20230814

 11時起床。階下に移動し、歯磨きしながらスマホでニュースをチェックし、めだかに餌をやる。(…)は朝からずっとバスタオルでひっぱれひっぱれと元気満々だと母。こちらともひととおり遊んでやってから芋のおやつをやったのだが、(…)はおやつを食ったあとに突然庭に面した窓のほうにへっぴり腰で駆けはじめた。と、(…)お尻ひらいてきとる! と母がいう。うんこや! となってすぐに窓を開けにむかったのだが間に合わず、(…)はカーペットのうえにデカいブツを三つほどごろりごろりと落とした。しかし(…)は基本的に快便なので処理が容易い。腹を下しがちな犬だったらこういう介護もいろいろ大変だったと思う。ほどなくして父帰宅。うなぎの巻き寿司を食した。
 母の運転で出かける。セブンイレブンで7万円×2をおろし、ホットコーヒーと母の分のカフェラテと家族四人分のコンビニスイーツを買う。続けて図書館へ。駐車場に車を停めるころにはけっこうな大降りになっていたので、雨脚が弱くなるタイミングを見計らって車の外に出る。母のカードで予約していた本を受け取り、こちらのカードで『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』(乗代雄介)を借りる。残る滞在期間で読み切れるかどうか微妙であるというか、読み切れることは読み切れるんだろうがその場合はしかし授業準備をあきらめなければならない、だからどうしたもんかなと迷ったが、版元が国書刊行会電子書籍はリリースしていないふうだったので、だったらやっぱりこのタイミングで読んでおくべきだろうとなった。図書館を出た先の道路では台風接近中にもかかわらず自動車学校の車を見かけた。
 郵便局へ。(…)さんの荷物を着払いで、zozotownで買い物失敗したやつを自費で送る。返品にかかる送料が1300円ほどしてうっとうしかったが、はるばる京都まで買い出しに出かけたものの一着もいいものが見つからなかった場合にくらべたら全然たいした出費ではないとじぶんをなぐさめた。最後に(…)に立ち寄る。こちらは車内で待機していたのだが、途中でうんこがしたくなったので便所に移動。こちらとほぼ同時にトイレに入った男性がいた。男性は小便器の前に立ったのだが、こちらがクソを垂れて個室から出てきたあともおなじ小便器の前に突っ立っていて、尿道から石が出てくるのでも待っとんかなと思った。
 買い物から帰ってきた母から、ではなかった、もっと前だ、たぶんこちらが郵便局にいるあいだのことだったと思うが、弟から停電したという電話があったと聞かされた。うちに向かう途中にある信号も完全に消えていたが、団地のなかにあるほかのお宅の玄関や室内は電気がついているふうだったので、たぶんもう復旧したのだろう、あまり長引くと部屋が暑くなり(…)がしんどいことになるしよかったよかったと言いながら帰宅したのだが、うちはまだ復旧していなかった。その時点ですでに停電して一時間ほどが経っていた。幸い台風接近中の天気であるので猛暑というわけではなかったが、それでも(…)はハッハッハッハッハッと息をあえがせているし、いつの話であるか忘れてしまったが、前回停電したときは夜のあいだじゅうずっと復旧せずおおいに難儀したものだと母と弟がいうので、そのパターンであれば最悪だなと思った。中部電力のウェブサイトで確認してみたところ、停電しているのは(…)市内でも(…)町と(…)町だけで(全部で500戸ほどだったと思う)、よりによってピンポイントかよという感じだったが、台風はたしかに接近しているものの雨も風もまだ全然本番じゃありませんという感じで、いまからこれだったら上陸するといわれている今晩どうなるんだよと思った。
 いつもであれば部屋で仮眠をとっている父もエアコンがつかないせいで居間におりてきていた。弟はまるで子どもみたいにちょっとテンションが高くなっていて口数も多く、ふだんそれほどかまうことのない(…)に家電屋でもらったうちわで風を送ってやっていた。停電中であるから当然Wi-Fiは切れているし、スマホも充電できない現状電池を無駄遣いしたくないので、食卓に腰かけてすぐそばのカーテンをひらいて外の光を頼りにしながら『風呂』(楊絳/中島みどり訳)の続きを読み進めた。

