20230607

 ゴルドナーはこうした二元論的なジェンダー・カテゴリーを、同じくニューヨークの精神分析家エイドリアン・ハリス(Harris 1991)と同様、「ネセサリー・フィクション(necessary fiction)」と表現する。これは「必要とされる、避けがたいフィクション」を意味すると考えられ、たとえば英語表現で“a necessary evil”と言えば、「必要悪」という意味になる。つまり、彼女はジェンダー二元論を虚妄であるとか、解体してしまえと言っているわけではない。むしろ二つの性というシステムが個人のこころにも、象徴体系にも、社会にも、社会習慣の中にも、動かしがたくユニバーサルに根付いている事実を理解している。けれども人間が典型的な男性か女性のどちらかに必ず振り分けられるというのは、やはり事実そのものというより明らかにフィクションだろうと言っているのである。そして、精神分析は個々の患者をその二元的ジェンダー・カテゴリーに矛盾なく適合させていくことを目指すというより、むしろその構造を解き明かすことに取り組むべきではないかと主張しているのだ。
(『精神分析にとって女とは何か』より北村婦美「第一章 精神分析フェミニズム——その対立と融合の歴史」p.54-55)



 きのうづけの記事にひとつ書き忘れていた。母親から(…)についてLINEが届いたのだった。老化とともに全身イボだらけになりつつある(…)であるが、定期検診の場で肛門近くにもイボができていることが判明、良性のものではあるのだが排便障害につながるかもしれないという懸念から、液体窒素で除去する処置を行なったとのこと。イボのサイズがもう少し大きかったら全身麻酔で手術する必要があったらしい。あの老体に全身麻酔はこたえるだろうし、麻酔なしで処置できるサイズでよかった。ちなみに(…)はその処置のときも、それから狂犬病の予防接種のときも、以前のように獣医らに対して牙を剥いてうなるようなことはなくなったらしく、「(…)ちゃん丸くなりましたねえ」と言われたという。丸くなったというよりは、単純に、キレて反抗する力もなくなったということだろう。もう13歳半なのだ。
 正午起床。歯磨きをすませてからトースト二枚を食す。午後からスピーチの練習であるが、今月いっぱいはひとまず発音練習に徹するかというわけで、(…)さんや(…)さんや(…)くんらが過去に書いた原稿を印刷。ウォルト・ホイットマンの「草の葉」の一説も英語原文とともに印刷。
 シャワーを浴びてから寮を出る。ピドナ旧市街入り口にある売店でミネラルウォーターを購入して外国語学院へ。スピーチ練習用の教室は四階なので階段をあがる。去年と同じ教室で練習をするものと思いそちらに向かったのだが、扉に鍵がかかっている。練習用の教室は401号室。鍵がかかっているのは404号室だったか405号室だったかで、あれ? それじゃあ去年とは別の教室なのかな? と思って廊下を歩いていると、前から(…)先生がやってきて、あそこの教室ですよと教えてくれる。入室。なかには(…)先生と女子学生がならんで着席している。(…)さんもいる。見覚えのある一室だ。たしか日本語学科の教員らが集まる職員室的な部屋ではないか。(…)さんのとなりに腰かけてほどなく(…)くんもやってくる。(…)くんはすぐにエアコンをつけた。(…)先生も部屋にやってきたので、いまだに嗅覚と味覚がもどらないことを話す。
 こちらの右隣に(…)さん、左隣に(…)くんが座る。テーブルをはさんだ正面に(…)先生と女子学生がいる。女子学生の顔には見覚えがない。(…)先生はつきっきりでなにかを教えているようなのだが、あれはもしかして卒論の指導だったのだろうか? だとすれば、見覚えがないと思われたあの女子学生も、実は日本語学科の四年生だったのかもしれない。いや、さすがにそれはないか? (…)先生のところには途中で(…)四年生の(…)くんもやってきた。彼は卒論関係の用があってやってきたと見て間違いない。
