20230614

「ああおれはどうしても信じられない。どうしても信じられない。ただ考えて、考えて、考えるだけだ。二郎、どうかおれを信じられるようにしてくれ」
夏目漱石「行人」)



 10時半起床。第五食堂でメシ打包。狂戦士の食事後、コーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書いていると、四年生の(…)くんから微信。「卒業写真を取っていくので、1時半ぐらい先生の寮へ行きます」というのだが、メッセージが届いたのは1時5分。あいかわらず急だ。いまさら卒業写真を撮りたいのだろうかと思いつつ、時間になったところで部屋を出る。外に出ると、留学生の黒人男性と長身スキンヘッドの中国人男性が談笑している。後者は妻らしい女性とふたりでいっしょになかむつまじく歩いているのをよく見かける。ペットの猫がいるのも知っている(ふたりの住んでいる部屋の扉がひらくなり、猫だけがちゃちゃっと外に出てきて、茂みで小便をする姿をかつて目撃したことがある)。外国人寮という名前になっているものの、うちの寮には実際外国人教師と留学生のほかに中国人教諭も住んでいるので、彼もおそらく教員なのだろう。しかし思っていた以上に流暢な英語だった。もしかしたら留学経験があるのかもしれない。
 寮の外に(…)くんがいる。A4サイズのラミネート加工された写真を渡される。以前図書館前で撮影した集合写真。(…)のほうの写真はデータで送られてきていたが、(…)のほうはずっと音沙汰がなかった。こういうかたちで手渡されるのは意外だった。「卒業写真を取っていくので」ではなく「卒業写真を持っていくので」ということだったのだろう。そのまま軽く立ち話。就職が決まったという。職場は広州。TOYOTA中国企業が共同出資してつくった子会社のようなところ。996ではない。週休二日で、ときどき残業はあるものの、その分のお金はちゃんと出る。月給換算するとだいたい6000元ほどだという。決して高給というわけではないが、生活に困るレベルでは全然ないし、くりかえしになるが996でもないし、いまの新卒の失業率や労働環境の悪化を考えると、これは大金星といってもいい成果だ。仕事内容は翻訳が八割で通訳が二割とのこと。運動チックがけっこう激しい(…)くんとしては通訳より翻訳メインの仕事のほうがありがたいはず。とりあえず一年契約だというのだが、仮に一年で切られたとしてもキャリアとして残るので、その後の転職も有利に運ぶだろうという。中国では現在どの企業も新卒を欲しがらないという。とにかく即戦力の人間がほしい。新卒はまず能力がない、さらに仕事をすぐにやめる可能性がある、そういうわけで企業としてはなるべく採用したくないのだという(実際、そういう理由で(…)くんもほかの企業からバンバン断られたという)。前回会った時点では広州の企業はほぼ全滅、こうなったら(…)にあるオンラインビジネスの企業に勤めてAmazonにあやしいブツを出品するだけのクソつまらない仕事に従事するしかないという暗い見通ししかなかったわけだが(そしてその手の企業にすら実は断られたのだと(…)くんは言ったが)、いやはやねばってみるもんだ、(…)くんの粘り勝ちだ、マジでおめでとうといいたい。
 日本語学科の就職率が学内ワースト二位だという話になる。ワースト一位は芸術学院らしい。そりゃそうだ。しかし今日、グループチャット上で(…)外国語学院長が日本語学科の四年生からあらたに二十名就職が決まったという通知があったらしい。そのなかに(…)くんの名前があったので、就職が決まったのかと彼にたずねると、決まっていないという返事があったとのこと。(…)先生が先日言っていた、数字の上だけでも就職率を高くみせるためのデータ改竄だろう。ちょっとコーヒーでも飲みますかと誘われたが、これからスピーチの練習がひかえているのでと断った。(…)くんはきのう卒業証書ほかをもらうために大学にもどってきたところらしい。そして今日ふたたび大学を発つという。元気で、また状況が変わったら連絡をちょうだいね、と別れる。
 ついでなので(…)に声をかける。片言の中国語で、明日郵便局にいって(…)さんの荷物を送る、だから荷物の確認をしたい、荷物が置いてある部屋の鍵を貸してほしいと伝える。鍵を受けとる。一階の空き部屋に入る。ボロボロの段ボールの中身をチェックする。郵送不可となるようなブツは入っていない。今度こそきっと無事郵送することができるはず。
 鍵を返却して部屋にもどる。身支度を整えてからあらためて出発。第五食堂でミネラルウォーターを買ってから外国語学院へ。四階の廊下で(…)さんとばったり出くわす。部屋の鍵は彼女が持っている。入室。だれもいない。しばらくふたりで筆談込みで雑談する。彼女の故郷は遼寧省であるが、大連のような大都市ではなく田舎のほうらしい。遼寧省だったら海鮮がおいしいでしょうというと、彼女自身は海鮮が好きではないという返事。蟹が有名だというので、でも高いでしょう? とたずねると、高くないという返事。海にいる蟹ではない、「稲田」にいる蟹だというので、ああそういう種類のねとなる。
 やや遅刻して(…)さんがあらわれる。(…)くんは姿をみせない。練習前に今日は先週とおなじく14時半からですよねという確認の微信を送って寄越したのにどうして遅刻するんだと思ったが、のちほど微信が届いていることに気づいた、14時半からコンピューターの授業のテストがあるという。しかしさらにのちほど、これは彼の勘違いであることが判明した、テストは16時半からだった。そういうわけで30分ほど遅れて彼もやってきた。そして17時終わりを待たず、コンピューターの試験を受けるために部屋を出た。
 今日も先週にひきつづき発音練習。(…)さんの「携帯電話」と(…)くんの「私にとっての日本語専攻」をひたすら朗読する。先週、なにぬねのとらりるれろの区別があいまいだった(…)くんであるが、たった一週間でほぼ完璧になっていたので、これにはめちゃくちゃびっくりした。毎日練習しまくったらしい。偉い! すばらしい努力家だ! そういうわけで褒めまくっておいた。先週はコロナで練習を休んでいた(…)さんであるが、今日やってみた感じ、やはり発音はけっこういい。少なくとも(…)さんとは大きな差がある。仮に(…)くんと代表の座を争うことになっていたとしても、(…)さんのほうに軍配が上がるだろうなというのが率直な印象。ただ、こちらの想定していたよりも語彙が乏しいし、聞き取りも一部あやしいところがある(そういう基礎能力全体でいえば、(…)くんのほうが上だろう)。なにぬねのとらりるれろも、一般的な(…)人ほどではないが、やはりちょっとあやしい。三人そろって苦手なのはやはりモーラの意識と長音。拗音については、(…)くんはほぼ問題ないと思うが、残りふたりはけっこうあやしい。特に、「りゃ・りゅ・りょ」が鬼門かなという感じ。さらに(…)さんは促音もけっこうあやしいし、アクセントもよく狂う。たぶん音感やリズム感があまりないタイプなのだろう。そういう意味ではおなじ遼寧省出身の(…)さんとかぶる。
 途中、他の先生たちの練習はどうかという話にもなった。(…)先生がどうかは聞きそびれたが、(…)先生の指導はあいかわらず無意味だと三人ともいう。しかし今年はいちおう彼女も作文の添削をしているらしい。あくまでもいまのところはだが。(…)先生の指導はとてもまじめだと(…)くんはいった。これはなかなか意外だ。