 停電は発生から二時間後に復旧した。エアコンがついた途端、(…)は熟睡しはじめた。夜にそなえて家の雨戸をまとめて閉める。『風呂』(楊絳/中島みどり訳)を最後まで読み進めたので、そのまま『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』(乗代雄介)も読みはじめた。中断し、きのうづけの記事に着手する。天気が天気なので(…)のドライブは中止。
 夕飯。テレビをつけて天気予報をみる。地元は今晩から明日の昼にかけてがやばいようす。食後はソファで居眠り。(…)のためにエアコンは常に26度設定でつけっぱなしであるのだが、そのせいで階下はかなり寒い。腹を冷やして下痢ラ豪雨。
 入浴。ストレッチ。きのうづけの記事の続きを延々と書き進める。投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年8月14日づけの記事を読み返す。2020年8月14日づけの記事から以下のくだりが引かれていた。

(…)ブレイディみかこ『ワイルドサイドをほっつき歩け』読みはじめる。母が図書館で借りてきたもの。「はじめに」で、この本に登場する労働者階級のおっさんたちについて「時代遅れで、排外的で、いまではPC(ポリティカル・コレクトネス)に引っかかりまくりの問題発言を平気でし、EUが大嫌いな右翼っぽい愛国者たちということになっている」としながらも、そんな「おっさんたちだって一枚岩ではない。労働者階級のおっさんたちもミクロに見て行けばいろいろなタイプがいて、大雑把に一つには括れないことをわたしは知っている。なぜ知っているのかと言えば、周囲にごろごろいるからである。/彼らが世界のサタンになる前からわたしは彼らを知っている。だから、おっさんがサタンなどという神の敵対者になれるほど大それた存在とは思わない。彼らは一介の人間であり、わたしたちと同じヒューマン・ビーイングだ」と語り、「彼らの姿を観察していると、わたしにはある一つの世界を貫く真理が胸に迫ってくるのを抑えられない。それは、シンプルな言葉で表現すればこういうことである」と続けた上で、「みんなみんな生きているんだ、友だちなんだ」と童謡の一節で結ぶわけなのだが、ここであえて、きわめてナイーヴであるがこのような結び方を筆者がとったその理由が、(…)で働きそのときの体験をいくらかとりいれた小説を書いているいまのじぶんにはすごくすごくすごく、すごくよくわかる。そうとしかいいようがない。いま書いている小説はこの『ワイルドサイドをほっつき歩け』と違って、筆者が登場してその意見を表明する余地もないので(弁明の機会が失われているので)、「文学」には理解がないが政治思想的には「リベラル」であるというひとびとからは(こちらが苦手意識をもっている層だ)、かなりこてんぱんにやられるものになっていると思うのだが、それはそれとして、なぜああいう登場人物らばかりの小説を書くのか、そしてそれを語り(手)もしくは特権的な登場人物がジャッジしないのかといえば、それは、ジャッジすることによって出来事がただの教訓と化してしまうからでもあるし、実際に彼らの生きる世界にそのような考え方を有する人物がいないからでもあるし、あるいはまた、じぶんもかつては彼らのような人間であったしいまもそうでありえたかもしれないという可能性がじぶんという人間の背骨になっているからでもあるし、というような当然のことをわざわざここに書きつける必要もないだろうが、とにかく、(…)で働いていたときにずっと感じていたあの愛憎表裏一体となっていた感情というのは、結局、じぶんが彼らのことを「友達」だと思っていたからなのかもしれないということに、この「はじめに」を読んで思い至った。「友達」という言葉は、こちらにとってけっこう抵抗感のある言葉であるというか、かなり持ち重りのする言葉であるので日頃めったに使うことはないのだが、いま、ああいう小説を書いていて、ああいう登場人物たちを書いていて、不思議な話なのだが作中人物である彼らにたいして、ときおり、ちょっとした親密感をおぼえることがある、というか日記を書いているときのように、現実生活で付き合いのある連中のことを報告しているような気分になることがある。日記に書かれた人物は全員友達だというとんでもない認識にいま不意打ちされた。

