20230611

 このことは、原父神話からも考えることができるだろう。原父が存在していた時代には、例外的な存在である原父が「すべての女性」を所有することによって女性の集合を囲い込んでいたため、女性における「すべて」を考えることが可能であった。しかし、原父を殺してしまった今となっては、「すべての女性」なるものは存在しえない。すると、普遍を根拠づける例外が存在しないのだから、もはや女性について普遍的な仕方で何かを語ることは不可能であり、一人一人の女性について個別的に語らなければならないということになる。ゆえにラカンは、女性について「すべてはない(pas-tout)」、あるいは「〔普遍的な「女」と言えるような〕女なるものは存在しない(La femme n'existe pas)」という規定を与えることになるのである。このような女性についての規定は、もはや女性を男性の論理における「例外」の位置に——ひいては、「覆い隠されたものとしてのファルス」を巡る否定的な論理に——縛り付けることを必要としないことが理解されるであろう。
(『精神分析にとって女とは何か』より松本卓也ラカン派における女性論」 p.192)



 11時過ぎ起床。卒業生の(…)くんから微信。夏休みは日本に帰国するのか、と。そのつもりだと返信すると、じぶんも日本に旅行に行くつもりだという。現地で会いましょうという話なのかもしれないが、正直ちょっとめんどうくさいなと思う。インターンシップで日本に渡る学生たちからも遊びに来てくださいと言われているわけだが、こちらはもともと奴隷の鉄球を片足ではなく両足に結びつけられているほどフットワークが重い人種なのだ。しかしモーメンツなど見ていると、この夏に日本に旅行に行くつもりだという卒業生が一定数いて、ムードが一変したなと思う。(…)くんも「新型コロナがなくなってるから」というのだが、いや、なくなってはいないんだよな、全然なくなってなどいない、でもそういう認識でいるひとが、たぶん中国のみならず日本でも相応いるのではないか。しかし日本ではいまもまだマスクの装着率が相応に高いというし、中国にくらべると警戒心はずっと高いことになるのか。中国では現在マスクを装着している人間は、いないということはないのだが、かなり少ない。
 第五食堂で炒面を打包する。今日もかなり暑い。最高気温は35度。帰宅して狂戦士の食事をとったのち、13時半から「実弾(仮)」第四稿の執筆にとりかかったが、10分ほどで中断。眠気がまぶたの裏のほうでわだかまっている。ちょっと睡眠不足なのだ。この状態ではろくな文章を書くことができないと経験的に知っているので、執筆は仮眠後の夜にまわすことに。
 そういうわけで先にきのうづけの記事の続きを仕上げる。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年6月11日づけの記事を読み返す。以下のくだり、笑った。

夏目漱石吾輩は猫である』からの抜き書きを記事冒頭に掲載するためにKindleでマークしてある箇所をチェックしていたところ、「大日本女子裁縫最高等大学院」なる学校の校長として「縫田針作(ぬいだしんさく)」なる名前が登場するくだりがあり、クソ笑うと同時に、スマホのメモ帳に「漱石ビートたけしやんけ!」という謎のメモ書きがずっと以前から残されている謎がここで判明した! ビートたけしの「火薬田ドン」とか「牛田モウ」と完全に同種の発想として「縫田針作」をとらえていたわけだ。

 2013年6月11日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。そのまま今日づけの記事もここまで書くと、時刻は15時過ぎだった。