 スピーチの練習がすんだところで(…)さんの会話試験。「思い出の写真」としてボーダーコリーの(…)の写真。それから「他人の悪口」として、英語学科のルームメイトの話。ルームメイトの当たりが強いという話は以前も聞いたことがあるが、今回二度目のコロナ感染に際して、(…)さんは寮で一週間ほど横になっていたらしいのだが、くだんのルームメイトは彼女が40度近い熱にうなされているにもかかわらず夜遅くまでやかましく騒ぎ立てていたり、呼吸のしづらい彼女にたいして就寝中もマスクをしろと強要したりと、かなりしんどかったという。予定ではこのテストの機会をつかまえて今学期の授業態度についてちょっと詰めてみるつもりだったのだが、(…)さんが同席していたためそれもできなかった。まあ、いいか。彼女の会話の成績は「優」ではなく「良」にするつもりなのだが、もしかしたら本人からその点について抗議があるかもしれない、そのときに応じればいい。
 教室を出る。ケッタにのって(…)へ。食パン三袋を購入。それから第三食堂でハンバーガーを打包。おなじく食堂で打包する(…)さんの姿を見かける。帰宅後、狂戦士のメシ。仮眠をとり、シャワーを浴び、ストレッチをする。(…)一年生の(…)さんから町で見かけたゴールデンレトリーバーの写真が送られてくる。
 ウェブ各所を巡回し、2022年6月14日づけの記事を読み返す。2013年6月14日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲する。以下のくだり、なつかしい。やっぱいつかはまた京都にもどりたいな。ま、同じ京都市内に住むのもつまらん話だし、もどるとしても(…)夫妻が住んでいる宇治に行ってみるのもいいかもしれんが。

