20230926

 アラビアの諺に「夫は妻を毎日一度は叩くべし」というのがある。夫は何の理由もなく叩くのであるが、妻は何が理由で叩かれたかをすぐ理解するであろう、というわけである。
 母親の欲望の満足は不可能である。すなわち、真の近親相姦とは不可能なことであり、不可能なことはできないのであるから、それに対する罰もありようがない。ところが、それをひっくり返して、まず罰を受けたとすると、一つの罪を犯したことを意味するようになる。これによって、不可能にそれが可能であるかのような形態を与えることができる。この論理と同じように、アラビアの妻は、叩かれることにより、自分でその理由を見つけ出すのである。
 幻想のなかでは子どもは叩かれたことによって快感を見出すが、これは罰が同時に罰の原因になったのであろう。禁じられたものを犯す享楽に結びついているのだと考えられる。これを父親の観点から見ると次のようになる。子どもが去勢に到るのは母親の欲望の構造的不可能性に起因するもので、決して誰かによってそれがなされるわけではない。ところが、その不可能性を誰かの禁止の結果だとすると、そこに一つの可能な場が生まれる。ここで主体は父親を創り出し、それに叩かれることによって享楽の可能性を保とうとするのである。
 われわれはこの幻想のなかに可能—不可能の弁証法を見出すのであるが、ラカンはそこにもう一つ分析理論に欠かせないものを認める。それが主体である。主体とは叩かれた者、一本の棒によって叩かれた一つのシニフィアン(/S)である。この棒によって主体は消滅する。主体はファルスで在ろうとするが、そのファルスには棒が引かれ(…)、自らの存在を失ってしまう。
 主体とは、象徴界における単なる一つのシニフィアンの欠如、おのれのシニフィアンを持たないものである。
 幻想とは、主体が受動的に被るこの脱落をお話として逆転させ、主体の能動的行為の結果であるかのように見せかけることで、主体が自分自身の存在を保証しようとする手段である。
(向井雅明『ラカン入門』より「第Ⅰ部第三章 欲望」 p.137-139)



 朝方、寒すぎて目が覚めた。一週間前にはまだ37度あったのに突然この冷え込みだ。アラームは8時45分に設定してあったが、それよりも10分以上はやく活動開始。歯磨きしながらニュースをチェックし、チーズクラッカーと白湯の朝食をとる。
 三年生の(…)さんから微信。四級試験の結果一覧が送られてくる。三年生、13人も合格者がいた。過去最多ではないか? 合格したのは(…)さん(71点)、(…)さん(68点)、(…)さん(69点)、(…)さん(77点)、(…)さん(71点)、(…)さん(67点)、(…)さん(75点)、(…)さん(69点)、(…)さん(74点)、(…)くん(79点)、(…)くん(78点)、(…)くん(68点)、(…)さん(70点)。

 合格点である66点にはおよばなかったものの、60点以上のスコアを記録していた学生は10人。(…)さん(63点)、(…)さん(65点)、(…)さん(61点)、(…)さん(62点)、(…)さん(64点)、(…)さん(65点)、(…)さん(60点)、(…)さん(60点)、(…)さん(63点)。順当にいけば二度目の試験で全員合格すると思うのだが、(…)さん(65点)はまず間違いなくカンニングだろう(しかしカンニングしてなお1点差で不合格というのはおもしろい)。というかこの10人でいえば、(…)さん(62点)と(…)さん(60点)と(…)さん(63点)の三人以外、全員がカンニングであるといわれてもすんなりと受け入れられてしまうメンツであるわけだが、いやしかし、学生らの平均レベルはいちおう年々上昇しているし、それにこのクラスはこちらが一年生の前期から授業を担当するようになった最初のメンツであるから、かなり都合のいい考え方であるのは承知の上で言わせてもらうが、そういう事情ももしかしたらこの結果を後押しする力になっていたのでは? 少なくともリスニング能力にはそこそこおおきな影響があると思うのだが、どうだろう?