 先日添削した「(…)」の中から学生ひとりにつきひとつずつおもしろ回答をピックアップしてPDFにまとめる。それがすんだところで外出。(…)で食パンを購入し、后街の中通快递で鼻うがい用の薬剤を受け取る。それから第五食堂に立ち寄って、この時点でまだ17時にもなっていなかったわけだが、はやめの夕飯を打包。
 帰宅して狂戦士の夕飯。ベッドに移動して仮眠をとったのち、シャワーを浴び、ストレッチをし、20時半から23時半まで「実弾(仮)」第四稿執筆。プラス21枚で計560/1016枚。シーン28は問題なし。シーン29も途中まで進める。なるべく本筋と無関係な描写を取り入れたいというか、筋ではなくムードか、テンションか、そのシーンのコードをみたいなものからはずれる思いがけない音を、フリージャズのようなある意味ではわかりやすいアナーキズムの作法としてではなく、あくまでもところどころ挟まれる逸脱として鳴らすことができたらというあたまで最近は加筆を続けているのだが、やってみるとこれが意外にむずかしい。シリアスでヒリヒリするようなシーンであれば、そこにちょっとあえて登場人物の間抜けなふるまいを描いてみたり、と、書いているとまるで北野武の映画のようであるが、そういうのがやっぱり必要だ、単一の色調に塗り込まれてしまいがちなシーンをうらぎる破れ目が。
 以下は今日加筆を終えたシーン28。

 受話器を置いて、モニターを見あげる。二〇五号室の扉がひらいて、メイク道具一式が入ったプラスチックの籠を手に提げた木村さんが出てくる。ドアストッパーをはずして、扉の内側にくっつける。扉を閉める。がちゃんという音が階下のフロントにまで響いてくる。
 モニターの下に視線をずらす。二十一室ある部屋番号の記されたボタンが横一列にならんでおり、各部屋番号の下にはその部屋の扉や精算機と連動したボタンが三つ縦にならんでいる。二〇五号室のボタンに目をとめる。扉の施錠と開錠に対応している下から二つ目の赤く点灯しているボタンが、扉の閉まる音にほんの少し遅れて消える。消えたのを確認したところで、いちばん下のこちらもまた赤く点灯したままのボタンを押す。部屋番号のボタンが緑色に点灯し、コンピューターの操作履歴を記録するジャーナルが、電話機の横においてある機器の中でガリガリと音をたてる。ロビーの壁面に埋めこんである客室パネルの一部がぱっと光るのを、画質の粗いモニター越しに認める。
「もう完璧やな」
 機械の操作をする景人の後ろに立ち、煙草を吸いながらそのようすを見ていた塩崎さんが、昔のドラえもんのような声で言った。景人はふりかえるかわりに、ふたりの姿を斜めから俯瞰する監視カメラの映像がリアルタイムで映しだされているモニターのほうを見た。五分刈りにした塩崎さんの頭頂部は、年相応に薄くまばらになっている。昨日が誕生日で、ちょうど五十歳になった。脚と胴体の長さがほぼおなじで、顔も大きい。全体的に丸くぽっちゃりしていることもあり、なんとなく三段重ねの雪だるまのようにみえる。
「完璧や完璧や、もう教えることはなんもない」
 塩崎さんはそう口にしながら、マネージャーのデスクにもどった。サブマネージャーとして景人のフロント研修を担当することになったものの、ほとんどの時間はマネージャーのデスクで煙草を吸いながら携帯をいじくっているだけだ。ときどき思いだしたように景人のそばにやってきて、機械を操作したり電話対応したりノートに必要事項を記入したりするようすをながめるが、景人がミスをしてもしなくても「もう完璧や」と決まり文句のように口にする。優しさや気づかいからではない。さっさと景人を独り立ちさせて、これまで通り夜勤の長丁場をひとりで自由に過ごしたいのだ。
「おつかれさまです」
 ロビーに面した扉がひらき、バケツを手にした原田さんがメイクの控え室に入ってくる。景人は椅子を回転させてそちらに対して半身になり、おつかれさまです、と応じた。原田さんはバケツを足元に置くと、そのまま流しに行って手を洗いはじめた。
