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 フロイトにとって、恒常性とは、まず自我において考察された。すなわちフロイトは自我を、リビドーという心的エネルギーが恒常的に備給されている場所として考えた。
 アメリカ自我心理学では、自我は理性の審級として捉えられがちである。フロイトの最初の議論にもそのような要素はなくもなかったが、晩年になるに従い、フロイトは自我を理性の審級としてではなく、ナルシシズム論に見られるような、想像的な審級として考えるようになっていく。のちのナルシシズム論は、その主張を強く押し出したものである。
 ナルシシズムとは、自分の心のエネルギーが外に向かわず、自分だけに留まる状態である。そうなってしまったら、その人は現実と関係をもてなくなる。一方で、それではエネルギーがすべて外に向けばいいのかというと、そうではない。すべてのエネルギーが外に向いてしまったら(フロイトはある種の恋愛を例に挙げている)、その人はその対象に振り回され、それを失ったときに空っぽになってしまう。自分の方へも心のエネルギーが帰ってくる回路がないと、新しい対象にまた心が向いていく柔軟性をもてない。
 こうして自分というものやアイデンティティが安定して同一性が維持されるのも、自我が心のエネルギーを向ける対象を自由に動かせるのも、自我へのエネルギーの一定の備給があり、それが保持されているからだとフロイトは考えた。
 フロイトの自我のイメージは、ラカンのいう「想像的なもの」の議論へと継承されていく。ラカンにおいては、自我は、「鏡像段階論」という議論で示される。
鏡像段階論」とは、まだ身体の運動機能が不十分で統御が利かない幼児が、鏡に映った自分の像を見て、それが統一的でまとまっているのを知って喜び、その像に自己をアイデンティファイするというものである。それはまだ全体性を持たない幼児が、像という全体性を先取りして身につけるものである。自分にはないものを自分と思いこむのである(それゆえラカンはこれを「自己疎外」であるとした。そして、そもそも自我や自己とは、実態の自分とは重ならないものであると述べた)。
樫村愛子ネオリベラリズム精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「第三章 なぜ恒常性が必要なのか」 p.124-126)


  • 9時ごろに目が覚めたが、寝床のなかにぐずぐずととどまっているうちに、いつのまにか二度寝していた。11時ごろにあらためて起床。(…)から返信が届いている。修理の人間が今日か明日部屋に行くと思う、もし明日になっても来なかった場合はまた連絡してくれ、と。こういうのマジでやめてほしい。今日も明日もうかつに外出できない。明日は午後に授業があるのでそこは避けてくれと伝えるも、業者とはthe repairment systemを通じて連絡をとりあっているらしく、直接の連絡先はわからないという。いずれにせよ、明日こちらの不在時に業者がやってきた場合、業者のほうから(…)に連絡があるはずだから、そのときは別の時間帯に出直すように伝えるとのこと。なんでこんなまどろっこしいシステムなんや。
  • 洗濯機をまわす。bottle waterを注文する。朝昼兼用の食事はトースト。コーヒーを飲みながら「塵と光線」にひさしぶりに新規記事を投稿する。『S&T』は先日公開停止した。
  • おとついづけの記事を投稿し、きのうづけの記事も一気呵成に書き記して投稿する。途中、(…)先生から微信。「年末になって、(…)市が友好都市の(…)市にメールで年賀状を贈る予定です。今までは英語で書いたものを今年日本語で書きたいと(…)外事弁の知り合いに頼まれてました」とのこと。で、中国語の文言を(…)先生が日本語に訳した文面が送られてきたのだが、こういうのは原文を忠実に訳すのではなく、定型文を代用するかたちでの意訳をチョイスしたほうがいいと思うので、年末年始に取引先に送る電報だのメールだのの文面が紹介されているウェブサイトを参考にしてちゃちゃっとこしらえた。ちなみに「年賀状」とあるが、実際は年内に送る予定のものらしい。
  • たまっている日記の読み返しにとりかかる。まずは2022年12月25日づけの記事より。