 四年生の結果も出ている。再試験組の中からあらたに合格したのは5人。(…)さん、(…)くん、(…)さん、(…)さん、(…)さん。過去ログを「四級試験」で検索してみたところ、今年の4月3日づけの記事に当時の三年生(現四年生)が9人合格したとあるので、今回の5人を含めて合計14人合格。二度の試験で14人であるのだから、一度の試験で13人合格した当時の二年生(現三年生)はやはりかなりレベルが高いということになる。ちなみに当時の日記には、9人合格という結果について「想像以上に良い結果。一度目の受験で9人合格というのは、これまでのクラスで一番良い結果かもしれない。」と記されており、実際(…)先生とそういう会話を後日交わした記憶もあるので、今回の13人という記録はやはり相当いいものだと思う。現四年生については、二度目の試験でもうすこし合格者数が増えるだろうと思っていたので、そういう意味ではちょっとがっかりな結果だった。
 とりあえず前回65点で不合格だった(…)さんに微信を送った。彼女はまだ結果を知らなかったらしく、こちらの報告にたいそうおどろき、また、よろこんでいた。よかった、よかった!
 ケッタがぶっ壊れてしまったので、いつもよりはやめに寮をあとにする。寮の外に出てすぐのところにある売店でミネラルウォーターを買う。授業があるのかと売り子のおばちゃんがいうので、いまからだよと応じる。バスケコートと隣接したグラウンドでは軍服姿の新入生が隊列を組み、音楽にあわせて行進する練習をしている。隊列の先頭は旗を持っている。たぶん「外国語学院」と記された旗をもっている集団もあのなかにいるはず。
 ちょうど朝一の授業を終えたタイミングで外に出てしまったので、第三教学楼の廊下や階段はアホみたいに混雑していた。人波のなかでイライラ牛歩を重ねながら教室にむかう。一番乗り。いつも遅刻ぎりぎりなので、これはかなりめずらしいことだ。
 10時から二年生の日語基礎写作(一)。授業前の雑談は四級試験の結果について。来学期みんな何人合格できるだろうねというと、全員合格! と(…)くんがいうので、もし全員合格したら海底捞貸切でメシをおごってやるよといった。みんな歓声をあげて拍手したが、いやいや、さすがにそれは無理でしょ! 出席をとり、「(…)」清書版と「(…)」を返却し、「(…)」のおもしろ回答をひとつずつ紹介していく。まあ、ドッカンドッカンウケたわ! 学生らもどんどん悪ノリしてふざけた作文を書いてよこすようになったので、こちらとしてもなかなか楽しめる。作成した文集の内容は以下の通り。

(…)

 授業後半は「(…)」の作文。こちらは教卓でぼんやりしたり、学生とちょっと雑談したり、KindleでKatherine Mansfieldを拾い読みしたりする。
 授業が終わる。すぐに教室を出ても人波にのまれてうっとうしいだけなので教卓でひととき時間をつぶすことにする。例によって(…)くんが教壇にやってくる。授業中は男子学生に付き合うかたちで最後尾に着席しているわけだが、授業が終わるとほかの男子学生からひとりはなれてこちらのところにやってくる、それだったら授業のときからもう前のほうの席に座っていればいいのにと思うのだがそれはともかく、先生は今日セブンイレブンに行きますかという。それがそれ自体完結している質問であるのか、いっしょに行きましょうという誘いを前提にしている質問なのかよくわからない、というかこちらは後者だろうと理解して今日はひとがまだ多いだろうから行きたくないと答えたわけだが、それで彼は教室を去るわけでもない、だからいっしょにメシという流れなのだろうかと思ったのだけれども、さすがに四六時中彼といっしょにいるのもだるい、だからメシに誘われたら今日は断るつもりでいた。教室にはトイレにいった(…)さんを待っている(…)さんと(…)さんの姿もあった。(…)さんは高校時代に日本語を勉強していないでしょう? しかも一年生の途中から日本語学科に移ってきたわけでしょう? でも日本語かなり上手だよねと話しかけると、なにかを言おうとするのだがうまく日本語で表現することができない。それでほかのふたりと協力して説明してくれたところによると、彼女はもともと別の大学に在籍していたのだという。しかし一ヶ月で辞めたとのこと。具体的な大学名は聞いていない。教師はよかったが、クラスメイトや大学そのものが嫌いだったというので、そこでは何学科に所属していたのとたずねると、日本語学科という返事。マジか! 外教はいなかったという。その大学を辞めたあと、翌年の高考を再受験して(…)に入学。最初は酒店管理を学んでいたが、やはり日本語を学びたいということで途中移籍という経緯らしい。これはかなり意外だった。そういうケースの学生と接するのははじめてだと思う。それでいえば、そのときそばにいた(…)さんも一浪しているという話を、本人ではなく別の誰かから以前聞いたおぼえがあったのだが、そのあたりはいわゆる面子にかかわることかもしれないので、ここでは黙っていた。しかしのちほど、彼女の高校時代のクラスメイトであり、浪人せず現役で合格したのでいまは一年先輩ということになっている(…)さんとのちほどキャンパスですれちがったとき、(…)さん本人から彼女は高校の日本語クラスのクラスメイトですという話があったので、別に隠しているわけではないのかもしれない。
