20230723

 朝方に(…)の吠える声で何度も目が覚めた。まだ7時台だった。どうやら父がさっそく庭のスロープを作り直しているらしく、いっしょに庭に出た(…)が父が庭で仕事をするときはいつもそうするように、きゃんきゃんきゃんきゃん高い声で吠えているのだった。
 どうにか二度寝して次に目が覚めると時刻は正午近かった。父は庭のスロープをすでに改造し終えていた。それから玄関の段差について、以前車の後部座席の乗り降りに使用していた座椅子をスロープ代わりに使えばいいのではないかといった。実際に設置してみた。それだけでは(…)の体重に耐えられないので、スロープ代わりにした背もたれの裏側に土嚢を積んで支えとしたが、はたしてそれで(…)が自在にのぼりおりできるかどうかはわからない。ひとまずこれで様子見して、やはりだめそうであれば、明日届くことになっている柵で玄関を封鎖しようということになった。
 歯磨きしながらスマホでニュースをチェックしてめだかに餌をやる。蜂の水が目当てであるのか、たびたびアシナガバチのようなやつが寄ってくる。スリッパで叩き潰してやりたいのだが、いつも逃げられてしまう。メシは冷食のパスタ。食後、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年7月23日づけの記事を読み返す。以下は2020年7月22日づけの記事より。GPT-3についてはじめて知った日。

間借りの一室へ。ニュースをチェックしていたところ、GPT-3という言語ジェネレーターがやばいという記事に行き当たった。少なくとも英語圏では、「1880年代の作家に「Twitterにいることの重要性」という小説を書かせ」ることに成功したり、「「アンデス山脈ユニコーンの群れが発見された。ユニコーンは英語を完璧に話すことができた」という衝撃的なニュース」を書かせることに成功したりしているらしい(後者の「内容はあまりにも自然で、ユニコーンが登場する以外は違和感ゼロです」とのこと)。「人間が書いたものと見分けが付かないぐらいに精度の高い文章を生成できる言語モデル「GPT-2」」(2019年公開)の時点で、「その優秀さゆえに開発陣からすら「危険すぎる」と問題視され、技術的な詳細を記した論文の公開が延期された代物」らしいのだが、「「GPT-2」でもパラメーターは15億個」だったところ、「新バージョンである「GPT-3」は1750億個のパラメーターを持つ」とのこと。また、これを使えば、自然言語からコードを自動生成することもできるらしく、英語圏Twitterなどでその実例がわんさかアップされているようであるのだが、これってつまり、プログラミングに関する知識がほとんどなくても、アイディアだけぶっこめば簡単にアプリを開発することもできるというわけだろうか? やばいな、すごいことになってきたな、という感じだ。最近のAIはだいたいオンライン上のデータを食わせて成長させる方式だったはずなので、そうなるとやっぱり英語が最強ということになるのだろう。そして次点が中国語。分母は英語のほうが圧倒的に上だが、中国は個人情報(データ)をまるごと搾取できるというチートがある。シンギュラリティは想像以上にはやくおとずれるのではないか? カーツワイルは2045年と予想しているが、それよりも十年くらいはやいのでは?
もう十数年前になるが、ブライアン・イーノが音楽の未来について語っているインタビューをウェブで読んだ。そこでイーノは、作曲はいずれAIによる自動生成がメインとなるだろうし、そのような未来においては同じ楽曲をくりかえす聴くという聴取の作法も失われるだろう、未来の人間は「どうしてむかしの人間は同じ曲をくりかえし聴いていたの?」と疑問に思うことだろうみたいなことを語っていたが、これについては当時から半分賛成半分反対というのがこちらの立場で、たとえば作曲がAI任せになるということはおおいにありうる。それからショッピングモールやレストランなどで使用するいわゆる「BGM」が、リアルタイムで切れ目なく生成され続けるシームレスな音楽という形式をとることもありうるだろう。しかしある楽曲を個人がくりかえし何度も聴取するという作法自体はなくならないだろう——というのがこちらの考えだ。
将来的には、というか技術的にはおそらく現時点でも可能だと思うのだが、AIに自然言語で指示を出す作曲方式が一般化するだろう。たとえば「ceroっぽい曲」と指定するだけで実際にceroの楽曲データを食ったAIがそれらしい楽曲を自動生成する。もっといえば、「『Obscre ride』以前のceroっぽい楽曲」と指定することもできるだろうし、「中村佳穂の“そのいのち”をベースにしつつ(60%)、『Obscre ride』以前のceroと、モーツァルト弦楽四重奏曲と、YouTubeにあがっているこのテレビ番組の音声データをそれぞれ10%ずつでブレンド」と指定することもできるだろう。つまり、作曲行為が、素材を集めてそれを独自の配分で調合する、錬金術の体裁をとる日がいずれ来るだろう、そしてそのときは、じぶんもそのような作曲行為にぜひともたずさわろうではないかと、イーノのインタビューを読んだ当時妄想気味に決意したものだったが、同じことが小説でできるようになるのはもっとずっと先だと思っていた。でも、その認識が今日変わった。小説の執筆もまた、おそらくはじぶんの生きているあいだに、そのような錬金術の体裁をとることになる。
これは悲劇だろうか? 第二のラッダイト運動に出るべきだろうか? かならずしもそうとはいえない。AlphaGoが世界トップ棋士に敗北し続けた折だったと思うが、囲碁界の常識では考えられないような手を連発したAIの挙動を見た韓国か中国のトップ棋士が、囲碁にはまだまだ知られざる未知の領域があるとその結果をポジティブに受け止める発言をしていた。先頃史上最年少で棋聖となった藤井聡太もAIを学習に取り入れているという話だ。小説も音楽もこのような影響を確実に受けるだろう。生成に当たってパラメータを指定し(素材の選別と配合)、生成されたものを微調整する、あるいはそのようにして生成されたものからインスピレーションを得て小説を書く——それが制作の新しいかたちになりうることは間違いない。けれども同時に、それは唯一の制作方法となることも決してないだろう。「身体」の見直しが当然起こるはずだ。文学にかぎっていえば、「私小説」および「日記」が(「身体」を代表する)カウンターとして機能するかもしれない。

