20230813

 11時起床。階下に移動し、歯磨きしながらスマホでニュースをチェックし、めだかに水をやる。これはきのうだったかおとといだったかに気づいたことであるのだが、ホテイアオイだけを浮かべている小さめの鉢のなかに、いつのまにかめだかの稚魚が二匹姿を見せている。たぶんホテイアオイの根っこについていた卵が知らないあいだに孵ったのだと思うのだが、水かさも少なく直射日光のばんばん当たる位置においてある鉢であるにもかかわらず無事孵っているようすをみるかぎり、めだかというのはやっぱり高温に強い生き物なのだろう。
 じぶんが鼻声になっていることに気づく。しかし寒気や喉の痛みなどはない。二度目のコロナであったらたまらんなと思う。父がほどなくして帰宅する。手土産のいくらの軍艦を食う(しかし軍艦巻きというネーミングはなかなかすごいな)。食後のコーヒーを飲みながら、きのうづけの記事の続きを書く。きのうは丸一日コーヒーを飲んでいないのだが、ふしぎなことにカフェインの離脱症状に悩まされることがなかった。帰国してからというもの、あきらかにコーヒーを飲む頻度が減っているし、飲むにしても中国でそうしているように豆から挽いてやっているわけではないから、たぶん自然とカフェインの摂取量が減っているというかカフェイン断ちみたいになっている。
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年8月13日づけの記事を読み返す。2021年8月13日づけの記事のものとして、テレビで放送されていた『もののけ姫』の感想が書きつけられているのだが、このあいだ書いたものとほとんど同じような内容で、じぶんは書いたものを書いたそばから忘れてしまうからこうしておなじことを何度もくりかえし書いてしまうのだろうし、それは日記だけではなく日常会話でもおなじであるんだよなと思った。

もののけ姫』、あらためて傑作だと思った。ある方向性における到達点のような作品。この路線ではこれ以上先に進むことができない、だからこそ『もののけ姫』以降の作品で、宮崎駿はこの完成度を崩す方向に向かうことになった。雑なアナロジーになるが、『もののけ姫』までが宮崎駿近代文学で、それより先の作品がポストモダン文学になる、みたいな。あるいは、保坂和志でいえば、『もののけ姫』までが『カンバセイション・ピース』をゴールとする系譜で、それより先が『未明の闘争』以降の系譜みたいな。『千と千尋の神隠し』は崩し方がまだ中途半端だと思うが、『ハウルの動く城』になるとかなり大胆になるし、『崖の上のポニョ』にいたっては、『もののけ姫』における行儀の良さ、ほとんど優等生的といっていいバランス感覚とは無縁の、とんでもなく野蛮な突き抜けを達成してしまう(あれが子供向けの映画として宣伝されていることにはほとんどグロテスクな思いすら抱くが、同時に、子供向けだからこそなのかもしれないとも思う)。

行儀の良い紋切り型の域をどうしても脱することのできなかったとみえる『もののけ姫』のクライマックスは、実際、宮崎駿自身それ以上掘り下げて語るほどのものではないと判断しているかのように、あっけないほど短く切り詰められている。シシ神の死がもたらすカタストロフィに比較して、その後の再生と調和の表象ははっきりとチープであるのだが、その安っぽさを一秒でもはやく切りあげようとするかのように、エピローグはほとんどダイジェストのような速度で、物語の余韻すら残さず消え去る。ここには最後の最後まで一線を突破することのできなかった作家の無念をどうしても感じざるをえない。いや、『もののけ姫』という作品を総合的にみれば、これが最善のクライマックスであることには間違いないし、唯一の正解であるとすらいってもいいのだろうが、逆にいえば、このようなクライマックスを逃れることのできる筋をこそ求めるべきであったのか、作品総体としての完成度やバランスを引き換えにしてでもそのような筋を見出すべきではなかったか——そういう反省があったからこそ、その後の「崩し」につながるのではないかと、『S』で似たような思いに歯噛みしているこちらは想像せざるをえない。