 (…)さんがもどってきたところで、そろって教室を出た。(…)くんがこちらのすぐ脇をガッチリキープして女子学生三人とのあいだに距離を設けようとする姿勢を打ち出したので、あのな、おめーそういうとこやで、と内心ひそかに思った。このままだと完全に(…)くんコースだ。クラスで浮きはじめるのも時間の問題だ。後ろを歩く女子三人に、このあたりで自転車を修理することのできる店はない? とたずねた。それで女子三人がすぐにスマホで検索を開始した。当然、(…)くんも同様のことをしはじめる。共通のタスクを介してひとつのグループになれというこちらの目論見だった。別にみんな仲良くしろとか一匹狼になるなとかは思わないのだが、能力があり、かつ、排他的な空気をまとうひとりがこちらに対する独占欲を示しはじめるとろくなことにならないというのを経験的に知っているので(ほかの学生がこちらと交流をもとめたくてももとめにくい空気ができあがってしまい、結果、学生らの学習に対するモチベーションが低下する)、せめてこちらと行動をともにするときくらいはわけのわからん線を引こうとするなというわけだ。自転車の修理を受け付けてくれる店舗は二軒あったが、どちらも徒歩で小一時間ほどかかる距離にあるらしかった。どうしたもんかなと思った。
 第三教学楼の外に出た。こちらのわきにぴたりとついていた(…)くんがふっと離れた。じゃあ先生さよなら、と言い残すやいなや、以前写真を見せてもらった彼女と合流して食堂のほうに歩き出した。え? じゃあなんで教室でずっと待ってたの? と思うわけだが、女子三人から先生! ごはん! いっしょに! と誘われたので、あ、結果的には最善のかたちになったわと思った。しかし女子らのようすをみるかぎり、彼女らも(…)くんがこちらを昼飯に誘うつもりでずっといっしょにいるものと考えていたようであるし、さらにあの排他的なオーラかつ前科(先学期だったか先々学期だったか忘れたが、こちらと(…)くんと(…)くんの三人がメシを食いにいくために歩いている途中、後ろから(…)さんともうひとりがやってきたので、きみたちも一緒にいきますか? とこちらが声をかけたところ、(…)くんが中国語で彼女らを追い払ったことがあったのだ)を踏まえて、じぶんたちはそこに同行しない(できない)というあたまがあった、そこに(…)くんの突然の離脱があったので、占めた! となったという経緯だったように見受けられたのだが(そしてさらにうがった見方をすると、(…)くんはぎりぎりまでこちらの脇につくことで、こちらと彼女らが食事に出かけるのを阻止しようというあたまが、そこまではっきりしたものではなかったかもしれないが、しかしいくらかはあったのだろうなとこのときの不自然な言動、それにくわえて日頃の態度などから察せられたわけだが)、それはともかく、この三人とそろって行動するのは『すずめの戸締まり』を映画館に観に行ったとき以来だ。
 第四食堂に向かっているのかと思ったが、そうではなかった、今学期から新設された西門を抜けて外に出向くつもりらしかった。西門には駅の改札みたいなゲートがある。饭卡をかざすとゲートがひらくのだが、顔認証システムもあるみたいで、なんでまたこんなたいそうなものを設置したのだろうと思う。いまから行く店は辛い料理しかないかもしれない! と突然(…)さんが心配しはじめた。微辣だったらだいじょうぶだよというと、(…)さんは微辣でもダメだという。それで思い出した、彼女は(…)人ではないのだ、浙江省のそれも杭州出身なのだ。実際、今日ならんで歩いているときに思ったのだが、身長もかなり高い。172センチのこちらとほぼ変わらないんじゃないかというほどある。いまはアジアの運動会がありますというので、そうみたいだね、インターネットでなんかそういう情報をちょっと見たよと応じる。
 目的の店をおとずれるのは三人もはじめてだという。開発のすすみにすすみまくっているエリアに新規オープンした店。この一画だけ見ていると、中国経済崩壊論っていったいなんなんやと思う、それくらいすさまじい速度で開発がすすんでいる。店内はかなり混雑しており、注文を受け付けるレジ前には列ができている。ならび、メニューに目を通す。タジン鍋みたいな鍋に具材をぶっこんで辛く煮込むやつ。どこやかやでよく見るメシだ。こちらは海老をぶっこんだやつを不辣で注文。席はいっぱいだったが、われわれが注文しているあいだにちょうどふたりがけのテーブルがふたつあいたので、そいつらをくっつけて腰を下ろした。