 今日づけの記事もここまで書いた。時刻は14時過ぎだった。授業準備にとりかかる。日語会話(三)の第24課、ひとまず片付く。応用問題をもういくつかこしらえる必要があるが、それは直前でも十分に間に合うので、いったんここまでということにしておく。庭に植えているレモンの収穫したやつを母が輪切りにして蜂蜜で漬け込んでいるのだが、そいつを炭酸水にぶちこんでレモンスカッシュにして飲む。(…)がめずらしくバスタオルをくわえてやってきたので、力を加減しつつ引っ張り合いをする。バスタオルとは別に、引っ張り合い専用のおもちゃもあった。放っておくと(…)が噛みちぎってしまうので、ふだんは(…)の手の届かないカーテンレールにひっかけてあるのだが、そいつでも軽く引っ張り合いをする。あまり遊びすぎると負担になってしまうので、途中で中断してそのあとはマッサージをしてやった。マッサージをしている最中、母から小中校時代の同級生である(…)の父親が死んだという話を聞いた。癌だったらしい。ずいぶん前から闘病していたのか、余命宣告を受けていたのか、そのあたりのことはよくわからないが、いずれにせよ思い出作りをしっかりしておこうというわけで、生前はあちこち出かけていた模様。(…)の弟はこちらの弟の同級生で、漢字はわからないが(…)という。小学生のときから暴力的な傾向があり、しょっちゅうクラスメイトを泣かすいじめっ子でかなり嫌われていたのだが、そういうタイプの人間はだいたい中学に入ると同時にいじめられっ子になる。(…)も例に漏れず、中学時代にはいじめをきっかけにたしかひきこもりになったはずなのだが(ちなみに同じ団地に住んでいる弟の同級生の男子は(…)のみならず(…)も(…)もひきこもりになっており、こちらの弟もひきこもりでこそないものの高校卒業からいまにいたるまでほぼニートとして暮らしているわけで、風水的にこの土地この年代はやばいんじゃないのかとよく(…)と冗談を言っていたのだが、ところで唯一、(…)という同級生だけは無事に高校も卒業して就職して結婚してという田舎の価値基準に照らしていうところの「まともな」ルートをたどっていたのだが、その(…)も実は最近離婚して実家のほうにもどってきたらしい)、もうかれこれ十年以上前になるだろうか、リサイクルショップで釣具を万引きして弁当持ちになったところ、おなじ店でまた万引きしようとして捕まり懲役を食らったのだったが、母が(…)の散歩ついでに(…)母と(…)家の前で立ち話をしていたところ、その(…)が煙草をくわえておもてに出てきたという。そのとき(…)母が、(…)ちゃんあんただいじょうぶかん? と声をかけたのを不思議に思った母が、後日別の機会に、(…)くん犬苦手なんやったっけ? とたずねたところ、これ秘密にしといてなという前置きとともに、(…)ちゃんもう目ェ見えやんのさという告白があったという。糖尿病らしい。視力を失うまでずっと放置していたのだろうか?
 ちなみに、(…)のほうは結婚し、われわれの団地から道路を一本はさんだ向こうの新興住宅地に住んでいるとのこと。弟の同級生である(…)もそうらしいし、(…)の二番目の姉である(…)ちゃんも離婚前は実家に近いアパートに住んでいたわけで、やっぱり実家の近くに家を建てるなり借りるなりしてそこで暮らすというパターンがこの田舎では多いようだ。また、うちの実家の向かいにあるうちについて、新婚夫婦が新築を建てて引っ越してきたその直後に離婚していまは元旦那がひとりで住んでいるようだと、これは以前出国する前にも聞いていたし、実際駐車場に車が一台だけ停まっているのもよく見たわけだが、別れた妻のほうはなぜかいまおなじ団地に家を買って住んでいるらしい、しかも離婚直後に元旦那の子とは別に新しい子どもを妊娠したらしくて、どうも離婚した原因はそのあたりにあるようだとのこと。
 (…)の逮捕の話を書いていて思い出したのだが、うちの実家の屋根と壁の塗装をお願いしていた会社の社長が、大麻と便所の盗撮で逮捕されたという話もあった。たいそう親切なサービスをしてくれる会社で、従業員も若くまじめな子が多い印象で、事業自体も地元ではかなり順調だったというのだが、その一件がきっかけとなっていまは会社を畳んだとのこと。アフターサービスもこれでもう受けることができない。
 実家に帰ってくるたびに、いつもこんなふうに、だれだれが死んだ、だれだれがパクられた、だれだれが離婚したという話をきく。地元だなと思う。この閉塞感が地元。ただその地元に対する感情が蔑視と憎悪一辺倒だった二十代を経て、四十代をまぢかにひかえたいま、別の角度、別の距離感から、別の感情を呼び起こすこともしだいにできるようになりつつある。だからこそ、地元を舞台にした(正確にいえば、京都と(…)も混じっているが)「実弾(仮)」という小説をこうして書くことができているのだ。