円町に住んでいたころ、39度の室温にたえきれず、最寄りのミドリ電化エスカレーター付近にあるベンチに書物片手に避暑してすごしたことが何度かあったが、何日か通いつづけているうちに、まったく同様の発想から連日おなじベンチに腰かけている人物がひとりいることに気づいて、そのひとはホームレスだった。京都でホームレスをするのは至難のわざだ。ミドリ電化での避暑をくりかえしていた夏、都市でサバイバルするというコンセプトをひらめいたことがあったが、同じようなことを今日もまた考えた。ある目的のためにしつらえられてある環境をその目的からずらしたところで利用する、機能のおこぼれにあずかるのではなくその機能自体を曲解してしまう、子供が横断歩道の縞模様を足運びのためのゲームとして作り替えてしまうように、都市の機能をみずからがサバイブするためのインフラとして作り替えてしまう。大学時代のクラスメイトでひとり、アパートにネットがないからという理由でわざわざ深夜に大学の近所にまで向かい、無線LANをひろってエロ動画をダウンロードしていた強者がいたが、要するにそういうことだ。

 あと、この日の記事には「芸術とは掟を破る瞬間の閃光である。」というアフォリズムも残されていた。
 21時から0時まで「実弾(仮)」第四稿。プラス6枚で計574/1016枚。シーン29は完成。シーン30の途中まで進める。ここ数日はなかなかいい感じ。集中できているし、加筆箇所もなかなか冴えている。やっぱ毎日書く必要があるなとあらためて思った。途切れてしまうとダメだ。
 そう書いたところで思ったのだが、中国語の勉強もまた途切れているのだった。期末のバタバタやコロナ感染でおかしくなっちまったんだなと思いながら過去日記をさかのぼってみたのだが、勉強を開始しようと決めたのが3月19日、その後毎日とはいわずともコンスタントに勉強を続けているのだが、5月に入ったところでほぼ完全にストップしてしまっている。なにしとんねん。10年前のじぶんは毎日しっかり英語を勉強している(主に性欲に衝き動かされてだが!)。今週で通常授業も終わるし、ぼちぼち再開するか。というか10年前そうしていたように、プライオリティをまず語学に置く、で、一日のノルマなりタスクなりを終えてあまった時間をいわばご褒美というかたちで執筆なり書見なりに割くことができるというシステムで回していったほうがいいかもしれない、そのほうがモチベーションを維持しやすいというか、義務としての語学により積極的に取り組むことができる気がする。ただし、その場合はノルマを高くしすぎないように気をつけないといけない。10年前とはちがって、いまはノイズ——他者からの介入やアプローチをこういう言葉であらわしてしまうじぶんは何様なのだろうとも思うが——の多い暮らしを送っているので。二時間から三時間程度で片付く量を設定するのが吉か。
 夜食はトースト二枚。プロテインを飲み、ジャンプ+の更新をチェックし、歯磨きをすませる。それから今日づけの記事も途中まで書いたところで、明日からはじめるというやつはその明日になった途端意気を喪失している可能性が高いので、その明日への弾みをつけるためにも、今日と明日を地続きにするためにも、やるべきことをちょっとだけでもやっておいたほうがいいと思い、ひさしぶりに『本気で学ぶ中国語』をひらいた。それで第18課をちょこっとだけ進めた。
 寝床に移動したのち、『囚われた天使たちの丘』(グエン・ゴック・トゥアン/加藤栄・訳)の続きを読み進めて就寝。この小説、なかなかくせもんだわ。