20230608

 ベンジャミン、ゴルドナーそしてハリスと同じくニューヨークを本拠地にする分析家に、ミュリエル・ディーメンがいる。彼女は「第三のステップ——フロイトフェミニズム、そしてポストモダニズム」(Dimen 1995)という論文を発表しているが、そこで彼女は、精神分析フェミニズム(特に差異派)はフロイトの女性論を解決したかに見えたが、逆に差異派フェミニズムが「女性は関係性を大切にするものだ」というステレオタイプをつくり出してしまった面があることを指摘している。彼女は「男の子や女の子は、必ずしも理論やイデオロギーの命じるとおりにはしないが、それが私たちに第三のステップが必要になる一つの理由である」という。そして、すでに紹介した差異派のフェミニストであるジーン・ベーカー・ミラーの講演を聞きに行った時の、自身の経験について語る。ディーメンはミラーの話を聞いて肩の荷が下りたように幸せな気分になったものの、あらためて考えてみると自分はミラーが女性の特徴として挙げているような「関係をつくる」ことを自分自身の核にはしていないと気がついたという。ミラーの理論に従うと、女性らしい「関係性」指向から外れるディーメンの経験は、どうしても「病理」扱いされてしまうのだ。そんな紆余曲折を経て彼女が取ることになった第三の道の経験は、「ジェンダーというものをさまざまな例をもつものととらえ、曖昧で、多重決定されていて、葛藤的なものとみるやり方」であるという。言葉で男性や女性などと言う時、言葉自体の働きによって、われわれはどうしても典型例のようなイメージやステレオタイプをつくり上げてしまう。それは言葉の働きなので、そのこと自体はどうしようもない。それなしにわれわれは、コミュニケートすることもできないのだ。けれども性同一性は、水も漏らさぬ窮屈なものではなく、実際にはもっと穴だらけのものである。男性でも自分を男らしく感じないこともあるし、女性も自分を男のように感じることがある。ステレオタイプが厄介なのは、それが間違っているからではなく、「男ならこう振る舞うものだ」「女ならこうだ」と、曖昧さがなさすぎるからである。
 ある人の性別という、ある種の確かな実体と思われているものは、実は互いに調和しないはずのものが寄せ集まって全体をなしているようなものなのだと、ディーメンは治療者としての実感から言う。(…)
(『精神分析にとって女とは何か』より北村婦美「第一章 精神分析フェミニズム——その対立と融合の歴史」p.55-56)



