐにうーんと迷いはじめたので、今度はどうしたものかと思ったら、こんなのアップしたらタチの悪い客が来ていたずらされるかもしれないと不安気にいう。そこまで神経質になることもないんじゃないかと思うのだけれど、でもまあそれなりにけったいな連中の出入りする場所ではあるわけだし、なにされるかわかったもんじゃないと心配になるというか、むしろなにかされてしまった場合、なにかをしたその相手にたいしてなにをしでかすかわからないそういう面子ばかりのこちらのほうが懸念事項というか、事実、今日など(…)さんにあおられるかたちで(…)さんが服役するきっかけになったときの出来事のやたらとなまなましい細部を語っていたのだけれど、人間の肉はかたい、刃渡り25センチの刃物にもかかわらず腹を刺しただけで先端が折れる、日本刀でひとを斬りつけたときもたった一度で刃こぼれしたのだ、みたいな、(…)さん曰く「あのじいさんまったく反省しとらん」話っぷりで、とにかくそういうアレだから、下手にもめ事とか起きるとやばい気がする。メダカをきっかけに人殺しという珍妙な事件さえ勃発しかねない。というわけで、結局(…)さんはじぶんの個人名義のtwitterだかfacebookに子メダカの写真をアップしたらしかった。

(…)さんの友人で、いまも交流があるのかどうかはしらないけれど、元柔道全国三位のヤクザがいて、ただひとが良すぎるというかヤクザらしくない人情家というか、たとえば取り立てに行った先だとかそれこそ交通事故の示談の場だとか、要するにしのぎどきの場においてターゲットと話しこんでいるうちにしばしば相手に肩入れするというか情がうつるというか、相手が善良であることがわかってしまうとその途端に、もういい、もうおまえは帰っていいと、せっかくのカモをのがしてしまうということがよくあって、おまえそんなんじゃヤクザやってけないよと周囲からたびたび注意されていたらしいのだけれど、(…)さんはそのひとが激怒しているのを一度だけ見たことがあるという。発売されたばかりのドリームキャストの、とくに時代を先取りしまくっていたといわれているネット対戦みたいなのに、そのひとは当時どっぷりはまりこんでいて、そのコミュニティ上で知り合った友人さえいたらしいのだけれど、あるときそうした友人のうちのひとりと慣れないキーボードでやりとりしている状況がわずらわしく思われてきて、そのむねを相手に伝え、そうして相手の電話番号を聞き出し、それで電話で直接コンタクトをとることにしたらしいのだけれど、いざ電話をかけてみると、チャットではさんざん偉そうにふかしまくっていた当の相手というのが、受話器を介した生身の声から察するかぎり、本当にどこにでもいるただの馬鹿な若造のそれだったので、おれはどうしてこんなやつにボロクソにいわれておとなしく従っていたのだと、だんだんと頭にきて、最終的に相手の住所をききだしておめー首を洗って待ってろ的な、そういうアレで直接相手の家に出向いたとかなんとかで、その一件がいったいどのような落着点を見出したのかはしらないけれども、とにかくその一件があって以降(…)さんは、うかつにインターネットでひとと知り合ってはいけないのだなあと思ったらしい。

 そのまま今日づけの記事をここまで書くと、時刻は15時半だった。二杯目のコーヒーを用意して気づいたのだが、嗅覚が半分死んでいる。後遺症なのか、単なる鼻詰まりなのか、いまのところは不明。鼻詰まりに関しては昨日から症状として出はじめたばかり。詰まっているというより、ただ通りが少し悪くなっているだけなので、それで嗅覚がここまで失われることがあるだろうかと思う。しかしほぼ熱だけで、咳も出なければ喉の痛みもほぼなかった症状の最後に、ある意味コロナを象徴する嗅覚および味覚異常というのは、筋書きとしてなかなかちょっと奇をてらいすぎなのでは?