 ふたりのことは放っておいて練習をはじめる。今月いっぱいは発音練習に特化すると告げたうえで、まずは(…)さんの即興スピーチ用原稿を渡す。それで発音練習開始。(…)くんがスピーチコンテスト校内予選とおなじくボソボソとクールなキャラを気取ったふうに読もうとするので(アニメの影響だと思う)、スピーチであるからもっと声を張らなければいけない、これはアフレコではないのだからとまず釘を刺す。しかし発音は全体的に良い。ただひとつ問題があるのは、なにぬねのとらりるれろの区別で、これは(…)人であるから仕方ないのだが、「奈良に行かなければならない」など言わせてみると、やはりかなりボロボロという印象。それでも四年生時の(…)くんなどとくらべるとずっとマシであるし、一ヶ月後か二ヶ月後かにはきっとよくなっているだろう。(…)さんはやはり基礎ができていないのでそこが問題。基礎的な単語のアクセントがまずあたまに入っていないし、ふりがなのついていない漢字の読みもけっこうあやしい。モーラも不安定。しかし遼寧省出身なので、なにぬねのとらりるれろの区別はまったく問題ない。
 

 (…)さんの原稿に続けて(…)さんの原稿でも練習する。それから最後にひととき雑談。(…)くんが(…)先生から聞いた話によれば、新入生のなかに高校時代ないしは中学時代に日本語を学習した経験のある学生が二十人以上いた場合、学習歴のある学生とない学生でクラスを分ける可能性があるという。たしかにそのほうがいろいろやりやすくなるのかもしれないが、しかしその場合、教案を二種類用意する必要があるかもしれないわけで、それはなかなかけっこううっとうしいなと思う。(…)くんは例によって日本の歴史に興味津々。バッグには『日本書紀』と『万葉集』と日本の歴史の概説書を常に携帯している(すべて中国語訳)。邪馬台国の権力者の墓かもしれないといわれているものが最近発掘されたようだよと、数日前にニュースで見た内容にたいして言及すると、さっそく前のめりになってあれこれまくしたてる。(…)くんは考古学者になりたいという。本当は日本の大学院に進学したいが、金がないので、中国国内で唯一日本の歴史を研究することができる南開大学の院に進学するつもりだというのだが、この南開大学というのは中国全土でトップ5に入るレベルの大学らしい。日本史を研究するコースはわりと最近開設されたばかりとのこと。あと、日語会話(二)の期末試験についてたずねられたので、きみもふくめて男子学生はだいたいみんな優秀だと思うけど、(…)くんはやばかった、高校二年生から日本語を勉強しているはずなのに数字の9が読めなかったというと、彼は朝から晩まで一日中ゲームをしていますという返事があった。
 (…)さんからは班导についてきいた。はじめは立候補者が(…)さんしかいなかったわけだが、いまは彼女のほかに(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さんと立候補者がむしろ乱立している状況らしい。また、(…)さん自身も、仮にスピーチの代表が(…)さんに決まった場合(そしてその可能性が高いと彼女自身考えているようだったが)、班导をやってみるつもりだという。その(…)さんについて、彼女は基礎ができているからというので、でも今学期から授業中ずっとスマホをいじるようになったのが気にかかると受けると、基礎日本語の授業ですらそうだと(…)さんはいった。(…)さんは一年生のとき、総合成績がクラスで一位だった。今年はどうなるかわからない。
 17時に練習を切りあげた。(…)くんから案の定メシに誘われた。(…)くんは(…)さんも誘ったが、彼女はダイエット中だからと断った。どこでメシを食うかとたずねると、マクドナルドかケンタッキーというので、きみはどうしていつもそういう店ばかり選ぶんだよと受けると、辛いものが好きじゃないからという返事。割高な店でハンバーガーを食うのもバカらしいので、すぐ近くにある麻辣香锅の店を提案。ぼくはいつも不麻不辣でオーダーするから辛くないよと伝える。それで(…)病院のなかを自転車を引いたまま通過して店に向かう。店の一階ではボウルのなかにトングでつかんだ食材をぽんぽん放りなげていくわけだが、(…)くんは野菜がいらないという。まったく食わないらしい。それでいえば、以前いっしょにケンタッキーにいったときも、ハンバーガーのなかのレタスをすべてとりのぞいて食っていて、なるほど、なかなかの偏食らしい。というか、中国人で野菜をまったく食わない人種というのは、かなりめずらしいのではないか? こちらの印象としては、わりとみんなけっこう野菜をおいしそうに食べる人間が多いというのがあるのだが。
 そういうわけで野菜はこちらがひとりで選んでひとりで食うことに。(…)くんには肉を好きなだけ選ばせる。会計はこちらがやや多めにもつ。二階席に移動し、食事をとりながら雑談。(…)くんは今年の11月だったか12月だったかにN1を受ける予定だという。スピーチコンテストの本番と近いではないかというと、だからちょっと心配だ、夏休み中に一生懸命勉強しなければならないという返事。ちなみにクラスメイトの(…)さんと(…)くんもおなじタイミングでN1を受験する予定だという。高校時代の学習歴があるとはいえ、一年生の時点でN1を受験しようとするのは、なかなか積極的な学生たちだ。