 それでメシを食いながらひたすらおしゃべり。三人とも思っていたよりも会話能力が高くないなという印象を受けたのだが、冷静に考えてみたら二年生のまだ前期なのだ、後期ではないのだ。いちおう三人とも大学入学前から多少は日本語を勉強している面々であるので、辞書アプリや翻訳アプリを介在させれば問題ない感じ。三人ともアニメと漫画が大好きであることは知っていたが、いちばんのオタクは(…)さんではなかった、(…)さんだった。いや、(…)さんも(…)さんもたいがいアレやと思うんやが、(…)さんはさらにもう一歩踏み込んでいるっぽい。これはわたしのQQですと言いながら、微信でいうところのモーメンツにあたるやつをみせてくれたのだが、『鬼滅の刃』の時透無一郎のグッズを一箇所に山ほど集めたうえに、彼の誕生日を祝うバースデーケーキをそのそばに配置した写真が何枚も表示されたので、ガチなタイプじゃんと思った。去年万达で声をかけられたコスプレ女子の(…)さんもやっぱり時透無一郎が大好きで、彼のコスプレ写真を何枚もモーメンツにあげていたし、日本からわざわざ取り寄せたグッズが届く度にその写真もあげていたりして、いやー熱心だなァと思っていたのだが、(…)さんも同レベルのファンにみえる。それだけのグッズを代购で集めるとなるとやはりめちゃくちゃに金がかかるわけで、(…)さんはすごくお金持ちです! と(…)さんがいうのも納得できる。そもそも故郷が杭州なわけだから、うちの学生の大半を占める(…)省出身の学生とは実家の太さが違う。今日着ていた服にしても、ほかのふたりのものにくらべると、生地もシルエットもずっとしっかりしているようにみえた。
 (…)さんはもともと学校でイラストやアニメ制作を学びたかった、しかし才能がないと思ってあきらめたという話だった。一番好きなアニメと漫画についてたずねると、決められないという。(…)さんはbai3he2が好きだと続けてみせるので、あ、百合か、と受けると、先生なんでわかるの! と三人は笑った。彼女は実際に女の子が好きですと(…)さんはさらに続けた。おいおいおいおい! なにさらっとアウティングしとんねん! と内心あせったが、ここで聞こえなかったふりをするとかえって彼女を傷つける可能性があるので、ああそうなんだ、きみは女の子が好きなんだねと受けると、たぶんそうですと(…)さんは恥ずかしそうに笑った。男だろうが女だろうがなんでもいいよ、だれを好きになろうが自由だよといってから、先輩たちからもよくそういう話を聞いたからね、彼氏のいる男子学生もいたし、彼女のいる女子学生もいたよと続けたのち、ただまあ家族の理解がないってみんな悩んでいたけどというと、そうそうそう! と(…)さんはなぜか笑いながら首をふった。(…)さんはちょっと過度にフェミニンなところがあるし、同性愛者ですと言われても、はいはい(…)さんタイプだねとわりとすんなり納得できる。そんな(…)さんイチオシの作品は「さとう」と「しお」という女の子ふたりの出てくる百合漫画。(…)さんが包丁を手にもってぶっさすようなジェスチャーをしてみせながら中国語でなんとかいうので、ああ、ヤンデレね、と受ける。怎么说? 怎么说? といいながら(…)さんが辞書アプリで検索をかける。表示された画面をこちらにみせる。やはり「ヤンデレ」と表示されている。うんうん、わかるよ、わかるよ。
 クラスメイトでほかにオタクはいないのとたずねる。男の子だったら(…)くんはかなりの数のアニメを観ているよというと、(…)さんもかなりオタクだと思うという返事。めちゃくちゃわかる。去年、初顔合わせの瞬間に、あ、この子はオタクだなと思ったのだ。(…)さんは顔立ちもととのっているし、メイクもほぼ毎日していて服装にもこだわりのある女子なのだが、そのテイストがことごとくオタク寄りであるというか、いや正確にはオタクではないか、サブカルっぽいというか地雷系っぽいというかそういうニュアンスを全身から発している。彼女の相棒である(…)さんもオタクだという。あと、このとき名前は出なかったが、(…)さんもけっこうオタク趣味なはず。彼女は作文に毎回イラストを添えてくれるのだが、初音ミクのイラストなどとても上手なのだ。