もののけ姫』には『S』の元ネタがひとつある。赤犬が首だけのまま動いて「彼」の目を食い破るくだり、あれはモロの君が首だけのままエボシ御前の右腕を食いちぎるシーンから着想を得た。

「実弾(仮)」に応用できるかもしれないと思った点に限っていえば、これは保坂和志もたしか小説論三部作で触れていたと思うのだが、会話というのはわれわれがそういうものだと想定しているよりずっとキャッチボールではないということ。特に、アシタカとモロの君、アシタカと乙事主の会話などに顕著であるが、アシタカの問いかけはけっこう頻繁に無視される。それでいて不思議と会話は成り立っているというふうに感じられるのだが、この感じを小説で再現するのであれば、キャッチボールの成立していない会話文を記述し、同時に、「〜は質問に答えなかった」「〜は質問を無視した」などという地の文を決して記述しないという方法が要請されるだろう。

 今日づけの記事をここまで書くと時刻は15時半前だった。ほどなく(…)からLINEが届く。「どこ行く?」と。まだ京都に戻っていなかったのかと思いつつ、(…)にトミカでも買ったろかと返信。
 (…)は16時ごろに到着した。助手席に乗りこんで後部座席に顔をむける。(…)は(…)ちゃんに抱っこされたまま居眠り。(…)はチャイルドシートで泣きそうな顔をしている。(…)に叱られたばかりらしい。しかし車が動き出してしばらく、こちらがはたらくくるまについて話題をふったり、「昨日も今日もお出かけできるなんて盆と正月がいっぺんに来たみたいやなァ!」と言ったり、きのう編み出したばかりの「ちがう! ちがう! ちがう!」をやったりするうちに、いつものテンションを取り戻した。車は(…)に向かっていた。トミカが安売りしているというチラシを以前見たからだった。今日なにしとったんと(…)にたずねると、なんもしてねえ、マジ田舎やることねえわ、なんのために帰ってきたんかわからん、という返事。(…)が道中、街路樹や道路脇の雑草などをながめがら、葉っぱ多いなぁと口にするので、ほんまやなァ、ビッグモーターにお願いして除草剤撒いてもらわなあかんなァと応じてから、ビッグカメラのテーマソングにあわせて、ビーッグビッグビッグビッグモーター♪ と歌った。(…)夫妻が吹き出した。(…)も意味がわからないなりにケラケラ笑った。
 (…)は昨日の23時に発った。車で熊本までもどるというのだからめちゃくちゃだ。(…)はきのう(…)一家が出発するのをどうしても見送りたいと駄々をこねたらしく、生まれてはじめて23時まで起きていたという。だから今日もちょっと寝不足かもしれないと(…)ちゃんがいった。
 (…)にトミカは売っていなかった。別の店舗だったのかもしれない。(…)夫妻が生活用品を物色しているあいだ、こちらは(…)を連れておもちゃコーナーを検分した。(…)はなぜかクレヨンがほしいと言い出した。しかし普段それほどお絵かきをすることはないらしい。別の店でトミカ買ったるからクレヨンはやめとこかと説得した。別の一画で今度はアナログ時計が欲しいと言い出した。このときは少しだけしつこかったが、たまたまそのとき近くにいた(…)ちゃんから軽く叱られてあきらめた。
 三歳児は多動だ。以前スーパーでおなじことをして(…)に叱られていたが、(…)は店内を歩きながら陳列されている商品の値札をいちいち手のひらでタッチした。それで値札が落下することもあり、(…)にまた叱られており、その後は彼に手を引っ張られるかたちで余計なことをしないように監視されていたのだが、そんなふたりから少し離れた後方を歩くこちらの姿を見失った(…)が、先生どこ? と(…)にたずねたのに対し、(…)が言うこときかんから先生もう帰ったと(…)が応じたところ、いきなりびえーんと泣きはじめた。それでまたこちらが(…)の子守りをひきとった。夫妻が買い物をしているあいだ、ふたりでスイカ柄のペット用クッションを見たり、リュックサックや長靴をながめたりした((…)は長靴が好きらしかった)。