 10時半起床。やや睡眠不足。朝昼兼用のメシとして第五食堂の炒面を打包。狂戦士の食事をとったのち、狂戦士のコーヒーを飲む。二年生の(…)さんからリスニング問題の音源が送られてくる。何度聞いてもわからないというので聞いてみたのだが、え? これがわからないの? とちょっと意外に思うくらい簡単だった。(…)さんもちょっと伸び悩んでいるよなァと思う。彼女自身その自覚があるようだが、一年生のときは、授業をしているあいだしょっちゅう、この子はのびるな、卒業までにペラペラになるな、(…)さんレベルになるかもしれない、と思ったものだが、現状はうーんという感じ。口語能力だけであれば(…)さんのほうがすでに上かもしれない。
 寮を出る。ケッタを南門のそばに止めてバス停に移動。今日はかなり暑い。気温も35度近くあるし、なにより日差しがかなり厳しい。バスはなかなか来なかった、いつもより10分ほど遅れた。ビート博士の姿もない。たぶん彼の担当する授業は先週で最後だったのだろう。移動中はBliss and Other Stories(Katherine Mansfield)の続き。
 終点でおりる。売店でミネラルウォーターを買う。店のお姉さんがいつものように日本語で「こんにちは」と「ありがとう」をいう。こちらも都度「こんにちは」と「どういたしまして」と応じる。そのやりとりを、離れたところにいた母君らしい女性がわざわざそばにやってきて、ニコニコしながら見守る。
 教室へ。遅刻ぎりぎりだった。そういうわけで14時半から(…)一年生の日語会話(二)。期末試験「道案内」その二。今日試験を受けたのは(…)くん、(…)さん、(…)さん、(…)くん、(…)くん、(…)さん、(…)くん、(…)さん、(…)くん、(…)さん、(…)さん、(…)さん、(…)さん。先週試験を受けた組よりは好印象。「優」がつきそうなのは(…)くん、(…)さん、(…)くん、(…)くん、(…)さん、(…)さん、(…)さんあたり。(…)さんの発音がとてもきれいだったのでその点褒めると、毎日録音を聞いて練習しているという。きみの発音はクラスでいちばんきれいだよと告げると、たいそうよろこんでいた。「です」「ます」の「す」を、ほとんどの中国人は中国語のsi3で発音するのだが、(…)さんはこのあたりの発音が非常に自然だった。仮に(…)の学生がスピーチコンテストに出場するのであれば、代表は彼女で決定だろうなと思う。(…)くんはテストが終わったあと、漢方茶をくれた。小分けの袋に茶葉や木の実や角砂糖のようなものが入っている代物(小分けの袋に角砂糖というと覚醒剤を思い出すわけだが)。のちほど微信で、一袋につき二杯飲むことができる、健康にいい、しかし深夜に飲んではいけないと注意書きが送られてきたが、これを書いている深夜2時10分現在、ふつうにガブ飲みしてしもとる。味覚および嗅覚を失った狂戦士状態なので味はまったくわからん。ほのかに甘いような気はするが。(…)くんからは来学期の授業はどうなるのかと聞かれた。以前(…)さんに話したのだけどと思いつつ、(…)の新入生が二クラスある、それにくわえてスピーチコンテストの指導もある、だから(…)の授業を担当することはできないと受ける。先輩たちは作文の授業を(…)先生に担当してもらいましたみたいなことをいうので、ごめんねそれもちょっとできそうにないんだ、以前とは状況が変わってしまったのでと応じる。授業中にしょっちゅう居眠りしている(…)さんは、思っていたよりもリスニングができた。これにはちょっとびっくり。しかしリスニングの最中、地図ではなくその地図を見るこちらの目線を気にかけているのがわかったので、彼女とおなじくらいやる気のない(…)さんの試験の最中、正解の目的地とは全然ことなる場所にわざと視線を送り出しながら道順を読み上げてみたところ、まんまとこちらの目線に誘導された答えを口にしたので、やれやれとなった。このふたりはぎりぎり合格かな。
 教室をあとにする。エアコンを切っておく必要があるのかなと近づいたところ、他学部の女子学生が近づいてきて、このあとここでわたしたちの授業がある、だからエアコンを切る必要はない、と中国語でいうので、Okayと受けた。バスに乗って(…)にもどる。(…)から一時帰国のitineraryとpayment receiptがほしいと微信が届いていたので、Trip.comで発行した領収書と旅程画面のスクショを送る。
 南門近くでケッタを回収してから(…)に向かう。食パンを三袋買ったのち、第五食堂に立ち寄って夕飯を打包する。帰宅して狂戦士のメシ。食後はベッドに移動して仮眠。今日は寝不足だったので食後の眠気もすさまじく、これはもしかしたらがっつり眠ってしまうパターンかもしれないと警戒していたのだが、まんまとその通りになってしまった、目が覚めると21時半をまわっていた。三時間以上眠ってしまった計算になる。
 しゃあない。コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書く。書きあげたところでシャワーを浴びる。ストレッチをする。それからきのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年6月8日づけの記事を読み返す。以下は2021年6月8日づけの記事からの孫引き。