以下は2022年8月14日づけの記事より。

(…)日本にいたときはかなり頻繁にカフェに出向いていたわけであるが、あれは単純に住んでいた部屋が快適でなかったからということだろうか? それもあるが、それだけではなかったと思う、というかそれをいえば、先学期にしても先々学期にしてもこちらはちょくちょく、日本にいたころに比べるとずっと頻度が落ちるとはいえ、カフェなり図書館なりいずれにせよ外に出向いていたわけで、それが夏休みになった途端こうなってしまったのだから、と書いていると、あれ? やっぱり暑さが原因なのかな? という気がしないでもない。しかしここにはやっぱり一種の老化、という表現が正しいのかどうかわからない、この場合は「サブイベントとの遭遇をもとめる気持ちの消失」という程度の意味で使っているわけだが、そういうのがあるのかもしれないなと思う。予想外の出来事を目撃するかもしれない、予想外の人物に出会すかもしれない、そしてそれらは場合によっては単発イベントして終わらず一種のセリーとして発展していくことになるのかもしれない、そういう思いに対する一種ワクワクする気持ちのようなものが、つまり、ものすごく幅広い意味での(その対象が人間に限定されることのない)「出会い」をもとめる気持ちが、ここにきて衰退してしまっているのではないか。

 ところで、期待という言葉を目にするたびにこちらが思い出すのは、たしか「S&T」にも書き記したと思うが、夏のおとずれを期待するときのあの期待、そこにかすかに性的なニュアンスがともなうことになるあの期待で、ときどき思う、あれこそがもっとも雑味のない性欲なのではないか、と。夏とはいわゆる出会いの季節であるというような安っぽい物語的等式に由来するものではない、その対象が女性ではなく人間ではなくもっといえば生物ですらなく、ひとつの気候であり光であり気温であり湿度である、そのような性欲。あれもいずれはこの身体から去ってしまうことになるのだろうか。

 以下は『かたちは思考する 芸術制作の分析』(平倉圭)の第8章の「普遍的生成変化の〈大地〉——ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』」の一節を読んだうえでの覚書。

 ここを読みながら思い出したのは磯﨑憲一郎の初期の小説だった。磯﨑憲一郎の小説には隠喩(の体系)に還元されることもなければエンタメの作法(伏線とその回収)におさまることもない生身の出来事がたびたびさしはさまれる。読者はその出来事(の「意味」)を持て余すことになるが(「純粋に光学的・音声的な状況の出現」にアナロジカルに対応)、その宙ぶらりんを解消しようとする働きが、続きを読み進める過程で、同様の性質を有する別の出来事との隠喩的連関を見出そうとする。隠喩的連関は見出されることもあるだろうし、見出されないこともある。見出されたところで、さらなる出来事との遭遇によって、根っこから破壊されて覆されてしまうこともある。
 磯﨑憲一郎を読む過程で読むものが経験することになる隠喩の体系の構築と破壊はリズミカルでありそこに一種のグルーヴを感じることすらある。しかるがゆえに先に「宙ぶらりん」と表現した状態はさほど苦痛ではなく、むしろその切断の感触をそれ自体として玩味することができ、そこが磯﨑憲一郎の新しさだったわけだが、では、そのときその「新しさ」と対置されるべき「古さ」(と便宜的に呼ぶもの)はなんだったかというと、それはもちろんカフカということになる。『城』をその極北とするカフカの諸作はあきらかに、(比喩的に言い表すと)書き手の頭が先走る手になる言葉の本流をどうにか体系におさめようとしてもがき苦しむ苦闘の痕跡があちこちに認められる、というよりもむしろその苦闘の痕跡自体が作品となっているような性質のものであり、そこには磯﨑憲一郎の作品に認められるグルーヴは一切ない(しかるがゆえに読み手はしばしば眠気に誘われることにもなる)。隠喩の体系におさまることのない無数の出来事、意味深調な箴言、それ自体が書き手の弁明のように読めるはてしのない長台詞は、そこに体系化のために捧げられた労力とその挫折の苦味があきらかに認められるために切れ味が悪く、「切断の感触をそれ自体として玩味する」よろこびも当然ともなわない。
 そして逆説的になるが、だからこそカフカは新しい、というよりも古びようがないのだ。スタイルを実現した作品ではなく、あるスタイルを志向したその失敗が偶然かたちになってしまった失敗作であるために、そこにはスタイルを実現した作品よりもはるかに多くの瑕疵、つまり、過剰さと欠落が、汲み尽くすことのできない可能性としてたちあらわれてしまう。カフカが自作をボツにしまくったこと、この事実をひとはみくびってはならないし、ある種の作家神話を強化する材料として使用してもいけない。カフカは、事実、失敗していた。このことをこちらはかれこれ10年以上前からずっと言い続けているが、同じ意見のカフカ評に触れたことはほとんどない(唯一、高橋悠治だけが、『カフカ/夜の時間――メモ・ランダム』のなかで、神経衰弱と不眠症で頭もろくにまわらないカフカが朦朧として文を書く、というようなイメージを提出していたのをおぼえているが)。

