20230618

 坊さんの名はたしか香厳(きょうげん)とか云いました。俗にいう一を問えば十を答え、十を問えば百を答えるといった風の、聡明霊利に生れついた人なのだそうです。ところがその聡明霊利が悟道の邪魔になって、いつまで経っても道に入れなかったと兄さんは語りました。悟を知らない私にもこの意味はよく通じます。自分の智慧に苦しみ抜いている兄さんにはなおさら痛切に解っているでしょう。兄さんは「全く多知多解(たちたげ)が煩(わずらい)をなしたのだ」ととくに注意したくらいです。
 数年(すねん)の間百丈禅師(ひゃくじょうぜんじ)とかいう和尚さんについて参禅したこの坊さんはついに何の得るところもないうちに師に死なれてしまったのです。それで今度は潙山(いさん)という人の許(もと)に行きました。山は御前のような意解識想(いげしきそう)をふり舞わして得意がる男はとても駄目だと叱りつけたそうです。父も母も生れない先の姿になって出て来いと云ったそうです。坊さんは寮舎に帰って、平生読み破った書物上の知識を残らず点検したあげく、ああああ画に描いた餅はやはり腹の足にならなかったと嘆息したと云います。そこで今まで集めた書物をすっかり焼き棄ててしまったのです。
「もう諦めた。これからはただ粥を啜って生きて行こう」
 こう云った彼は、それ以後禅のぜの字も考えなくなったのです。善も投げ悪も投げ、父母(ちちはは)の生れない先の姿も投げ、いっさいを放下し尽してしまったのです。それからある閑寂(かんじゃく)な所を選んで小さな庵を建てる気になりました。彼はそこにある草を芟(か)りました。そこにある株を掘り起しました。地ならしをするために、そこにある石を取って除(の)けました。するとその石の一つが竹藪にあたって戞然(かつぜん)と鳴りました。彼はこの朗かな響を聞いて、はっと悟ったそうです。そうして一撃に所知を亡(うしな)うと云って喜んだといいます。
夏目漱石「行人」)



 朝方に電話で目が覚めた。中国人のおっさん。「水」という単語がききとれたので、bottle waterが配送されたのだなと察する。きのうの夕方に注文にしておいたのだ。配達人が変わったのか、以前はミニプログラムで注文後、玄関先に空のbottleを置いておけば、勝手に新品を持ってきて勝手に空のbottleを回収してくれたのだが、ここ二、三回は、配達人が到着するたびにいちいちこちらに電話を寄越すので、ちょっとうっとうしい。玄関のドアをあける。配達人の姿はなかったが、あたらしいbottle waterは届いていたので、そいつだけ部屋に回収してベッドへ。二度寝には少々てこずった。
 てこずったせいで次に目が覚めると13時をまわっていて、マジか! いよいよ夏休みらしくなってきたな! という感じであるのだが、15日の飛行機は早朝7時台の便であるので、その日までになるべく朝方生活に転じたい。いや、その前に夏休み中のスピーチ練習があるのだった、あれもおそらく午前中からするはめになる。クソだるい。
 こんな時間から食堂に出向く気になれない。夕飯が17時であることを考えると、むしろもうなにも食べなくてもいいんではないかとすら思う。そういうわけで空きっぱらにコーヒーだけそそいできのうづけの記事の続きを書く。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年6月18日づけの記事の読み返し。夏目漱石「趣味の遺伝」より「陽気のせいで神も気違になる。」という一節が引かれていて、おお、かっこいいな、と思った。それから以下のくだり。アホすぎて笑う。

 便所でうんこしている最中、ROM専(死語)アカウントでTwitterをのぞいたところ、日本のどこかで金色のおたまじゃくしが見つかったというニュースがトレンドになっていた。「金色のおたまじゃくし」ということは略して「キンタマ」だなとほくそ笑んでいたところ、アイコンを一目見ただけで救い難き凡夫であることが分かる無数のアカウントらが同様の趣旨をツイートしているのを発見、おれはこの連中と同レベルなのかと実存に危機が走った。「清濁併せ呑む」とか「酸いも甘いも噛み分ける」とかその手の慣用句で言い表される何事かをひとよりはおそらく高純度で生きてきたほどなくして37年になろうというこの生涯からひねりだされた渾身の独り言が、2ちゃんねる/5ちゃんねる/なんj文体をあやつるアニメアイコンどもと同期するとは! 時代が時代であれば切腹ものの屈辱だ。

 2013年6月18日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。 作業のあいだは『Boy Meets Girl』(ENDON)、『Lucy & Aaron』(Aaron Dilloway & Lucrecia Dalt)、『The Gag File』(Aaron Dilloway)とたてつづけに流す。