 あとは恒例の「どうして結婚しないのか」「どうして(…)みたいな田舎にいるのか」「わたしたちが卒業するまで(…)にいてください」というパターン。食事のすんだところで店を出る。近くにオタクショップがあるはずだから寄っていこうかとなるが、店の場所を忘れてしまったので、(…)くんに電話してたずねてみる。マクドナルドのとなりだという。それですぐそばにあるその店まで歩いていったのだが、あいにく閉まっていた。となりの建物が工事中で、たぶんその影響で臨時休業したのだと思う。また別の日に来ましょうと話す。(…)さんは漫画やグッズがとにかくたくさんほしいらしい。インターンシップで日本に行った学生のなかにはスーツケース一箱分の漫画を買って帰国した子もいるといったのち、古本であれば一冊100円か150円で買うこともできるからというと、日本は天国です! とでかい声ではしゃいだ。ときどき代购を利用する(…)さんもそんなに安いなんて信じられないといった。
 西門のゲートを抜けてふたたびキャンパスにもどる。(…)さんはこれから会議だという。中国の学生は本当に会議が多いねというと、クソ! クソ! と(…)さんは言った。せっかくなので女子寮前まで送っていくことにした。道中、(…)さんを含む三年生女子複数名+他学部女子のグループとすれちがった。(…)さんとは目が合った瞬間、おたがいに吹き出した。三年生の授業をこちらは担当していない。しかるがゆえに本来ほとんど顔を合わす機会はないはずなのだが、彼女とはなぜかあちこちでやたらとでくわすのだ。(…)さんが彼女と高校時代のクラスメイトだったと語ったのはこのときだった。

 第三食堂の前まで横並びに歩いてやってきたところで、後ろからやってきた電動スクーターがこちらのかたわらで停止した。男子学生ふたりが2ケツしていた。あ、いつものパターンだな、と思っていると、案の定、「日本人ですか?」と日本語で話しかけられた。そうです、日本人です、と志村けんの演じる変なおじさんみたいな調子で答えると、中国語はできるかと中国語でたずねられたので、できないとすぐに中国語で応じた。それでいつものようにひと笑い生じる。(…)さんがすぐにうちの外教だとこちらのことを紹介した。外国語学科の教師なのか、きみらは外国語学科の学生なのかと男の子らがたずねると、(…)さんは肯定したのち、うちの外教は中国語ができないというけどわたしたちがいつも日本語でどう言えばいいかわからずやむなく中国語で口にした言葉をみんな聞き取ってくれるのだみたいなことをいった。ふたりはやはり日本語の独学者だった。なにを専攻しているのかとたずねると、体育学院の学生だというので、これはめずらしい! 体育学院の学生から声をかけられるのははじめてだ! ふたりとも日本のアニメが大好き。『ワンピース』や『ナルト』がきっかけで日本語を勉強しはじめたという。スクーターを運転しているほうの男の子は二年生で卓球が得意、ケツにのっているほうは三年生で体操が得意とのことで、ふたりともこちらのゆっくりと口にする日本語はだいたい聞き取れているようだったし、二年生のほうにいたっては会話能力もけっこうあって、下手すれば日本語学科の二年生よりもできるんじゃないだろうか? 当然連絡先を交換する流れになる。こうした現場を目の当たりにするのがはじめての(…)さんは、先生! すごい! 有名人ね! といったが、単純に外国人のほとんどいない田舎であるからこういうことがちょくちょく生じるだけの話であって、大都市ではこんなことも滅多にないだろう。体育学院の学生は(…)くんと(…)くん。どっちが二年生でどっちが三年生かもう忘れた(たぶん(…)くんが二年生だったと思う)。(…)くんのほうはけっこう男前だったしさわやかだったから、彼氏がずっといないと口にしている(…)さんちょうどいいじゃんと内心思ったりもしたが、いや、オタクと体育会系は混ぜるな危険なのかやっぱり? おどろいたことに、二年生の彼は(…)先生に日本語を教わっているという。三年生の彼は(…)先生。つまり、ふたりとも家庭教師としてうちの大学の教員をひそかに雇っているわけであるが、これは本来禁止されている行為だったはず。しかしまあ(…)先生も(…)くんの家庭教師をしていたわけであるし、中国の教員たちはおそらくこんなふうにしてちょろちょろ小銭を稼いでいるのだろう。(…)も娘の同級生の母親たちからしょっちゅう英語の家庭教師をしてほしいと頼まれると言っていたし。ただ最近壁の外にいる中国人たちが騒いでいるので知ったのだが、たしか来月の中旬ごろからだったと思う、おそらく双减政策の流れにある法律であるんだろうが、個人がひっそりやっているような家庭教師すらもこれから厳しく取り締まるみたいなアレが施行されるはずで、そうなったらみんなだいじょうぶなんだろうか? いや、双减政策の流れにあるんだったら禁止対象になっているのはあくまでも義務教育の年齢までか? あるいは高卒までか? 大学生相手に教えるのであればまったく問題ないのか?