「おつかれさん!」
 マネージャーの椅子に腰かけた塩崎さんが、咥え煙草のまま顔もあげず、そこからは姿の見えない相手に向けて壁越しに返事をする。右手の親指で携帯のボタンを連打しながら、黒縁眼鏡の奥の柔和な瞳でスクロールする画面を追いつづけている。また海外のグロ画像サイトを巡回しているのだ。ビン・ラディンの死亡写真だと噂されるものを景人も先ほど見せられたばかりだった。
 階段をおりてくる軽い足音がする。扉がふたたびひらく。足音の主である木村さんではなく、山盛りの食器を載せた三段重ねのトレイを胸の高さで慎重に運ぶ馬場さんの長身が、二本足でおもむろに立ちあがった熊のようにぬっとあらわれる。トレイのせいで足元が見えない馬場さんは、原田さんがさっき床に置いたばかりのバケツを派手に蹴飛ばしてしまう。その衝撃でハイボール用のジョッキがトレイの上で横倒しになる。馬場さんはいったんその場に立ちどまり、けわしい表情をこしらえたまま、山盛りの食器が安定するのを待った。ふつうの人間だったらまず浮かべるはずのひやりとした表情を、馬場さんはこれっぽっちも浮かべない。
「なんでこんなとこバケツあんじゃ」
 いまいましげにそう漏らしてから、ふたたび慎重に歩みを進める。扉を開けて馬場さんが先に控室に入るのを待っていた木村さんは、足元に転がっているバケツを中腰になってひろいあげると、隣室の景人のほうに視線を向けてからおどけたように顔をしかめ、口パクでなにか言った。え? という目顔でたずねかえすと、小走りで近くにやってきて、流しのそばにあるカウンターの上に食器を置いた馬場さんのほうを指さしながら、ジジイまたはじめるで、と言う。
「原田さん! あんなとこバケツ置いとったらあかんやろが!」
 ロビーにまでとどきかねない大声で馬場さんが言った。蛇口をひねって水を止めた原田さんがふりかえり、「え?」と言う。
「あんなとこにの! バケツおいてあったらワシ! 蹴飛ばしておめえ! 食器割るど!」
「でも、吉森さんからぼく、バケツはあそこに置いとけって言われたんですよ」
「でももクソもあるかい!」
 馬場さんは怒鳴った。その口ぶりだけで、馬場さんが原田さんの言い分をうまく聞きとれていないことがわかる。
「吉森さんからな! あそこに! バケツ置いとくように! 言われたんやって!」
 木村さんが割って入る。馬場さんに話しかけるときは、大きな声でゆっくりと、文節ごとに区切るようにして語りかけなければならないことを木村さんは熟知している。まるで通訳みたいだとなにかの拍子に景人が漏らしたとき、通訳ちごて介護やろとマネージャーは半笑いで口にした。景人はそのときうまく笑えなかった。笑えなかったのではなく、笑わなかったのかもしれない。笑わない自分に気づいてほしかったのかもしれない。
「だれやて?」
 馬場さんがふりかえってたずねる。表情はけわしいままだが、木村さんを目の前にしたことで口調が少しやわらいでいる。馬場さんは、死ぬまでに一度、木村さんを寝たいと公言してはばからない。
「吉森さん!」馬場さんとおなじくらい声を張って木村さんが答える。
「吉森ィ?」馬場さんは眉間をむちゃくちゃにしかめて言った。残り少ない歯が口の中からぬるりとのぞく。まるで鍾乳洞のようだ。「あんなもんおめえ! もうおらへん人間やんけ!」
「死んだみたいに言うたらんとき!」
 ぴしゃりと打ちつけるような木村さんの言葉に、景人はおもわずふふっと鼻を鳴らした。そのようすを遠目に認めたらしい馬場さんもつられてにやりとする。馬場さんの怒りは熱しやすく冷めやすい。
「ポリん世話なったら死んだようなもんじゃ!」
 景人と木村さんを交互にながめながら馬場さんは吠えた。声の調子はすでに完全におどけたふうになっている。
「ほんなら馬場さんこれまで三回死んだことになりますね」