 (…)くんはいま日本語の家庭教師をしているという。高校生に? とたずねると、高校をやめた子にという返事。一週間に三日、一回二時間ほどで、一週間の報酬といっていたか一ヶ月間の報酬といっていたか忘れたが、いずれにせよ150元で、それはちょっと安いなァという印象。高校をやめた学生に日本語を教えるというのも妙な話だなと思っていると、先生も知っているひとですよというので、それですぐにピンときた。万达で出会ったあのコスプレ女子だ。正解だった。彼女は出会ったとき、高校二年生だといっていたはずだ。でももう高校をやめました、病気ですと言ってみせるので、心の病気? 鬱病かな? というと、びっくりした顔になって、先生どうして知っているの? 彼女から聞きましたか? という。彼女については、正直、はじめて声をかけられたあの日から、あ、たぶん病んでいる子だな、という印象を受けていた。おとなしすぎるたたずまい、目の力のなさ、声の細さ、視線のそらし方と表情の乏しさ、と、ひとつずつ要素をあげていってもそれは理由にならないか、あくまでも総合的な印象としかいいようがないのかもしれないが、たぶんそうだなという感じがおおいにしていた(それにまた、彼女と同様、コスプレが大好きであるのだが、精神を病んでいた(…)さんの姿がオーバーラップしていたという個人史的な事情もあるかもしれない)。
 こちらも十年ほど前に発病して難儀したと伝える。(…)くんはやはりびっくりしていた。この話をきいた学生はみんなびっくりする。そういうふうには全然見えないからだろう。(…)くん自身も高校時代鬱病だったといったが、これは話のディテールから察するに、「鬱病」ではなく(カジュアルな物言いすぎるとしてときに批判される、いわゆる)「鬱っぽい」状態だったようす。家族との関係、勉強のプレッシャー、友人とのトラブル、そういうもろもろでかなりストレスがあった、と。特に勉強のプレッシャーはやはりひどかったという。中国の高校生は、朝の5時半から夜の11時まで勉強みたいな、本当にわけのわからないスケジュールで毎日勉強させられている。日本の高校では自習なんて存在しないとか、朝の8時半から夕方の16時ごろまでしか授業がないとか、その後は部活してもいいし帰宅してもいいし友人と遊んでもいいしデートしてもいいしとか、そういうわけで恋愛も当然禁止ではないとか、そういう話をすると、そんな天国が存在するのかとびっくりした表情を浮かべる学生も多い(もっとも、少なくない数の学生が、日本のアニメやドラマや映画を通して、こちらが説明するまでもなくそういう事実を知っているわけだが)。(…)くんは中国の学校について、「勉強の工場」だと評した。いいえて妙かもしれない。ちなみに、今日は高考の初日。モーメンツを見ていると、ここ数日たしかに話題は高考一色という感じだ。
 店を出る。新校区を瑞幸咖啡に向けて歩く。ちょうど授業が終わった時間帯だったらしく、キャンパス内を大量の学生がぞろぞろ歩いている。そのなかに二年生らの姿もある。(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さんなど。これから自習ですかとたずねると、授業だという(と、いま書いていて思ったのだが、このときのやりとりにはおそらくすれちがいがあった、学生らはたぶんいま授業を終えたところですと答えたつもりだったのだと思う)。なんの授業とたずねると、习近平! という返事があり、あ、習近平思想かと思う。こちらが赴任した五年前は、政治の授業といえば、マルクス毛沢東の授業だけだったはずなのだが(大学院試験の準備をしている(…)くんに見せてもらった政治の教科書の後半には、その当時からすでに習近平思想に一部が割かれていて、現役の指導者を称える内容が現役の教科書に掲載されているというありさまに、ひどくグロテスクなものを感じたものだった)、たぶん、今年からなのか去年からなのか、近平の旦那の「思想」に特化した講義までこうして大学の必修科目になったわけだ。ほんまに狂っとるとしかいいようがない。戦時中の天皇陛下万歳思想を徹底していた日本もこんな感じだったのだろうなと、いまの中国にいるとたびたび感じる。しかしいまの中国社会のこうしたありようを舌鋒鋭く批判する日本人の多くは戦時下の日本を同じ基準で撃とうとしないし、戦時下の日本のふるまいを舌鋒鋭く批判する中国人の多くは現代の中国を同じ基準で撃とうとしないし(というか彼らの大半は当時の日本が外国の情報を規制し、メディアをコントロールし、愛国教育を徹底していたことを知らないというか、知っていたとしてもそれこそがあのような国家と国民を生み出した原因であるという理解をしていないので、現代中国をそこからひるがえって批判するという視座を得ることができない)、結局、ここでもおれはやっぱり両陣営からぶったかかれるような存在になっているんだなとげんなりする。やれやれ。