 体育学院のふたりと(…)さんの通訳を介してしゃべっていると、(…)さんと(…)さんが興奮した様子で「先生! 先生!」と言った。そうして女子寮前に停車した電動スクーターのほうを指差しながら、中国語の人名らしきものをしきりに口にした。はてなと思っていると、彼氏! 彼氏! と続いたので、それでピンときた。(…)さんだ。昨日モーメンツで交際宣言していた彼氏の運転するスクーターのケツにのせてもらって女子寮まで送ってもらったのだ。それで「(…)! (…)! (…)この野郎!」と最後だけ「ダンカンこの野郎!」のアクセントで彼女の日本語名をでかい声で叫んでやると、やめろやめろそれ以上でかい声で呼ぶなみんな見てるみたいなことを中国語でいいながらこちらに駆けてきた。彼氏もあとからやってきた。(…)さんは東北人なのでかなり背が高く、というか体がでかく、身長も肩幅もこちらとほぼ変わらないかこちらよりちょっとでかいくらいであるのだが、彼氏のほうはその(…)さんよりもさらにデカいパワー系ユニットだった。恥ずかしそうに笑いながらぺこりと日本風にお辞儀してみせるので、ヘーイ! 你好! と言いながら肩をぽんぽんぽんぽん叩きまくるといういつものやり口であいさつ。三年生。国際学院の学生だというので、あ、だったら英語いけるじゃんと思い、そこで英語に切り替えて交流をこころみたのだが、彼氏は苦笑いを浮かべながら、just...just a little...と口にするだけだった。なるほど。以前外教のmeetingの場で、国際学院の学生の英語レベルが低すぎてまともに授業にならないと(…)や(…)が不平を漏らしていたが、こういうレベルが大半だったりするのかなと思った。日本語学科の学生たちは基本的にみんな英語が苦手だったり嫌いだったりするので、女子三人はこちらが英語を話すところをはじめてみてかなり驚いていた。いや、中学生レベルの単語と文法しか使っとらんのやが。
 (…)さんと彼氏が去った。体育学院のふたりも去った(はじめて本物の日本人と日本語でやりとりしてテンションがあがりまくったのだろう、バイクに乗ったふたりは「ひょおおおおおおい!」と奇声を発しながら去っていった)。こういうことはよくあるのかと(…)さんがいうので、よくある、学生といっしょに日本語を話しながら散歩していたらほかの学部の学生から声をかけられることは多いと応じた。社会的な死、先生、知っていますか? と三人はいった。(…)さんがまったくおなじフレーズを作文に書いていたなと思い出した。文脈的に社交の苦手な人間が人前で恥ずかしい思いをするという意味だと思うのだが、いちおうどういう意味ですかとたずねると、怎么说! 怎么说! といってやはり説明できないふうだったので、中国語を交えつつ、社交が苦手な人が恥ずかしい思いをすることですか、さっきのように知らないひとから声をかけられることですかとたずねると、对对对! とあった。先生はどうして私たちの言いたいことがいつも理解できる? みたいなことを言われたが、そりゃまあこの仕事を長くやっているからというほかない。ジェスチャー、表情、状況(文脈)、断片的に聞き取れる中国語、断片的に口にされる日本語、それらを総合して相手の訴えを推察するのだ。いや、そんな遠回しな能力を身につけるくらいならいい加減マジで中国語を勉強しろという話なのかもしれないが。
 そうこうするうちに今度は女子寮の中から三年生の(…)さんが姿をみせた。(…)さんは例によって食い物の入ったビニール袋を手にさげていた。いっぽうはパン、いっぽうはスイカ。「先生、どうぞ」と言いながら差し出してみせるので、この子は本当にしょっちゅう食い物を与えてくれるわけだが、おれのことをドブくさい野良犬や小便くさい野良猫のようなものだと思っているのだろうか? というかこれはもしかしていま女子寮近くでだべっているこちらの姿を目にし、それでわざわざ近くの売店でブツを購入して持ってきてくれたということなのだろうか?