 それにしても(…)はしょっちゅう(…)に叱られて泣かされている。(…)を出たあとは(…)に向かったのだが、道中の車内だったか、(…)が(…)にたいしてものすごく優しく接していたと(…)が口にしたので、むしろあれが普通なんではないか、どちらかといえば(…)のほうがやや厳しめなんではないかと、兄の(…)や(…)に対するかつての態度と重ね合わせつつも思ったのだが、しかしこれは傍目にいる第三者の印象でしかないのだろう。実際、(…)はいまちょうどいやいや期らしく、(…)や(…)ちゃんがダメだと言ったことをわざとやろうとしたり、いうことをまったく聞かなかったりすることが多々あるのだと(…)ちゃんから聞いた。
 道中、(…)はちょっと眠そうだった。トミカは白バイがいいというのだが、(…)ちゃんによれば、ハッピーセットのおまけでついてきた白バイが自宅にはすでにあるらしい。だから別のものにすればいいとうながしたが、(…)はいやだいやだと白バイにこだわる。(…)はそんな(…)の態度をみるたびにトミカを買う気がうせるという。せっかくの機会なのにちゃんと選ぼうとしない、いつも適当にその場の思いつきで買おうとするというので、まあ三歳児なんてそんなもんやろとこちらは思うわけだが、(…)ちゃんがトミカのウェブサイトにスマホでアクセスし、◯◯もあるよ××もあるよと(…)に教えると、白バイへの執着はすぐに消えた。
 (…)は結局眠らなかった。(…)に到着後、一階の駐車場で車をおり、アンパンマンのカートに(…)をのせて中に入った。イオンモールなのに二階建てってやばない? おれこのあいだ母やんの付き添いでひさしぶりにここ来てこんなちっちゃいとこやったっけってマジであせったんやけどというと、まあ田舎やしなと(…)。田舎のイオンなので当然独立したおもちゃ売り場もない。そもそもトミカを売っている店自体がないのではと思ったが、二階に入っているジョーシンの一画がおもちゃコーナーになっており、トミカはそこにそろっていた。(…)はここでもろくに検分せず、なにかを一台手にとると、これがいいといった。(…)が叱り、(…)ちゃんが説得した。金を出すこちらとしては別になんでもいいという感じだったのだが、いちおう(…)の好きそうなはたらくくるまに限定したうえで、こんなのもあるよ、こんなのもあるよ、とほかの車種を見せた。で、最終的に(…)は翻意し、「スーパーグレートキャリアカー」をチョイスした。以前買ってやった木材運搬車の木材と同様、荷物である車がバラのパーツとして付属しているブツだった。(…)たぶんこのままいくと先生のことすごくお金持ちだと思うかもしれないと(…)ちゃんがいった。
 会計をすませて、ブツを(…)に渡す。夫妻はダイソンの掃除機が安売りされているのを見て買おうかどうか迷っていた((…)ちゃんは自称「掃除キチガイ」だという)。ジョーシンのそばには無印良品があった。知らなかった。食品コーナーをちょっとだけのぞいてみたが、どれもこれも高い。白シャツが2980円で売っていたので、これだったらユニクロとほぼ変わらないわけであるし一着くらい買っておこうかなと思った(大学の偉いさんが参加する会議では必要になる可能性が高い)。
 スタバへ。(…)ちゃんが新作であるスイカのなんちゃらがほしいと言ったのだった。こちらは(…)にチャイティーをおごってもらった。おいしかった。近くにペットショップがあったのでのぞいた。母が(…)に一目惚れした店かもしれない。猫と小型犬が複数販売されていたが、一個一個のケージというか敷地がたっぷりとられており、これだったら犬猫らもそれほどストレスなく過ごせるだろうなと思った。すでに予約済みのロシアンブルーがいてあいかわらず高貴だった。犬用のおやつがどれもこれも信じられないほど安かったので、(…)のためにまたさつまいものお菓子を買った。