 今日づけの記事もここまで書いたところで、ひさしぶりに部屋の掃除をする。いいかげんフローリングのほこりが看過できないレベルになっていたので。コロナ感染以降、たびたび痰がからむのだが、部屋の掃除をすればそれもちょっとマシになるかもしれないというあたまもあった。掃除機をざっとかける。ついでに、デスクの上や姿見の表面や椅子の脚など、目立つところだけ雑巾で拭いておく。
 すんだところで、夕飯の時間までまだ少しあったので、『究極中国語』をぶつくさやる。それから第五食堂で打包。起きたのが遅かったので、食後は仮眠をとらずに万达のスタバへ。コーヒー片手にKindleでポチった『エレクトリック』(千葉雅也)を読む。雑誌掲載時にウェブで冒頭のみ試し読みしたときも思ったが、全然これ見よがしではない、言ってみればごくごく普通に読めてしまうような自然な流れで、しかし時空がぽんぽんぽんぽん切り替わりまくっている最初の段落がすごくいい。

 手を近づけると、紙が後ろにスッとさがった。
 レシートを折って折り目を奥にし、こちらへと図書館の古びた書物が開かれているみたいに、あるいはそれがひとりでに閉じようとしている、みたいにその小さな紙きれを机に立てた。そして達也は息を呑み、指を揃えて左、右の頰をなでて前に下ろすと、レシートは後ろにスッとさがった。空気を少しも揺すぶらないように、静かにすばやく手を下ろした。なのに、紙が動いた。
「ハンドパワーです」
 と、サングラスをかけたマジシャンがテレビで言った。
 それを見た芸能人たちは自分でも試してみて、ほんとだ、すごい! と口々に騒ぎ立てるのだが、その秘密を尋ねてはいけないらしく、ただ「ハンドパワーですか」、「ハンドパワーですねえ」と繰り返すばかりである。
「誰にでもハンドパワーはあるんです」
 マジシャンはみずからの目を、何ひとつ浮かんでいない宇宙の途中のような闇で塗りつぶしたまま言った。
「どんなに悲しいときでも、大変なときでも、あなたには不思議な力があるのだと思い出してください。握手は大切ですよ。力が伝わります」
 それは夏の終わりだった。
 ひどい雷の日があった。栃木県宇都宮市はなぜだか雷が多く、「雷都」と呼ばれたりする。というのは地元の人間しか知らない話で、ここを「みやこ」だとそれとなく言いたいところに田舎者のプライドがかいま見えるわけだ。
 外の明るさが急に変わり、猛獣のようなうなり声が始まる。部屋は電気を消したように暗くなった。
 達也の母は、幼い頃、雷が来ると蚊帳の中に逃げ込んだのだという。
 母のその思い出を、達也は夏になるたびに思い出す。蚊帳の網は緑色。空き地を囲うフェンスのような緑色。雷様の怒りは、その囲まれた中だけは避けてくれる。これが科学的に意味がないのはもちろんだが、子供は何かに囲まれていれば安心するものである。
 両親がいつから二人で寝なくなったのか、達也は忘れてしまった。
 幼い頃は、両親と川の字で寝ていたのだと思う。
 その三本の線を真上から見ている、見たことがないはずの光景を思い浮かべる。