パン屋で買い物したとき、あの店のおばちゃんたちが感染して苦しむところを想像し、それは嫌だな、そういうのは見たくないな、それだったらいっそのこと(もう決して若いとはいえないのかもしれないが)健康なこちらが代わってあげたいなとすら思った一瞬があったのだが、こうした「代わってあげたい」という意識、これは一種の弱さなんだよなと思った。犬猫でもいいし、姪っ子でもいいんだが、病気や怪我で苦しんでいる様子を目の当たりにして、もう見ていられない! となるあの感情、そこから転じて、じぶんが身代わりになってあげたい! と思うあの一般的には自己犠牲と名指されている精神、あれは結局、ただ見守ることしかできないじぶんの無力を直視する強さがないということなんだよな、と。じぶんが無力であることに耐えられない、じぶんの弱さを認められない、ひるがえって、じぶんには力があると信じたい、じぶんは強いという幻想を失いたくないという、一種の去勢否認ともいうべきその態度が、「代わってあげたい」の少なくとも一部を構成していることは間違いないのだ。この欺瞞を忘れてはいけない。

  • 2022年12月26日づけの記事からは複数。以下のくだり、いくらなんでも口が悪すぎる。

自転車に乗って第四食堂へ。どんぶりメシを打包する。先客がふたりいたので、彼らの注文が終わるのを後ろにひかえて待っていたのだが、そんなこちらを追い越すように、あとからやってきた男子学生が先客の対応をしている厨房のおばちゃんに声をかけて注文したので(そしておばちゃんもそれを引き受ける)、は? となった。こういうことは時々ある、時々あるのだが、多くの場合はカウンター付近でちゃんとした列ができておらず学生らがだまになっている状況で起こる。つまり、あとからやってきた人間が、先客は全員オーダー済みであとはオーダーしたものが出てくるのを待っているだけだと、そういうふうに勘違いして悪意なく順番抜かしをしてしまう、そういう現場はこれまで何度となく目にしてきたのだが、今回はそれとは違う、あきらかにふたりの尻にひかえている格好でこちらが順番を待っているのがわかる、そんな状況でひょいっと割り込んできたものだから、なんだこいつ? サイコパスか? となったのだった。若者は国家の宝であるみたいなアレをよく聞くが、こいつのようなカスが宝として珍重される国なんて、正直終わっているとしかいいようがない。小学生の頃、兄が下校途中の工事現場で植物の化石を拾ったことがある。それを見てじぶんも化石が欲しくなったので、母に化石はどうやって作ることができるのかとたずねたところ、石と石のあいだにはさまったものが長いあいだ地面の中に眠り続けることでできるのだという返事があった。そこでこちらは化石をじぶんの手で作ろうと思いたち、当時ファイリングしていたカードダスのキラカードばかり集めたものの中から一枚だけ選び出し、そいつを石にはさんだ状態で庭に埋めることにしたのだが、腐ってもキラカード、たった一枚とはいえ地面に埋めることになるのは忍びない、しかしキラカードの化石はどうしたって欲しい、そういうぎりぎりの葛藤の果てに、ま、キラカードキラカードやけど、でもこいつやったら最悪失ってもさほど痛くないな! というアレから、『ストリートファイターZERO2』のナッシュのキラカードを選び出し、弟と一緒に庭の物干し台付近に埋めたのだった。つまり、キラカードであるという意味で、あれはいちおう宝と呼べるものだったのだが、その宝のなかではもっとも価値のないクソカードだった。食堂でこちらの順番を抜かした男子学生は、とどのつまり、あのナッシュのキラカードみたいなもんだと思う。若者は国家の宝であるという観点からすればキラカードかもしれんが、所詮はあたまの悪い小学生の手によって庭に埋められるほどの価値しかない。とんだC級品だ。化石になるまで土の中で詫びつづけろカス。

  • 以下は『ラカン精神分析の治療論 理論と実践の交点』(赤坂和哉)を踏まえての記述。

 あと、前期ラカンは「同一化の臨床」、中期ラカンは「幻想の臨床」という区分けがされているのだが(元々はミレールによる区分けだったか?)、これはもうそのまんま文芸批評の理論の歩みだなという感じだった。「同一化の臨床」では、解釈が重視される。「分析主体は自らの歴史を語り、分析家とともにパロールを積み重ねていくことでシニフィアンを連鎖させ、その連鎖に句読点を入れて事後的に意味を産出させていく」(64)、「そうした作業によって自らの歴史が再構築され、抑圧されていた症状の意味が解放される。そして、そこで分析主体は「それが私の真理だ」と感じ、それまで自ら知らずにいた症状の意味を受け入れることができるだろう」(同)。それに対して「幻想の臨床」においては、「真理は確定されず、シニフィアン連鎖上には真理が複数存在することができるという意味で、嘘としていくつもの真理が存在することになる。それは、分析主体の側から述べれば、いくつものシニフィアンを数え上げるということに対応している。つまり「それが私の真理だ」は何度も繰り返されるのである。(…)要するに、前期のアプローチと同様に分析主体と分析家はシニフィアン連鎖を追っていくのであるが、中期ではそれを数え切れないほど繰り返すのである」(87)。そしてその結果、「大文字の他者(知を想定された主体)はフィクションに過ぎないことに気づ」(89)く。これはつまり、解釈=物語が失効するということだ。そして、「「私はこの幻想に捕われて人生を過ごしてきたのだ」と実感し、そうした幻想を失墜させるに至」(89-90)った主体は、大文字の他者(=物語)から離れていくと同時に、その欲望は「対象aに基づいた享楽的な色合いを帯びた欲望となっていく」(90)。すなわち、「テクストの快楽」(ロラン・バルト)の出現。『テクストの快楽』(沢崎浩平訳)の中でバルトはクリステヴァを踏まえていった。「意味形成性(シニフィアンス)とは何か。官能的に生み出されるという限りにおいての意味である」!