 最後にモールの外にある宝くじ売り場でロト6を買った。ロト6を買うのは人生で二度目。一度目は京都で、やはり(…)が買うのにつきあうかたちで買ったのだが、あのときは数字を選ぶのが面倒くさくて1234……みたいな適当な感じにして、もうちょいまじめにやれよと(…)にあきれられたのだが、後日、当選番号を確認したところ、こちらが適当に選んだ連番にかなり近い結果になっていてもう少しでけっこうな額が入ってくるところだったのだ。今回は数字を(…)に選ばせようとしたが、好きな数字選んでというと、最初はランダムな数字を口にしたのものの、続く数字が1234……と数年前のこちらとまったくおなじアレだったので、じぶんは3歳児とおなじあたまなんだなと思った。結果が出るのは明日月曜日。キャリーオーバーで一等7億円以上。あんたの生活水準やったら1億あったら余裕で一生遊べるでと(…)がいうその言葉を耳にした途端、あれ? なんか当たるかも! 当たりそうな予感がする! とやばいきざしを感じた。
 実家まで送ってもらう。母が(…)と(…)を見たがっていたので呼ぶ。(…)は例によって人見知りを発揮したが、こちらとの初対面時のように相手をにらみつけることはせず、ただもじもじとして顔をそらした。それでもこちらが「盆と正月がいっぺんに来たみたいやなァ!」というと、笑いがこらえきれないらしく、そのこらえきれないものを隠すようにして手で顔を覆ったし、どんなトミカ買ったん? という母の質問には、涼しい秋の夜を迎えた蚊のいまわの一言みたいなクソ小さな声で、「キャリアカー……」とつぶやいた。(…)は眠っていた。父まで玄関から出てきて、ふたりのようすをながめた。
 (…)一家とはそこで別れた。夕飯前に(…)を(…)公園に連れていくことに。公園には自転車がたくさん停まっており、そのそばでたくさんの人が集まっていたが、自転車ということは中学生か高校生だろうか? しかし遠目にはそう若くも見えなかったし、もしかしたら外国の実習生の子たちかもしれない。(…)はやはりほとんど歩かなかった。小便とうんこをしてちょっと歩いたあとはその場にへたりこんでしまった。とはいえ、ドライブに行くぞというといまだによろこぶわけであるし、こうして家の中でも庭でもない外に連れ出してやることが気分転換になっていることはまちがいないので、たとえ歩けなくなったとしてもやはり定期的に外の空気を吸わせてやるのが大事だという話にはなった。
 帰宅。明日の夕方あたりから台風が直撃するとかしないとかいう話があるので庭の鉢植えなどをすべて避難させる。めだかの鉢は強風が吹いても問題ないだろうし、雨水で水嵩が増えても鉢の縁付近にある穴から自動的に水が流れ出していくようになっているのでそこも心配はないのだが、ただ稚魚の入っている鉢だけはちょっと心配だ、外に外に流れ出していこうとする水のいきおいにはたしてあの小さな体で耐えることができるのか。
 夕飯。21時から(…)くんと通話する約束があるので仮眠はとらずにちゃっちゃっと風呂に入る。上の階にこちらと父と弟が三人それぞれの部屋にこもって冷房をつけると停電するおそれがあるので、事情を話して弟には階下に待機してもらう。コーヒーを用意して間借りの一室にあがる。(…)くんからBIZMEEというウェブサイトのアドレスが送られてくる。登録不要でオンライン通話できるサイトらしい。はじめて知った。カメラとマイクにブラウザがアクセスする権利をオフにしてあったせいで最初ちょっと設定にとまどったが、おおむね予定通りの時刻に通話開始。(…)くんのほうはビデオがオンになっていたが、めがねをかけて無精髭をはやしていたので、ありゃ、えらく渋くなったな、と思った。こちらはパソコンのカメラ自体をそもそも本のしおりをセロテープでとめるかたちでふさぎっぱなしにしているので顔が映らない。