 午前中に確認した四級試験の結果には(…)さんの名前が記載されていなかった。(…)さんから彼女は当日欠席していたという話を聞いていたが、あらためて確認してみると、やはり参加しなかったという。ちょうど二度目のコロナに感染した時期だったろうか? あるいは点点のことでバタバタしていた時期だったのかもしれない。スイカの入った袋を受け取ると、(…)さんはさっと寮に戻っていった。先輩ですかと(…)さんがいうので、三年生です、彼女はとても料理が上手です、ぼくの寮で以前おいしい料理を作ってくれましたと応じると、(…)さんが突然背筋をのばして右手をぴんとあげた。じぶんも料理ができるという意味らしい。ほかのふたりはまったくできない。先生! 先生! わたしたち、先生の部屋で料理します、いいですか? と(…)さんがいうので、やばいな、これで予約三組目だ、連休明けけっこうきついぞ、と内心ひそかに計算しつつも、いいですよと応じると、(…)さんは大喜びした。いわゆる「社交恐怖症」らしい(…)さんはこちらとの社交でさえもこわいといった。じゃあきみがキッチンで料理をしているあいだ、ぼくら三人で応援するよ、がんばれがんばれ(…)! がんばれがんばれ(…)! って、と、最後のがんばれがんばれのくだりは今日の授業中に学生らが教えてくれた最近抖音で流行しているという日本のアニメのワンシーンを真似したものであるのだが、そういうと、先生! おにぎり! おにぎりを作ることができますか? わたしはおにぎりが食べたい! と(…)さんがいった。ほんなもん病気の猿でも作れるわ!
 それで女子らと別れて帰路についた。大学生だったころ、たぶん必修科目だった国際関係学の授業だったと思うが(あるいは国際文化論みたいな授業だったかもしれない)、テスト前に当時付き合っていた彼女からレジュメだけもらって一夜漬けをしていたところ、ソフトパワーという概念にはじめて触れて、当時の資料にはまだ例として挙げられてはいなかったアニメや漫画が、いま、実際、この国でものすごく力を持っているというか、当時はソフトパワーという概念を理解しつつも、しかしそれが国際政治のリアリズムの場である一定の力を本当に有しているかといえば、それはどちらかといえば有していてほしいという希望的観測にすぎないのではないかという見方をぼんやりこちらはとっていたわけだが、この仕事をするようになってからはむしろ、日本は対中国においては特に、強力なソフトパワーを有しているというか、むしろソフトパワー一本でぎりぎりどうにか決壊しかけているものを食い止めているのではないかとすら思う瞬間がたびたびある。アニメとスポーツ(と個人として別格の羽生結弦)は強すぎる。
 帰宅。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年9月26日づけの記事を読み返す。2013年9月26日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲したが、以下のくだりで笑った。(…)が残していった即席キャンドルの遺物を見た当時九十代後半の大家さんの反応。

いつでもお風呂に入ってくださいと例のごとく不必要な通知をもって部屋の戸を勝手にあけてあらわれた大家さんが畳の上にごろりと置かれたままになっているブロックを見るや否や、その上にたてられた蝋燭の残骸に釘付けになってこれはなんでっしゃろというので、まさか木造畳の一間で毎晩のように蝋燭を灯していたとはいえず、かといって咄嗟のことに有効な弁明をひらめくこともできず、ゆえにただただどもり、それからもう終わったんですとわけのわからない言い訳を続けて口にした。すると、えっ?蚊取り線香?という耳の遠い返答があったので、そうです、そうですと応じた。思わぬ角度からの助け舟だった。これは偶景になりえない。そうでもないか。