 0時になったところで出勤前の父がおりてくる。風も雨も相当えげつないことになっていたが、出ていくつもりだという。母も物音で目が覚める。出勤は問題ないが、明日の昼がピークなのであれば帰宅はできないかもしれないし、次の日は休みであるから、場合によっては夕方まで職場の仮眠室で待機しているかもしれないと父。これが最後の言葉やったわけか、今生の別れやなとこちらがいうと、遺影撮っときないと母がいい、その母を指さしながらこいつ人柱にしてくれと父がいった。(…)は食卓の下でぐうぐう眠り続けている。
 冷食の炒飯を食す。歯磨きしながらジャンプ+の更新をチェックする。風の音がうるさいせいでか、居間に布団を敷いて寝ている母は何度も目を覚ました。間借りの一室にあがる直前にまた停電した。防災リュックの中から懐中電灯を取り出していると、弟もスマホを懐中電灯代わりにして上からおりてきた。夜中に停電はかなわん、ネットも読書もできんやんけと思っていたが、今回はわりとすぐに復旧した。母とそろってテレビをつけて天気予報を確認した。昼の時点で発令されていた暴風警報は継続中。24時間で県内は400ミリの雨とあったが、これはすでに降ったという意味であるのかこれから降るという意味であるのか忘れてしまった。京都は舞鶴のほうがやばいようす。避難者数は和歌山が圧倒的に多い(「新宮市」とあるのに、あ、中上健次、と思った)。近畿地方のスーパーや百貨店の多くがすでに明日の臨時休業を決めているとの報道もある。それに続けて、コンビニ各社の対応も発表されたが、セブンとファミマとローソンがピックアップされているだけで、ミニストップは完全にハブチになっていたものだから、これにはちょっと笑った。四天王扱いちゃうんか。
 間借りの一室にあがり、『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』(乗代雄介)の続き。木下古栗の『ポジティヴシンキングの末裔』みたいに、ひたすら馬鹿馬鹿しい掌編が収録されている。奇想のはなはだしい設定もさることながら、これは木下古栗というよりもむしろ中川昌也を比較対象にあげたほうがいいのかもしれないが、どこまでもありきたりで通俗極まりないいわば徹底して常識的なフレーズが、先の設定を起源とする狂った文脈に挿入されることで生じる独特のおもしろさがあり、それが、それ自体単独で読者を笑わせようとして練られているらしい罵詈雑言や突飛な比喩やパンチラインよりもむしろ破壊力があったりする。しかしユーモアのセンスというか笑いのツボをむきだしにするというのはなかなかおそろしいものだよなと思う。ひとを笑わせるために練られた文章をさらすというのは、下手な私小説よりもよっぽど自分の裸をさらすという行為に近い。