 通話はおよそ三時間。いろいろ話したが、思い出すがままに簡単に記す。まず近況報告。(…)くんは前回体調を崩して以来、出勤のペースを落としていまは週二労働。貯金はまだあるのかとたずねると、尽きたので両親が結婚資金用にためてくれていた金でやりくりしているとの返事。ちかぢかその口座も自分名義に変更することになっているというのだが、金額としては200万円ほどあるというので、それだったらあと二年くらいはいまの生活でねばることもできるんではないか。塾講師の仕事以外には読書会で知り合った(…)さん(という名前だったと思う)相手に文章の添削をしたり感想を口にしたりするという名目でカンパをもらっているというのだが、実際はほぼだらだらと通話するのみとのこと。月二回で8000円もらっているというので、そういう相手がほかに見つかればいいね、紹介してもらえることができればいいねと話す。ちなみにそのひとは最近岩波の編集部に再就職が決まったらしい。知り合ったきっかけの読書会というのは(…)くんも参加していたものだが、その(…)くんはもろもろ忙しくなったのでいまはもうその会から抜けたということ。いまはYouTuberとして政治や社会問題を取り扱っているという。
 (…)くんが勤めている学習塾というのは(…)(名前だけ聞いたことがある)。学生のレベルはどうかとたずねると、MARCHレベルにはほぼ進学しない、そもそも高校受験を終えたタイミングでやめる学生が大半とのこと。社員になるつもりはない。社員になると自動的に室長という立場になり、授業そのものはほぼ担当しなくなるらしい。それはつまらんだろう。家庭教師をやったほうが手軽に稼げるんではないか、早稲田卒とそれ相応に長い塾講師歴の看板二枚があれば客も集まるんではないかというと、そもそもどうやって集めるんですかねというので、京都時代の(…)さんはたしかもともと勤めていた学習塾から独立するにあたってその学習塾時代の学生を内密に引っ張っていたなと思った。(…)くんだったら東大受験レベルでも十分対応できるだろうというと、英語と国語だったらなんとかなると思うというので、社会はとたずねると、あれはすでに知識が抜けてしまっているので無理だという返事。集客さえうまくやればある程度楽チンしてメシ食うこともできるやろうにと言ったところで、あ、でもここでもったいないな宝の持ち腐れやなって思うのって結局(…)がおれにたいして抱いとる所感とおんなじやな、日本語に興味のある中国の金持ちのボンボン捕まえてオンライン家庭教師をすればアホみたいに楽して稼げんのにそれめんどくさがってせえへんおれもおんなじかとなった。
 文学の話も当然する。ボラーニョが全然クソだったと話す。あんなもん前評判のわりに全然たいしたことねえやねえか、と。ラテンアメリカ文学の大雑把でデカデカとした構えにはもうあまり興味がない。通話時にはあやまってドス・パソスと言ってしまったがドス・パソスではなくホセ・ドノソだ、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』なんかも何年か前に読んだけれども傑作傑作とやたら騒がれているわりには全然たいしたことなくてはいはいこういうやつね、こういうわかりやすい「前衛」ねというくらいの印象しか抱かなかったわけだが、その点、マルケスはやっぱり格が違うなと思う。ラテンアメリカ文学の前衛作および実験作みたいなくくりで語られる作品に共通する大雑把な構えと大味の文章からなる小説とマルケスの小説は全然違う。そのマルケスの分厚い伝記が最近出たと(…)くんはいった。知らなかった。クロード・シモンの伝記も出たと(…)くんはいった。それは知っていた。たしか朝吹真理子だったと思うが、インタビューだったか対談だったかエッセイだったか忘れてしまったけれどもシモンをはじめとするヌーヴォーロマンの作家たちはすでに読まれていない忘れられてしまっているみたいなことを語るか書くかしていて、そんなことはないだろう文学好きはだいたいみんな読んでいるだろうむしろそのあたりはいまや保守的とすらいっていい好みなんではないかとこちらはそのとき思ったのだったが、いや読んでないでしょうと(…)くんはいった。