 夕飯の時間まで『野生の探偵たち』(ロベルト・ボラーニョ/柳原孝敦・松本健二訳)の続きを読み進める。夕食後は(…)を連れて(…)へ。母が(…)のところのママさんに連絡をとり、今日の19時ごろに(…)で落ち合う段取りになっていたのだ。(…)橋の下に車を停めてほどなく、堤から階段をおりてくる(…)と夫妻の姿があった。(…)は例によって弾丸のようにこちらに飛びかかってきた。おぼえていてくれたらしい。(…)も夫妻からかわいがってもらってうれしげであったが、やはり立っているのがしんどいらしく、すぐにその場にへたりこんでしまった。しばらく夫妻と近況報告。奥さんが日赤で働いているのは二年前に聞いていたが、旦那さんはガソリンスタンド勤務らしい(ちなみに夫妻の姓は(…)というとのちほど母から聞いた)。(…)を最近全然見かけなかったことについて母が言及すると、実は病気になってしまったのだという告白があった。アジソン病というらしい。初耳だったが、人間であれば難病指定されているような病気。奥さんからいろいろ話を聞いたのだが、帰宅後あらためてググってみたところ、「アジソン病(副腎皮質機能低下症)は犬の身体の健康をつかさどる代謝や免疫系に関する副腎皮質ホルモン(コルチゾール)が作られなくなってしまう病気です」「アジソン病は完治が難しい病気ですが、飼い主さんが愛情を持って接し、きちんと投薬を続けていれば、健常な犬と変わらずに長生きできる病気です」などとある。HIVや糖尿病とおなじく、服薬によって現状維持することはおそらく可能であり、極端に無理などしなければ寿命をまっとうにできる病気であるらしいのだが、薬代がけっこう高く、毎月三万円から四万円ほどかかるようだ。ただ、外国の薬を個人輸入すれば費用もぐっと抑えることができるようであるし、奥さんもそのことについて言及していた。症状はとにかく多く多岐にわたり、およそ体調不良と称される症状すべてが出現するらしいのだが、発覚するきっかけとしては、「副腎皮質は、ストレス耐性の役割も担います。/副腎の予備機能が残っていれば、いわば潜伏しているような状態ですので露見しません。/アジソン病の多くは、犬に多大なストレスがかかる生活環境の変化で発覚します。/たとえば、旅行に一緒に連れていく、自宅以外の宿泊、トリミング、手術などです」とあり、また、「副腎皮質の機能が著しく低下すると、虚脱や微熱、呼吸困難、腎不全といった急性のショック症状(アジソンクリーゼ)に陥ります。/アジソンクリーゼは、命にかかわる非常に危険な状態です。/そうならないためにも、日ごろから体調の変化を注意深く観察し、早期に発見することが大切です」とのこと。プードルは特にかかりやすい犬種らしい(以上、出典はすべて「ぽちたま薬局」)。そういうわけでいまはなるべくストレスのかからない生活を送るようにしているらしい。以前はいっしょに旅行にいったりホテルに宿泊したりドッグランに出かけたりもしていたようだが、今後はそういうものもひかえる必要があるだろう。今日こちらとこうしてひさしぶりに再会して興奮したのもだいじょうぶだろうかとちょっと心配したが、そういうのは問題ないと思うと奥さんはいった。
 母がなにかのきっかけに、コブクロのコンサートに行ってきたというと、奥さんがちかぢか野音に行くといった。野音といってもうちの両親は当然理解できないので、だれが目当てで? とたずねると、EGO-WRAPPINという返事があって、あ、エゴが好きなんだとちょっとおどろいた。お酒をのみながら屋外で夕方音楽をきくのが最高だという。ちなみにライヴに行くのは友人とであり、旦那さんは(…)とそろって留守番。われわれが話していると、例によってハンドサインのじいさんも姿をみせた。
 別れ際、いつ中国にもどるのかとたずねられたので、来月の22日か23日と応じ、まだ会うチャンスはあるでしょうと続けた。談笑を終えたあと、(…)は少し周囲を歩いて、小便を三回してうんこも一回したのだが、そのうんこがめずらしくちょっと下痢気味だったので心配になった。帰宅後、シャワーを浴び、ストレッチをしていると、母から山崎ナオコーラを知っているかとたずねられた。母の口から出る固有名詞ではないように思われたのでややびっくりしつつ、知っている、むかし何冊か読んだと答えると、あのひとはLGBTQなんやってなというので、それは知らんかったと応じると、新聞に載っていたという返事。「わたしの三冊」的なお気に入りの本を三冊選んで紹介するコーナーで、自己紹介を兼ねたひとことコメントみたいなところにそう書いてあったというので、へーと思って新聞のそのコーナーを見てみると、性およびジェンダーに関する本を三冊紹介しているのにくわえて(そのなかに『射精責任』が入っていたのをおぼえている)、じぶんも当事者であるという旨がコメントされていた。で、これを書いているいま、あらためてググってみると、自分の性自認はノンバイナリーであると語っているのを見つけた。山崎ナオコーラの小説、ひさしぶりに読んでみたい。
 食卓について『野生の探偵たち』(ロベルト・ボラーニョ/柳原孝敦・松本健二訳)の続きを読む。貸し出しのレシートがページのすきまにはさまっていたのを見つけたのだが、2017年7月にこの『野生の探偵』と『時間の歴史』(ジャック・アタリ)を借りたという記録で、そうか、このクソ田舎にもこうした書籍に興味を持っている人間が少なからずひとりはいるんだなと、投げ瓶通信を受けとった人間の所感とともに思った。『野生の探偵たち』(ロベルト・ボラーニョ/柳原孝敦・松本健二訳)はひとまず上巻だけ読み終えた。ああ、こういうタイプの小説ね、はいはい、というのが前半の正直な印象だったのだが、ウリセス・リマの得体の知れない感じというかちょっとバートルビーの眷属っぽく思われる内面のうかがいしれなさの感触とかは面白いと思うし、中盤を占めるインタビュー形式のくだりもとにかく量を重ねることでしかたちあげることのできない豊かさみたいなものに微妙に達してはいて(手放しで肯定はできないが)、まずまずおもしろいかなという印象。こうなるとしかし、おなじく長編である『2666』よりも、短編集らしい『通話』のほうが気になる。冗長性というものにこれだけベットしている作家が、短編をどうあつかっているのか。