 孝奈ならきっとそう切りかえすにちがいないだろう言葉を、景人は椅子に座ったまま口にした。馬場さんのとなりで木村さんがほほほほほと笑った。流しにいる原田さんも笑いだしたが、当の馬場さんには聞こえていない。聞こえていないが、聞こえているふりをして周囲の反応に同調し、なんとなくあいまいな笑みを浮かべながら、白髪に覆われた後頭部をぼりぼりと掻いている。年齢不相応に豊かな総白髪は、十円玉みたいな色をした肌とのきついコントラストもあって、ほとんどとってつけたようにみえる。
「それはそれとして景人くんよ、おめえフロントは慣れたんか?」
「ぼちぼちです」
 景人はそう応じてから立ちあがり、流しのほうに向かった。食器類を部屋から回収するのは本来フロントの仕事だが、景人の足を気づかってか、同僚たちはみんななにもいわず食器を下げてくれる。そのことが少し申し訳ない。どうせひまそうにしているのであれば、せめて食器の回収にだけは行けばいいのにと塩崎さんに対して思うところもあるが、それを言えるような立場でもない。
「ちょっと慣れてきたからいうて景人くんよ、レジの金抜いたらあかんどおめえ!」
 馬場さんはでこぼこの歯茎をむきだしにして笑いながら景人の肩をポンとたたいた。馬場さんの手は大きい。景人の頭をそのままバスケットボールのようにひっつかみ、身体ごと持ちあげることもできるんじゃないかとすら思う。
「もう完璧や!」フロントの奥から姿のみえない塩崎さんが声をあげた。「もう完璧! いつでも独り立ちできる!」
 カウンターの上に置かれているトレイをシンク脇に移す。汚れた食器を一枚ずつ取りあげてシンクの底に置き、蛇口をひねって湯を出す。景人に場所をゆずる格好でシンクから一歩退いた原田さんは、それでいてその場を立ち去ろうとしなかった。ハンドタオルで手を拭いたついでに、剃りあげた頭から垂れ落ちる汗もぬぐいながら、景人の一挙手一投足をながめている。景人はあえてそちらに目を向けなかった。
「おれ、やりましょか?」
 高田さんは案の定そう切りだした。
「いやいや、これフロントの仕事ですし」
 景人は内心うっとうしく思いながら返事をした。ボロネーゼの盛られていた皿から順に、湯で汚れをざっと洗い落としていく。部屋に長いあいだ置いたままになっていたせいで、こまかい肉片がこびりついていてなかなかとれない。
「でもまだほかにおぼえることあるんじゃないですか?」
 原田さんは食いさがった。景人が断ることをわかりきったうえで食いさがってみせる、その姿勢がいちいち癪に障る。景人は返事をしなかった。顔もそちらに向けない。鼻からふっと軽く息を出し、それで返事の代わりにした。
「食器まわりはメイクの仕事ってことで、ねえ」
 原田さんはなおも続けた。あいかわらず空気が読めない。そのしつこさのせいで嫌われているのだということが、四十年以上生きてきて、どうして理解できないのだろうと思う。
「どの道さげるついでやし」
 景人は反射的に舌打ちをした。相手に聞こえるかもしれないし、聞こえないかもしれない、微妙な大きさの舌打ちだった。おなじ言葉を木村さんや馬場さんが口にしたのであれば、悪意のない気づかいとして受けとめることもできただろうが、相手が原田さんとなると、そういうふうにはいかない、うっすらと嫌味な皮肉のように聞こえる。スポンジに洗剤をしみこませてから、ハイボール用のグラスとビールジョッキの内側をすばやく洗う。湯で流すついでに、その洗剤がシンクの底に置いてあるボロネーゼの皿に垂れ落ちるようにする。洗剤を落としたグラスとジョッキを、シンクの右となりに置いてある乾燥機の中にひとつずつならべる。
 原田さんは小声で、じゃあお願いします、とだけ言い残して、カウンターの向こう側に去った。