 瑞幸咖啡でコーヒーを打包する。(…)くんは図書館にいって歴史の本を読むという。こちらは帰宅。寮の前で別れる。スピーチ練習の後半から頭痛がしていた。朝起きてからコーヒーをまだいっぱいしか飲んでいないので、カフェインの離脱症状かもしれないと思ったが、いやいっぱい飲んでいるのだから離脱症状は出ないだろうと思う。とりあえず打包したコーヒーを飲む。それからベッドでしばらく横たわって休憩。
 (…)先生から微信が届いている。未払いの報酬について、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さんの四人の口座にいったんふりこむことになった、ふりこみ後に各学生から微信でそれぞれ送金してもらってくれとのこと。了解。しかしどういう基準の四人なのだろう? 共通点がない。
 三年生の(…)くんからも微信。スピーチの練習については来月以降参加するとのこと。今月末にN1を受ける予定らしい。そちらにまずは集中したいのでという話だったので、かまわない、がんばって勉強してぜひ合格してくれと激励する。
 (…)からも微信が届く。今年の保険についての書類。こんなものが送られてきたのははじめてだ。
 (…)さんと(…)さんのふたりからも微信が届く。(…)さんの荷物を配送するのはいつなのか、と。今週の土曜日はどうだろうかというと、問題ないという返事。それで今度はこちらから(…)にコンタクトして郵便局の住所を教えてもらったのだが、営業日は月曜日から金曜日まで平日のみ。午後は17時までであるが、15時半までにはおとずれたほうがいいという話だったので、あらためて学生ふたりとスケジュールをすりあわせる。平日であれば、こちらは月曜日の午後しか空いていない、と思ったが、来週以降であれば(…)の授業がもうないわけであるし、木曜日の午後でも問題ないことになる。ふたりも木曜日の午後であれば問題ないといった。
 そういうやりとりを交わしている最中に(…)くんからも微信(毎日どんだけの学生とやりとりせなあかんねん!)。(…)さんと(…)さんのふたりから土曜日に郵便局に行くときいた、じぶんも手伝おうかというもの。しかし彼の本題はその後いっしょにカラオケにいかないかというものだった。カラオケには過去二度か三度行ったことがあるが、こちらの知っているような日本語の歌などひとつもなくひたすら退屈した記憶しかないのでもう二度と行きたくない。それで断る。ではメシはどうかというので、カラオケのあとで合流するのであれば問題ないよと受けたが、その後、郵便局には土曜日ではなく木曜日に向かうことになったので、結局、この話はそのまま流れることに。
 こうしたやりとりをしている最中、たしか21時過ぎだったと思うが、いちど寮の外に出て、第五食堂近くのパン屋にむかった。夜食のパンを購入。寮にもどると、後ろからてくてくと小走りでやってくる足音がして、ふりかえると(…)がおり、Hello! とものすごくかわいい声で口にしてみせる。(…)には一時帰国中ドラえもんのグッズを買ってきてあげようと思う。王ドラのキーホルダーとかあればいいな。
 (…)くんから吉野ヶ里遺跡の石棺について微信が送られてくる。NHKのニュースかなにかで確認したという。古代史オタクだけあって、かなりワクワクしているようすだった。しかし話がめちゃくちゃ長くなりそうだったので、適当なタイミングで、風呂に入ってくるからと切りあげる。で、実際のシャワーを浴びたのだが、部屋にもどると、やりとりを終えたはずの彼から古代史に関するトリビアルなあれこれが大量に届いていて、おいおいおいとなる。
 シャワーを浴びてストレッチをする頃には頭痛はずっとよくなっていた。しかし痰がよくからむ。そのせいで呼吸が全体的に浅くなる。それがうっとうしい。なかなか長引く。Long COVIDの定義ってなんだっけ? 発症後一ヶ月経っても症状が残っているケースをいうのだっけ?