 今日づけの記事にもそのまま着手するが、当然長くなる。これは今日一日まるっと日記に持っていかれるなと覚悟して中断し、第五食堂で打包。食後は仮眠もとらずそのままデスクでカタカタし続ける。途中、卒業生の(…)さんから微信。最近おいしいキウイが手に入った、先生に送りたいので住所と電話番号を教えてくれとのこと。返信ついでにいくらかやりとり。(…)さんはいまも高校の日本語教師を続けている。今年は高校三年生を担当することになったのでストレスがデカいという(高考にそなえて教員もいろいろたちはたらかなくてはならない)。『ゼルダの伝説』はとてもおもしろいですねというので、switchを買ったのかとたずねると、ソフトはすでに七本あるという。しかしひとつもクリアできない、自分は「ゲームのバカ」だといったのち、でも仕事が終わって帰宅してからゲームをする時間がいちばん幸せだと続けた。
 (…)さんから昨日にひきつづき質問。「ぎりぎり」の意味を教えてほしいとのこと。辞書見れば一発でわかるだろと思ったが、しかしいざ簡単な日本語で説明しようとすると、これはなかなか難儀だ。それで例文をいくつもこしらえてこれこれこういう意味であると説明するはめになった。たぶん伝わったと思う。
 おなじ二年生の(…)さんからも微信。今日の授業の課題を微信で送ってくれないだろうかというので、きみはうちの事情で帰省しているのであるし課題は提出しなくてもかまわない、それで成績を減点することもないし安心してくださいと受ける。
 さらに(…)さんからも微信。自転車を修理してくれる「師匠」が見つかったという報告。老校区の入り口にいるおじさんですというので、ああやっぱりあそこかとなった。去年、(…)さんといっしょに自転車を買いに行ったとき、タイヤがパンクしたときはあのおじさんに頼むといいですよという話があった。いつも路上に小さな椅子を出して座っているおじさんで、そばにはいろいろな器具の入ったでかい三輪車が置かれている。たのめばその器具のひとつを使って合鍵を作ってくれるのだが、それとは別にタイヤのパンクも修理してくれるという話で、こちらはまだ一度も依頼したことはないのだが、(…)さんはわざわざ自転車のチェーンを修理することもできるかと質問してくれたらしい。できると言っていたという。こちらの手元にあるチェーンはすでに錆びまくってちぎれているやつなので、できれば新品にとりかえてほしいのだが、はたしてその新品があるのかどうかは謎。(…)くんからは夕方、淘宝でチェーンを購入してじぶんの手で修理するか、タクシーのトランクに自転車を積んで修理屋まで運んでもらうかしたほうがいいんではないかという提案があったが、それはそれでかなりめんどい。
 シャワーを浴びた。ストレッチをした。とりあえず明日、(…)さんに通訳としておじさんのところに同行してもらうことにした。14時から体育の授業がある、それが終わったあとであればだいじょうぶとのことだったので、16時に女子寮前で待ち合わせすることになった。時間帯的にその流れで今日のようにいっしょに食事するのもいい。こちらとサシだと彼女も緊張するだろうから(…)さんたちにも声をかけておいてくださいとお願いする(たぶん言われなくてもそうするだろうが)。
 その後はまた就寝前までひたすらカタカタやり続けたわけだが、やっぱりiPadでの作業はストレスがたまる。パソコンでカタカタやっていた当時よりおなじ文字数を打ち込むにしてもはるかに時間がかかる。慣れの問題だけではないと思う。反応がやっぱり微妙に遅い気がするのだ。はやくMacBook Airが届いてほしい。
 ババア(呪)は今日もおなじ部屋の男相手に狂ったような声を張りあげていた。マジでとんでもない声量で、本当に毎晩のように怪鳥音をボイストレーナー並の腹式呼吸でひねりだしつづけているわけだが、これはもしかしてアレか? こちらがこれまで気づいていなかっただけで、実はマジで文字通り毎日おなじことをくりかえしているのか? つまり、レーモン・ルーセルの『ロクス・ソルス』の世界なのか? あるいは、地縛霊が夜になるたびにあらわれて生前の喧嘩をくりかえしているのか? ケーッ! 品薄中の塩撒いとくか!