 原田さんが去ったのといれかわるようにして、空のグラスを手にした木村さんがやってくる。洗いものをする景人の左斜め後ろにあるディスペンサーの前に立ち、グラスに冷水をそそぐと、テーブルにはもどらずその場に突っ立ったまま、日本酒でも舐めるみたいにちびちびと口をつけはじめる。馬場さんと原田さんがそろって煙草を吸いはじめたので、副流煙を避けて換気扇に近いこちらに逃げてきたのだ。
 木村さんはそのまま後ずさりする格好で洗いものをする景人の脇にそっと立つと、「福島いつ行くの」と小声でたずねた。
 マネージャーと最近またふたりで会ったのだろうと景人は思った。福島の件はマネージャーと孝奈しか知らない。ただでさえ吉森さんが抜けて人手不足におちいっているときに、またひとり抜けるということになったら、従業員のあいだできっと不満も生じるだろうから、ぎりぎりまで黙っておけとマネージャーに口止めされていた。
「わからんけどたぶん、はやくても二、三ヶ月後やと思います」
 ホットコーヒー用のティーカップとスプーンを洗いながら景人は答えた。木村さんは体の向きを反転させて、景人と横ならびになってシンクをのぞきこむような姿勢になると、せっかくフロントの仕事おぼえたのになあ、とさらに声をひそめて言った。
「社長に言われたらしいすよ、ひとり若いの寄越せって」
「社長?」
「社長の知り合いが、まあそっち系のひとでしょうけど、ひとおらんからとにかくひとりでも送ってほしいって、ほんでマネージャーにビーチからだれかひとり送りだせへんかって話あったみたいで」
「じゃあ塩崎さんでええやん」
 木村さんはさも当然のように言った。横目でその表情をたしかめるが、やはり生真面目な顔つきをしている。本気の発言なのだ。景人はちょっと笑った。
「いちおうここのサブマネージャーですよ」
「まあ、ほやけど」
「そもそも絶対役立たんでしょ、社長のツラに泥塗ることになりますよ、若くもないし」
 食器を洗ったついでに、食べかすで汚れているランチョンマットも湯でざっと洗い流す。マットの表面は防水仕様になっている。弾かれた水滴が布地にしみこまず、水滴のままばらばらと鈴なりになってシンクの底に落ち、降りはじめの雨みたいな音をたてた。
「ひとり送ったとこでまあ焼け石に水やろって感じっすけど、でもまあこういうのはメンツの問題なんちゃいます? 若い男ってぼくと孝奈しかおらんでしょここに」
「井端さんじゃいかんの?」木村さんは深夜のメイクの名前を出した。
「マネージャー頼んでもないでしょ、そもそも面接の時以外まともに顔合わしたことないって」
「ほやからって景人くん、せっかく仕事おぼえたとこやのに」
 だからこそ自分が選ばれたという側面もないことはないと景人はひそかに思った。マネージャーには塩崎さんに徒労を味わわせたいという意地悪な気持ちも少なからずあるはずだった。
 蛇口をひねって湯を止める。ハンドタオルで手を拭き、頭上の収納棚から乾いたグラスをひとつ取りだす。ディスペンサーの前に立って冷水をそそぐ。木村さんも景人の動きに合わせて体の向きをふたたび転じた。
「景人くんが納得しとんのやったらうちもごちゃごちゃ言うことちゃうけど」
 カウンターの上に置かれたディスペンサー、コーヒーマシーン、ビールサーバーの陰に隠れながら、木村さんが低い声で言った。水音でごまかせない分、声をさらにひそめて続ける。
「一ヶ月二ヶ月の話らしいし、金もええみたいやからまあええかなって、マネージャーにも世話なってますし」
 そう答えてからグラスの中身を半分ほど飲む。水がキンキンに冷えているせいで、頭がツーンと痛くなる。木村さんは片手にグラスを手にしたまま、シンクの角に腰骨をあててもたれかかっている。自分がいなくなることをさみしがってくれているのだろうかと、景人は横目でその姿をちらりと見ながら考えた。少しだけ猫背になっているが、制服の胸はつんとふくらんでいる。その胸に触れたマネージャーの手のひらを想像する。股間が少しだけ疼く。