 「Z」はシモンみたいな小説だったんでしょうと(…)くんはいった。シモンに影響を受けて書いたシモンほどはわかりやすくない小説だ。あんなものをどうして書いたのかわからない、あれを評価しているのは(…)くんと当時の「早稲田文学」の編集部くらいだけだと思うといった。最近読んでよかったものはなんですかとあったので、(…)さんおすすめの乗代雄介がよかった、特に『パパイヤ・ママイヤ』と『それは誠』の二冊はやろうとしていることがとてもよくわかるといった。「実弾(仮)」のような小説を書いているいま、こういう言い方はアレかもしれないが、共感すらおぼえるといってもいい。たとえば、意味のないくだらない会話を書くのはとてもチャレンジングなことであるし、そういうものがうまく書けたときの手応えというのはなかなかいいものだが、その挑戦を挑戦として認識できる読者がはたしてどれほどいるのか。「実弾(仮)」ではじめて会話というものを小説に導入しているわけだが、これはなかなかおもしろいというと、「A」なんて二箇所か三箇所しかなかったんじゃないですかとあって、たしかにそうだった。(…)くんはそういう意味のない——あるいは薄い——会話は、小説よりもむしろ漫画のほうが得意としているのではないかといった。『フードコートでまた明日』というウェブ漫画がそんな感じだったと続いた。ふたりの女子高生がただただ会話をする、そのなかに回想がまぎれこむことはない、ただただ現在だけに焦点が当てられている、と。
 「実弾(仮)」は『青の稲妻』(ジャ・ジャンクー)を根拠としている。だから書きやすい。「A」も少なくとも書き出しからしばらく文章が軌道にのるまでは「ポルトガルの女」(ムージル)を根拠としていた。根拠をひとつ用意しておくだけでこれほど書きやすくなるとは思ってもなかった、「S」執筆は地獄だったが「実弾(仮)」は本当に快適だというと、でもそのわりに苦戦してませんかと指摘された。まあ一般的な作家にくらべるとこちらはたぶんアホみたいに遅筆の牛歩であるんだろうが、そんなじぶんのわりにはという前提でいわせてもらうと、やっぱり「実弾(仮)」は死ぬほど書きやすい。「A」も「S」も言葉を置いてその言葉に次の言葉を引き寄せてもらう書き方をしていたわけだが(いわゆる筋とそれとは別の象徴的な意味の体系を二段構えに構築しつつ解体するという操作が重要でありその操作に一部奉仕するものとしてのレトリックも重要になる)、「実弾(仮)」はまずあたまのなかで映像を作ってからそれを言葉にするという方法をとっている、映像を自動的に文章化するAIみたいな書き方を採用している、それがじぶんにとっては新鮮でものすごく興味深く面白いわけだが、しかしごくごく一般的にいえば、これこそがおよそオーソドックスな小説の書き方なのかもしれない。メタフィクションからはじまって二十年弱(!)、じぶんはとうとう「普通の小説」にいたった。

 (…)くんは最近読んだ作家としてジャン・ジオノと平沢逸の名前をあげた。両者ともに初耳。前者はフランスの作家。『白鯨』の仏語訳などしており、『メルヴィルに挨拶するために』という著作もあるらしい。後者は最近『群像』の新人賞をとった作家。デビュー作である『点滅するものの革命』を読んだのだが、幼い子どもの一人称であるにもかかわらず大人びた語り口を採用しており、かつ、ところどころ三人称の域まではみでるところがあるのだが、そうした辻褄の合わなさを理屈で根拠づけることなく宙に浮かせたままにしているというので、岡田利規を開祖とするあの手法の影響下にある作家なのかなと思った。あと、黒田夏子の著作も読んだのだが、やはりすばらしいということで、自分がもし小説を書くのであればああいうひらがな多めの文章で書きたいと(…)くんはいった。黒田夏子は読もう読もうと思って結局まだ一作も読んでいない。古井由吉とおなじく名人芸を会得している作家という印象を勝手に抱いている。