熊谷 では、ダマシオのいう三つめの自己、「自伝的自己(autographical self)」というのは、どういうものか。私たちは傷だらけ、トラウマだらけです。意識のなかはトラウマで埋め尽くされている。そうしたヒューマン・フェイトである私たちは、傷だらけのままではあまりに痛すぎて、生きることができない。だから、傷やトラウマをなんらかのかたちで物語化したり、意味づけしたりして生きている。トラウマに意味を与える観念とかパターン、あるいは物語を使って自分のトラウマに一貫した意味を与え、物語としてトラウマをまとめ上げることでなんとか痛みに耐えて生きている。ダマシオは、そうした物語化された自己を自伝的自己というふうに整理しています。
國分 なるほど。ところで中核自己というのは必ず発生するのでしょうか?
熊谷 どうでしょうね……。
國分 例えば歩いていてどこかにぶつかって、「あっ痛い!」とかは誰にでもよくあることですよね。だから、原自己の「歪み」は生きていたら当然あるでしょう。言い換えれば、意識というのは必ず発生するのかどうか。
熊谷 まさに先ほどの綾屋さんの当事者研究が関わっているところだと思います。もちろん、いちいち中核自己が発生するわけではない。ほとんどのトラウマは私たちの意識に残らない。私たちは日々、ある程度規則正しい生活を送っていますが、それでもほぼ毎日、規則は裏切られています。しかしそれが毎回意識に上ったりはしない。だから原自己がどれぐらい乱された場合にはじめて中核自己が起動するか、という閾値のようなものがあるのではないかと思います。
 そして、その閾値には、個人差がある。綾屋さんの仮説によれば、自閉スペクトラム症と呼ばれる人たちの少なくとも一部は、この閾値が低いのだということです。つまり、少しでも原自己が歪まされると中核自己が起動する人がいるということです。意識のレンジが広いというのはそういう意味です。あるいは予測誤差に敏感と言ってもいい。少しでも予測から外れたら、意識に上る。
國分 少しでも予測が外れたら、意識に上る。簡単に意識が起動してしまうということですか?
熊谷 そうですね、言い方はいろいろあると思いますが、予測誤差に敏感だとか、意識のレンジが広いなどの表現は、原自己のわずかな歪みで中核自己が起動しやすいと言い換えられると思います。先ほどの綾屋さんの言葉どおり、意識のレンジが広いというと、なんだか気づかいのできるいい人みたいな感じがしますが、じつは非常に生きることが困難になる。
 國分さん、自伝的自己とはいわゆる自己のことと考えていいですか。アイデンティティみたいな……
國分 そうですね。それは、ヒューマン・ネイチャーとヒューマン・フェイトの相互作用でできあがるものと言ってもいいと思います。あるいは、昔、あんなことをしていた私も、今これをしている私も同じ私で、一直線につながっているという「自伝(オードバイオグラフィ)」を持っているという意味での「自己」。
熊谷 ええ。
國分 綾屋さんの「当事者研究と自己感」の文章を思い出しました。自分が自閉スペクトラム症だという診断を受けた帰りの電車のなかで、それまでバラバラだった、放り投げられていたような記憶が一直線に並んでいったという経験についてのお話です。これは時間の生成とでも呼ぶべき出来事ですね。定型発達の場合も時間の発生があったはずですが、それはあまりに幼い頃になされているから、ほとんど記憶されていない。しかし、綾屋さんの場合、偶然にもさまざまな条件が重なって、時間が時間として、直線的なものとして生成する瞬間に、三〇歳ぐらいになってから立ち会ったわけですね。自己の存在はこの一直線の時間の生成と密接に関わっていると思います。それはオードバイオグラフィの基礎になるわけですから。
熊谷 なるほど。そしてもう一つ、綾屋さんの研究で興味深いのが、自伝的自己になるきっかけとして他者が必要だというところです。私もまだつかみ切れてないところですが、これがまた非常に興味深い。
國分 あとでお話ししますが、きわめてドゥルーズ的な問題ですね。
熊谷 そうなんですね。私もまだ確信を持てていないのですが、どうも、原自己、中核自己まではひとりでもできる感じがするんです。でも、自伝的自己になるときに、どうしても他者が必要になる気がします。
國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 p.285-288)

 それから2013年6月8日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。トースト食ったりジャンプ+の更新をチェックしたりしつつ、今日づけの記事もここまで一気呵成に書くと、時刻は2時半だった。

 寝床に移動後、スマホでだらだらニュースをチェックしたり、『現代タイのポストモダン短編集』(宇戸清治・訳)の続きを読み進めたりして就寝。