 ふうのことを考える。
 ふうは来月、帰省する。そのあいだに会おうと言われた。福島に行くことに決めたのには、そういう事情もある。最初は留学が決まったから会えないといってごまかそうとしたが、現地の写真を送ってほしいと頼まれでもすれば一巻の終わりだ。それでなくてもボロの出てしまう可能性があるとためらっていたところ、マネージャーから福島行きの誘いがあった。ふうにはあくまでも医学部生のボランティアとして現地入りすると話した。
「えらいことや! えらいことや!」
 塩崎さんがおおげさに騒ぎながら控え室のほうにやってきた。なにを言うとんのとあきれたようにつぶやきながら、木村さんは景人の前を横切り、カウンターに沿って左に、目隠しになるもののないところまで移動した。景人もその後に続く。
「さっきのお客さん募金してった! それも五千円!」
 メイクの控え室とフロントの控え室のあいだ、扉の取りはずされて枠だけになっているそこに突っ立ちながら、塩崎さんは煙草をはさんだ右手でロビーのほうを指さした。ロビーにあるカウンターは普段無人で、呼び出しベルを鳴らされたときだけフロントスタッフが出ることになっている。カウンターの上には震災用の募金箱が置かれているが、部屋代の支払いは各部屋にある自動精算機ですませる仕組みになっているので、釣り銭などが投じられる機会はまずない。プラスチック製の透明な立方体の中に入っているわずかな小銭はすべて、ロビーに落ちていたものを掃除中にひろった従業員が入れたものだ。
「塩崎さんそれどんな客や?」
 壁際に寄せて設置されているテーブルの上座をいつものように陣どり、椅子の前脚二本を宙に軽く浮かせてロッキングチェアのようにぐらぐらさせている馬場さんが、咥え煙草のままたずねた。
「若い姉ちゃんとおっさんや、常連ちゃうと思う」
 塩崎さんはそう答えてから馬場さんのそばにやってくると、テーブルの上に置かれている灰皿に煙草の灰を落とした。木村さんと変わらないくらい背の低い塩崎さんは、座ったままの馬場さんとならんでも目線の高さがそれほど変わらない。
「ほんならおめえ、デリの前でかっこつけとるだけのの、まあしょうもないやつや!」
「ぼくも見てましたけどモニター、あれデリじゃないですよたぶん」
 ロビーに続く扉を背にして突っ立ちながら煙草を吸っていた原田さんが割って入った。馬場さんの言葉を受けての発言であるが、その目線は椅子をぎったんばったんさせている相手の横顔を通過し、カウンターの向こうにいる景人と木村さんのほうに向けられている。
「募金なんかする金あるんやったらワシらにおつかれさまです言うて置いてけバカタレ!」
 馬場さんが大声で吠えた。吠えたあとに景人と木村さんのほうを横目で見てにやりと笑ってみせる。原田さんの声がまったく聞こえていないのだ。
「デリやったら荷物もっと多いでしょ、ちっさいポシェットひとつだけでしたから、あれはちゃいますよ」
 返事をしてもらえなかった原田さんは、わざわざカウンターのほうにいる景人と木村さんのそばにまでやってきて言葉を続けた。木村さんは返事をせず、原田さんの手にした煙草の先端からただよってくる煙を顔の前でさっと払った。

 腹筋を酷使する。プロテインを飲み、トーストを食し、歯磨きをしながらジャンプ+の更新をチェックしたのち、ベッドに移動して『ラオス現代文学選集』(二元裕子・訳)の続き。チャンティー・ドゥアンサワンの「深い森の中の一夜」と「ノビ大尉の運命」、ブンタノーン・ソムサイポンの「放鳥」と「墓地の隣の飲み屋」と「骨壺」、ブンスーン・セーンマニーの「故郷を離れて」と「生と死」と「少年僧の夢」と「金持ちの病」、フンアルン・デーンビライの「古い絹のシン」と「酒と人々」と「用水路の開通」を読む。小説としてはやっぱりどれもこれもかなり素朴だなァという印象。扱われているテーマはヘビィなものばかりだが。