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿する。ウェブ各所を巡回し、2022年6月7日づけの記事を読み返す。以下は2021年6月7日づけの記事からの孫引き。

熊谷 先に挙げた「痛みから始める当事者研究」にも少し書きましたが、脳科学者でアントニオ・ダマシオという人がいます。彼の一般向けの本で『感じる脳 情動と感情の脳科学』という本がありますが、その副題が「よみがえるスピノザ」なんです。
國分 「LOOKING FOR SPINOZA」ですね。
熊谷 はい。ダマシオはスピノザに影響を受けた脳科学者なんですね。前回の質疑応答の際に少し触れましたが、彼は、「自己」という言葉を三つに分けています。一つめは「原自己(proto self)」。私の理解ではほぼ、原自己イコール、コナトゥスだと思います。二つめが「中核自己(core consciousness)」。「中核自己」は原自己の恒常性が乱されたとき、歪まされた原自己と歪ませた状況の両者を俯瞰して観測しているもの。「あ、まさに今、原自己が歪んだな」、で、「歪ませた原因は何かなあ」「あ、外にいたこれだった」などと、中核自己は観測している。そしてコナトゥスには戻ろうとする力があるので、歪まされ、戻るまでの一部始終を中核自己は観察し、記録している。
 先ほど國分さんは、スピノザを引いて、精神は身体そのものにアクセスできない、意識に上らないという話をされました。スピノザは、原自己そのものは意識に上らないと言っているわけですね。原自己が乱されたとき、中核自己のレベルではじめて意識が発生するんだと。ダマシオは、スピノザと同じことを言っていると思います。
國分 しかも、中核自己は記録もしているわけですね。
熊谷 ええ、記録するハードディスク自体は違うところにあるのかもしれませんが、ひとまず中核自己が記憶をしたり記録をしたりしているのではないかと思われます。そしてダマシオが言うには、中核自己からが意識なんだ、と。中核自己から意識が発生する。つまり傷を負ったときにしか、人は意識できない。人はトラウマしか意識できない。
國分 トラウマしか意識できない。
熊谷 ええ。ダマシオの理屈から言えば、そうなります。もちろん、すごく大きなトラウマだけではないと思います。日常的な、ごくささやかなことでも、私たちは規則性を想定外のかたちで乱されることによって傷を負うわけです。先ほど、自己とは規則性だという説明がありましたが、まさにそうですね。原自己は恒常性を維持するという規則性を持っている。その意味では、規則性の根本です。規則性からの逸脱、これまで予測誤差と言ってきたもの、あるいはトラウマでもいいのかもしれませんが、そうしたものしか人は意識できない。ダマシオの整理ではそうなります。
 この中核自己というのは、先ほどのヒューマン・フェイトを観測・規則している。だからヒューマン・ネイチャーが原自己で、中核自己はヒューマン・フェイトの部分を担っている。いやむしろヒューマン・フェイトの部分こそが、意識に上るレベルの自己になるわけです。
國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 p.282-284)

 さらに2013年6月7日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。冒頭に引かれていた以下の記述がちょっと気になった。この本、たぶんもう手元にはないと思うのだが、この「言葉が身体と化す 精神分析とファンタスムの論理」という文章だけでもちょっと読み返してみたいかも。

 ファンタスムとは語源的にファンタジーと同じ言葉なのですが, ふわふわと不定形に漂う感情のようなものではありません. それはすでにみたあの無意識の表象に媒介されて, 普段は「現実」に沿って統合されていると信じているわれわれの身体や, 「現実」を正しく認識していると思いこんでいるわれわれの知覚の表層へと, 奇怪な形を伴いつつたえず滲み出してきて, 身体や知覚を撹乱させるものなのです. この表象体系は, ところがまた, われわれがおいしいものを食べたとき, 美しいものを身にまとったときに身を貫くのを感じるあの無償の歓喜のように, あるいは人を好きになるときに働く, 当人にも不可解きわまりない恋愛感情のように, 何の意味も根拠もないものでもあるのです. なぜうれしいのか, なぜ好きなのかと聞かれても, 理論だてて答えられはしません. 夢という表象は, それが理屈で説明のつく願望の充足だから, ファンタスムのプロトタイプだというわけではないのです. 理屈では割り切れない理不尽な胸のときめきを夢から覚めた人に残すからこそ, 夢はファンタスムなのであり,(…)ですから, 体系という言葉をファンタスムや表象に添えてつかっていますが, 理論化できるシステムという意味からではありません. 女性になることを密かに欲望してしまっている男性が, この欲望に単に性器的快楽だけではなく, 衣裳や言葉遣い, 生活習慣などにおけるフェティッシュな欲望を次々と連結してしまう, その欲望の自動的な連鎖作用だけがファンタスムを構造化しているということを, それは言いたいのです. それは体系だが, 決して理論化はできない. 理論化するにはわれわれ一人ひとりがしてきた偶然というしかない体験にあまりに多くのものを負っているからです.