 (…)くんと(…)さんの作文コンクール用原稿を修正する。(…)一年生の(…)くんに、改定後の期末テストのスケジュールを送り、クラスメイトらに転送しておくようにとお願いする。それからずいぶんひさしぶりになるが、ようやく外出することに。たまっていたゴミを出し、ケッタをひいて敷地外に出ようとしたところ、管理人の(…)が晴れやかな笑顔でこちらに手をふってみせるので、こちらが寝込んでいたことを(…)から聞き知ったか、あるいは差し入れを持ってきてくれた学生経由で聞き知ったかしたのだろうなと思いつつ、你好! とあいさつ。身体好吗? というので、很好! と応じてから、ケッタに乗ってまずは第三食堂へ。
 解放感がすさまじかった。一ヶ月間の隔離生活を終えた当日にも感じられなかった解放感。隔離生活をしているあいだは別に体調を崩していたわけでもなかったし、あれはあれでかなり楽チンで快適なものだったというか、少なくともシチュエーションを楽しむ余裕があった、それに対して今回のおよそ五日間は普通に体調不良であったわけだし、病気が病気なのでどういう方向に転ぶかよくわからんという不透明さもあった、それがひとまずの決着を得つつある、完全回復したとはまだいえないのかもしれないが少なくともこうして外出できるようになった、鼻詰まりとのどの違和感こそ残るものの熱は完全にひいた、とりあえずは活動可能となった、そういうよろこびのようなものがたしかにしみじみわいてきたのだと思う。だから、ペダルをこぎすすめて第三食堂までケッタを走らせるいつもの道がかなり爽快だった。
 第三食堂では饭卡のチャージだけすませる。そのまま第五食堂の二階で打包。ここのスタッフも、ほとんど毎日のように決まった時間にじぶんたちのところに来ていた外国人がある日突然ぴたりと来なくなった、そして数日置いてふたたび姿をあらわしたと思ったら頬に無精髭のはえたマスク姿になっていた、というこの流れだけでおそらくこちらの身になにが生じたか、だいたい理解できるんじゃないだろうか。
 帰宅して食す。食欲は問題なし。胃は少し小さくなっているようであるが、食えないということは全然ない。しかし味が遠い。味覚も嗅覚もすべて喪失したというほどではない、少なくとも去年の冬休み中に経験したやつほどひどくはないのだが、しかしまあ塩気が全然感じられない。三年生の(…)さんと(…)さんのふたりから、今日は夕飯を持っていかなくてもだいじょうぶなのかとたずねる微信が届いたので、今日から外出可能と判断したので問題なしと返信。いろいろ世話になったのでまた来週にでも食事をおごると約束(さすがに明日明後日の週末いっしょにメシを食うというのはまだはやすぎる、感染させてしまうリスクがあるだろうと判断)。(…)さんは気にしなくてもいいと言ったが、「でも先生が申し訳ないと思ったら、食事に誘ってもいいんだ」と続けたのち、6月1日から中国で『天空の城ラピュタ』の劇場公開がはじまる、それに一緒に行きませんかという提案があったので、了承。
 食後はだらだら過ごした。なにもかもが本調子というわけではない、まだあたまをフルに使うのはしんどいのだ(という大義をかくれみのにして、YouTubeでクソほどどうでもいい動画をザッピングしてしまう)。シャワーを浴びる。鼻詰まりが悪化する。というか、日中は鼻詰まりなどないにひとしいのだが、夜になると決まって詰まりはじめる、これは交感神経と副交感神経のアレもあるんだろうが、単純にシャワーを浴びて体温が一時的に上昇するのも原因なのかもしれない。この鼻詰まりというのがちょっと頭痛につながるような詰まり方、鼻をすするたびに奥のほうがツーンと痛むような感じのする詰まりかたで、それがちょっと不愉快。
 ストレッチをする。梨を食う。歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェックする。そのままあらためて作文コンクール用原稿の添削の続きにとりかかろうとしたが、余力がなかったので、寝床に移動。Bliss and Other Stories(Katherine Mansfield)の続きをちょっとだけ読み進めて就寝。