 (…)くんは特に小説を書こうと思っていないらしい。書けない、筋という筋を作れないといったのち、そもそも散文での試行錯誤は日記という場があるからみたいなことを言った。それゆえ必然的に日記以外の場でものするものは詩になる、と。ちょっとじぶんと対照的でおもしろいなと思った。言葉に閉じた小説というか言語というメディウムの特性にばかり気をとられていた小説を長年書いていたのが最近ようやくその外で書くことのおもしろさを知りはじめたこちらとは反対に、日記でそういうものばかり徹底して追っているからこそ日記の外では言語のみで完結した詩、ものすごく広い意味での言葉遊びをしているのが(…)くんというわけだ。
 読書の傾向としてじぶんは権威に拠っているところがあるというようなことも(…)くんはいった。要するに、ウルフとかプルーストとかムージルとか、そういう超がつくような大御所、文学史にその名前がゆるぎないものとして登記されている作家ばかり好んで読んでいるということらしいのだが、「偽日記」で、批評家はまだ評価の確定していない作家および作品こそを論じるべきであるというようなことが書かれているのを読んで、じぶんはそういう意味でダメだなと思ったということなのだが、しかし(…)くんは批評家を名乗り批評家として書いているわけではないのだから別にそれはいいのではないか。元ネタはムージルらしいのだが古井由吉が作家タイプと批評家タイプと学者タイプという三つの分類を設けており、それによれば作家は主観の追求、学者は客観の徹底、批評家はその中間であるらしいのだが、その分類でいえばやはりじぶんは作家タイプだと続いた。ムージルといえば当然こちらにとって決定的な影響を与えた一冊、好きな小説を一冊だけ選べといわれればおそらくいまでもやはり選ぶだろう『三人の女・黒つぐみ』があるわけだが、文学史的な評価がどうであれ、こちらは「特性のない男」よりも「三人の女」のほうが優れていると思うというか、小説の技巧としてのポテンシャルは「三人の女」のほうがはるかにデカいと思う。「特性のない男」はもともと存在する小説の型の細部を最大限にまでふくらませているというか、ある意味クラシカルな小説の型をまず採用した上で、その枝葉末節を幹とおなじ太さにまで膨張させた結果いびつに過度な大作となりはてたという印象を受けるのだが、「三人の女」はそもそもクラシカルな小説の型を採用していない、いや採用してはいるのかもしれないが、採用するなりすぐにその型を引き算でぶち壊している、型に沿ってまんべんなく肉付けしたうえで引き算をほどこすのではなくそもそもの型そのものに引き算をほどこしている、そういうラディカルな造りになっている。アホみたいに単純な言い方になるが、現代文学によりおおきな示唆を与えてくれるのは、だからやっぱりこちらなのだと思う。
 (…)くんの口からプルーストの名前が出たのでひさしぶりに再読したいなと思った。どうせ再読するのであれば、次は鈴木道彦の訳ではないものを読んでみたいのだが、なんとなく評判のよいものという印象のあった井上究一郎の訳は、一巻だけ読んだ(…)くんによればそんなでもないんじゃないかという代物だったらしい(読点の使い方がちょっと独特らしいが)。岩波とあともう一個よそから新訳が出とったよなというと、岩波のほうはおそらくすでに完結、光文社古典新訳文庫のほうはまだ途中なんではないかとあったが、これを書いているいま調べてみたところ、岩波のほうは吉川一義による訳でこれはたしかに完結している。光文社のほうは高遠弘美による訳で全14巻の予定らしいのだがいまは6巻で止まっているようだ。