(…)彼によると、現代のはらわたリアリストは後ろ向きに歩いているという。後ろ向きにって、どうやって? と僕は尋ねた。
「振り向いて、ある一点を見つめて、だがそこから遠ざかっていくんだ、未知なるものへ向かってまっすぐに」
(p.22)

「偶然だと!」とキンは言い、レビジャヒヘド通りの顔役といった物腰で息を深々と吸い込んだ。「偶然など何の役にも立たん。肝心なことは何もかもすでに書かれている。それをギリシア人どもは運命と呼んだのだ」
(p.133)

(…)詩人というものはすべからく、もっとも前衛にいる者でも、父親を必要とするものだ。しかしこいつらは生まれながらにしてみなしごだった。
(p.247)

(…)そのころ、私はヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んでいて、おかげで何を見ても何をやっても、自分の脆弱さを思い知らされるばかりでした。
(p.411)

 夜、(…)が玄関をあがることができず右往左往している気配がしたので、抱っこしてあげてやった(そしてふたたびおりることがないように、座椅子だのなんだのでいったん玄関を塞いだ——Amazonでポチった柵は明日届く!)。それからCA4LAのニットベレー帽をポチった。これで三つ目。最初に買ったひとつは頭頂部が破けてしまっている(じぶんで生地をあてていちおう補修してあるが)。
 夜食は冷凍の牡蠣をぶちこんだラーメン。食後、歯磨きをすませてから間借りの一室にあがり、『野生の探偵たち』(ロベルト・ボラーニョ/柳原孝敦・松本健二訳)の下巻を読み進めて就寝。