 まず、達也によるレシートと両手の指を使った実験の描写がある。そこにMr.マリックをモデルにしたとおぼしき人物のテレビ内でのやりとりが続くことで、達也の行為がテレビを真似たものであることが遡及的に理解されるのだが、そのテレビ内でのやりとり(および達也によるその視聴体験)が、英語でいうところの大過去であることがわかるしるしを用いず、「 「ハンドパワーです」/と、サングラスをかけたマジシャンがテレビで言った。」と地続きに接続されているために、読者は達也の実験がテレビ放送のあとにおこなわれているものなのか、それともテレビ放送を見ながら同時に行われているものなのか、判断を下せず宙吊りになる。その宙吊りを解決しないまま、「それは夏の終わりだった。」という時空を限定する定型的なフレーズがすぐさま改行して挿し込まれる。しかしこれも、達也がハンドパワーを試した日が夏の終わりなのか、テレビでハンドパワーを見たのが夏の終わりなのか、あるいはそれ以降に続くかたちで記述される別のできごと(「ひどい雷の日」)が夏の終わりなのか、やはり決定することはできない。そしてその宙吊りが解決されないまま、記述はそれ自体が一種の切断のしるしである改行を多用しつつ、「雷の日」のこと→暗くなる部屋の描写→雷におびえて蚊帳に逃げこんだ幼い母の話(+「子供は何かに囲まれていれば安心するものである」という超越的な視点からの分析的記述)→両親が幼い達也を囲いこむようにして三人川の字になっていたころの記憶(とそれを思い返すいま現在)と、記述内容とそのレイヤーが連想的に横滑りしていく(さらに補足するなら、この時点ですでに「電気」「性」「幽霊」(=見たことがないはずの光景)と、主要モチーフがすべて出揃っている!)。ほとんど行単位で記述の次元におけるいま・ここが動いている——レイヤーが切り替わっている——のだが、そういうめまぐるしさを感じることなく普通に読めてしまう。技巧が宙吊りを読者に対する一種の負荷として強いる方向にではなく(そうしたやりかたはしばしばここに技巧があり創意があるぞという主張になる)、宙吊りを宙吊りとして意識せずに読むこともできる「流暢さ」の確保という方向に割かれている。それがすごくいい。同様の技巧はほかの箇所にも認められるのだが、書き出しで印象に残りやすかったというのもあるのかもしれない、冒頭のこのくだりがもっともすばらしいと思った。
 それから、笑い声の癖を同級生に小馬鹿にされていることをKから知らされるというくだりが特に顕著だったが、事前にこのようなできごとがあったと概略的に触れられていたものが、のちほどあらためて、そうと知られる文脈のなかにではなく(いまからさっきちょっと触れたできごとをあらためて紹介します的な断りなどはいっさいなく)、別の文脈のなかで詳細に語られるという箇所もいくつかあって(「情報」として言及されていたものが、のちほど「描写」としてあらわれる)、そういうのもうまいなァと思った。
 あと、これは『デッドライン』を読んだときも思ったことであるけれども、こんなに繊細に嗅覚を働かせている作家、マジでほかにいないんじゃないかと思う(『デッドライン』はそれにくわえて触覚もすごかった、あれをはじめて読んだとき、じぶんがいかにもののにおいや手触りに無頓着であるかなかなかけっこう痛感したし、触覚と嗅覚というものがいかに性的であるかほとんどはじめて知ったような気分になった)。なにかを描写をするにあたって、においにここまで頻繁に言及し紙幅を割く作家って、ちょっと思いつかない(と書きながら、味覚と嗅覚をほぼ喪失しているじぶんの現状を思う)。
 比喩もいい。「麦茶のコップを通ったような光が満ちている寝室」とか「年明けに阪神・淡路大震災があり、高速道路があっけなくウエハースのように割れて車の粒々が落ちかけている映像はショッキングだった」とか「佃煮みたいに固まったオールバック」とか「わら半紙。このしみったれた灰色の、ざらざらした紙が達也は大嫌いだった。田舎の汲みとり便所の紙みたいな。」とか「パンツから取り出したものは、しぼんでいて、蝉の抜け殻のように身をかがめていた」とか。特に「麦茶」とか「佃煮」とかこういう暮らしの体臭がしみついた生活感しかないようなワードをチョイスしているにもかかわらず、ふしぎと上品さを失わないのがすごい。
 『エレクトリック』を読み終えたあとは、『臨床社会学ならこう考える――生き延びるための理論と実践』(樫村愛子)の続き。第二章「「資本主義の言説」(ラカン)と「新しい心理経済」(メルマン)」を読む。
 それから店を出る。もうかれこれ一ヶ月ほどスタバ店内にあるトイレが使用中止になっている。なぜ修理しないのか。できないのか。店を出てフロアを移動し、万达のトイレで小便をぶっ放す。それからケッタに乗って帰宅。(…)に立ち寄って食パンを三袋買ったのだが、夜遅い時間帯におとずれることはあまりないので、レジに入っていたおばちゃんが知らないひとだった。こちらが外国人であることにも最初気づいていないふうだった。

 帰宅。シャワーを浴び、ストレッチをし、今日づけの記事の続きを書く。出前一丁をこしらえて食す。味覚はやはり微妙にもどりつつある(体感20%ほど)。それに対して、嗅覚はまだまだ回復には遠い(体感5%ほど)。スープのにおいは全然わからないのだが、口のなかに入れてみると、これはたぶん塩味だな、これはたぶん旨味だな、というふうにおおまかな方向に見当はつくという感じ。けれども味わうという行為には本来味覚のみならず嗅覚も視覚も動員されるものであるのだから、その嗅覚をほぼ失っている現状、結果として、食を味わうことはまだまだ全然できていない。というか味覚はまだしも、視覚や聴覚とならんで風景を構成する主要な知覚であるところの嗅覚を喪失しているにもかかわらず、キャンパスを歩いているときも街中を移動しているときも、なにかが欠落しているという物足りなさを特にともなうことがない、世界を感受するためのすべがたしかに失われているはずであるのにリアリティが失われたという印象をもつこともない、そういうじぶんがちょっと変だと思う。これまでいかに嗅覚というものをがさつにあつかってきたか、そこに重きを置いてこなかったか。
 0時半から『本気で学ぶ中国語』。2時になったところで中断し、ベッドに移動。『囚われた天使たちの丘』(グエン・ゴック・トゥアン/加藤栄・訳)の続きを読み進めて就寝。