 あとは『エデン・エデン・エデン』(ピエール・ギュヨタ)をずっと昔に読んだがひたすらスカトロとかアナルセックスとかそういう描写というかイメージばかりでサドのポルノ描写を煮詰めたようなものだったがあれは原文だとたしか韻文になっていてだから読み進めると妙に快楽があるらしいという話もしたし、『深淵』(大西巨人)と『虞美人草』(夏目漱石)はどちらもほとんど書き割りみたいに単純な構図が前面に出ているという意味で異様であるという話もした。
 それからこれはむしろ通話のかなり序盤にしたのであったように記憶しているけれども(…)くんの体調というか腕の痺れだったか軋みだったか痛みだったかへの対策の話もした。パソコンに向かうとそれだけでしんどくなってくるので現状日記も手書きで書かざるをえないという話であるけれども、こちらもかれこれ十年ほど前になるけれどもデスクに長時間向かい続けた結果、頸椎症の症状が出てきて、一時期は両腕のひじから小指の先端にかけて痺れが走るようになってこのまま放置しておくとまずい、それで以降ストレッチだのジョギングだの筋トレだのいろいろ試してみたけれどもやはりストレッチでは対処療法にしかならん、ジョギングはまずまずいい、しかし根本的な解決策はやはり筋トレで、というのも問題は上半身の筋力不足であるからだと確信しているからなのだが、たとえば老人らが体の痛みを訴えるのは実は単純に加齢と運動不足と食の細さに由来する筋力不足のためであるのだという話を聞いたことがある。実際に筋トレするようになって以降痺れは消えたし、あれほど執拗に悩まされていた肩こり、首の痛み、肩甲骨の凝りと張り、腰の痛み、そういうもろもろが全部おもしろいくらいにすっ飛んでいって、これを書いているいま思い出したのだがあの当時はほとんど毎日のように首を寝違えていて、それも原因がまったくわからなかったのだが運動するようになってから楽になったのだった。だから別にマッチョになりたいわけでもなんでもない、ただ毎日の仕事、つまり、パソコンにむかって長時間キーボードをカタカタし続けることのできる肉体がほしいというだけなのであれば、週に二日ほど懸垂をやって上半身をほぐして鍛えて、あとはちょっと意識的にタンパク質をとるようにすればいいだけなんではないか、こちらがかつて悩まされていた肉体疲労と(…)くんのそれとが同一であるかどうかはわからないけれども、少なくともこちらの場合は筋トレを無理ないペースでやるようになって二週間も経つころにはずいぶんとよくなったし、以降、運動習慣が続いているあいだは基本的に背中だの腰だの肩だの首だののしんどさに悩まされた記憶はない(ちなみに、帰国してからこちらはほとんどまったく筋トレをしておらず、そのせいで最近は背中の痛みがときどき生じるようになっている)。こちらの体感では、アーロンチェアを導入するよりも、上半身の筋肉を動かすほうが、デスクワークのしんどさ解消にはずっと効果的だと思う。アパートの近所には公園があるようだし、(…)くんの趣味は徘徊であるのだから、毎回の徘徊ついでというか徘徊の締めは公園の遊具で懸垂というのを習慣づけてみたら、案外それでけっこうよくなったりするんじゃないかと思った。ずぼらには懸垂がいちばんやで、ほんま!
 日付がまわるかまわらないかのタイミングでこちらのイヤホンの充電が切れた。それなので有線のイヤホンに付け替えたのだが、設定をどういじっても音声でのやりとりが復活する気配がなかったので、いったんBIZMEEから退室してもう一度コールしようとしたが、すでに時間が時間だったし、今日はもうこれくらいでいいかとなった。夜勤前の父親が隣室で寝ているということもあり、あまりでかい声でぎゃーぎゃーしゃべることもできず、そういう意味でこちらはけっこう不完全燃焼だったというか、もっといろいろ汚い言葉をたくさん使ってあれこれ悪口まくしたてたいというのがあったので、中国にもどってからまたあらためて通話したい。
 階下に移動。弟に通話が終わったことを告げ、冷食のパスタを食す。歯磨きをすませたのち、間借りの一室にふたたび移動し、今日づけの記事をばばばっとメモ書き。ジャンプ+の更新をチェックし、『風呂』(楊絳/中島みどり訳)の続きを読み進めて就寝。