小林康夫・船曵建夫・編『知の論理』より石光泰夫「言葉が身体と化す 精神分析とファンタスムの論理」)

 あと、この日は、いずれ手に入る交通事故の慰謝料をあてにするかたちで、(…)といっしょに高級タンシチューを食っている。この日の出来事はよくおぼえている。

それで地下鉄代もジュース代も晩飯のクソ高級タンシチュー1人前三千数百円もすべてじぶんが持つという気前の良さを発揮した。おれが小金をもっているなんてことは滅多にないのだからたかれるうちにたかっておけと、始終遠慮しがちであった(…)にはたびたび発破をかけた。タンシチューのタンはアホみたいにやわらかくて箸で持てば崩れるほどで端的にいって美味だったのだけれど店のババアがでしゃばりすぎてうっとうしかった。これまでに数十組の縁談をとりまとめてきたのが彼女の誇りらしく、しきりに結婚・家庭・子供の三原則を食事中のこちらなどおかまいなしに猛プッシュするありさまで最初のほうはその空気の読めなさっぷりにそりゃ流行らねーよこの店は(…)とふたりでにやにや笑っていたのだけれど、家庭をもたない奴なんてのは非国民だレベルの人格攻撃を日本中の未婚者にむけていつからか矢継ぎ早にくりだしはじめて、なんかそのあたりからアレこいつちょっと話長くない?みたいな、だんだんと相手にするのも面倒くさくなってきたものだからてきとーにまあ三十歳も半ばをまわるころには身を落ち着けようとするもんじゃないですかねと当たり障りのない他人事めいた相づちをふたりして打つなどしてさっさと切り上げさせようとしたのだけれど、そうしたこちらの意図など微塵も察することなく、そんなんじゃあ駄目だ、そんなんだから少子化がうんぬんかんぬん、あるいは出生率がうんぬんかんぬんと、たいそう頭の悪い空疎な発言を呪文のように唱えてやまないので、あっそ、じゃあてめーは国の将来を憂いてばんばん子供つくってそんで一族郎党お国といっしょに心中してろよクソババアと内心毒づいていると、ババアがまだまだ話し足りないとばかりに口角泡を飛ばしまくっている最中にもかかわらず(…)が席をたちあがるなり「行こか!」と言い出し、それで支払うべきものを支払って店の外に出たのだけれどその途端あのババアくっそうぜえな!とこちらの出足をうかがいもせずにいきなり切りだした(…)の柄にもないふるまいが痛快だった。

 この日の記事に書きそびれているが、仲人であることがアイデンティティになっているらしいこの店のババアは、結婚を何度も何度もすすめるものの全然乗り気にならないわれわれふたりを前にして、はじめのうちこそやんわりと言い聞かせるようであったのだが、こいつらはなにを言っても無理だと悟ったのだろう、途中でモードを完全に切り替え、あんたらみたいなんはどうせ結婚できないみたいなことをなかなかきつい口調で口にし、その豹変っぷりが失礼を通り越しておもしろすぎて、こちらはゲラゲラ笑ったのだったし、店を出た直後に(…)が店のなかに聞こえるような声で、あいつマジうぜえな! クソ失礼やん! と言ったのにもやっぱり笑ったのだった。まあ十年前にババアやった人間であるわけやしもう死んどるやろ。南無阿弥陀仏
 あと、この日は部屋の掃除もしているわけだが、それについて、「しかしいちばんすごかったのはまちがいなくデスクの上のパンくずで、食パンマンが爆死してもこんなことにはならないレベルというか、玄関の扉を開放したまま仕事に出かけて帰宅したらすずめが一族郎党呼びよせて部屋の中で巣を作っていてもおかしくないみたいな按配だった」という記述があり、これにはちょっと笑った。
 その後、夜食のパンを食し、今日づけの記事をひとまずメモ書きにすると、時刻は2時だった。なにをするにしても時間が足りねえなァと思いながらベッドに移動し、『現代タイのポストモダン短編集』(宇戸清治・訳)の続きを読み進めて就寝。