  • 以下も2022年12月26日づけの記事より。残るところオンラインで期末試験をすませるだけの時期であって時間に余裕があるからか、日記がいちいち長い。

(…)餃子を茹でているあいだに思ったのだが、なろう界隈で一時期流行っていた(いまも流行っている?)「無双系」および「チート系」、あるいは最近だったら「追放系」というのもあるようだが、ああいうのはいまさらいうほどのことでもないのかもしれないが、フィクションの衰弱というほかないな。何年か前、こわいもの見たさで、『賢者の孫』というなろう系小説のコミカライズ版を読んでみたことがあるのだが、あのときは心底びっくりした。欲望がこれほどまであさましくダダ漏れになっているものがフィクションとして広く流通しているのか、と。
 たとえば、『エヴァンゲリオン』が社会現象として流行したとき、あるいはその後セカイ系とくくられた作品群が一定の支持を得たとき、ひとはそれらの作品そのものについて解釈することができたし、(それが妥当であるかどうかは別として)それらの作品を支持した社会の無意識を分析することもできた。少なくともそれらの作品には、そのような語り、解釈、分析を呼び込むだけの余地があり、無意識の闇にひとしいものがあった。しかし、「無双系」「チート系」「追放系」の作品群には——という言い方をしてしまうと、実際にその手の作品を読んだことがないので問題がある、だからここでは、そのようなジャンルないしはフォーマットには、という言い方をしたほうがいいだろうと思うのでそうするが、そのようなジャンルないしはフォーマットには、まったくもって解釈の余地がない。欲望がどこまでもあけすけであり、いかなる屈曲も経ておらず、ただただ露骨に露出している。無意識が干上がっているのだ。これもある意味『露出せよ、と現代文明は言う』(立木康介)なのかもしれない(未読なので推測になるのだが、もしかすると『動物化するポストモダン』はこうした現象まで見据えて書かれていたものだったのか?)。
 誤解をおそれずにいえば、日本の人口問題や経済問題うんぬんよりも、こうしたフィクションが相応の規模で流通し支持されている現状のほうに、こちらはより切迫した「まずしさ」を感じる。というより、ほとんど恐怖すらおぼえる。そして、一部のYouTuberがただただ金にものをいわせた企画でブイブイいわせていたり、いつからか芸能人がバラエティ番組で過去最高月収を語ったりするようになったのも、こうした「まずしさ」とまったく軌を一にしていると思うし、畜群らをオーディエンスとする「論破」がゴールのゲームをプレイヤーするだけの人間が(似非)知識人として台頭している現状のまずさにも遠く共鳴していると思う。

  • あと、2022年12月26日づけの記事には、「くわばらくわばら霊剣!」というクソフレーズも残されていた。これは今後も使っていきたい。以下は、2022年12月27日づけの記事より。

荘子の哲学』(中島隆博)を最後まで読み進める。以下、「魚の楽しみ」の解釈。面白い。

 「泳ぐことの快さ」は、「身体配置をもった体験」において生起するものであって、孤立した心的現象ではない。また、ネーゲルのように、「魚の楽しみ」を、人間もしくは自己の「主観的な」楽しみを想像的に変容したものとしての理解に留めてはならない。桑子は、「魚の楽しみ」を「荘周の身体配置のうちで、他者の身体と環境と身体のうちで生じる心的状態の全体性として」捉えようとする。それは、荘子の「身体配置をもった体験」を通じて捉えられる「他者の楽しみ」に他ならない。
 そうであれば、この「魚の楽しみ」が告げていることが、知覚の明証性とは別の事柄であることがわかるだろう。知覚の明証性は、「主観的な」明証性にすぎず、荘子が「魚の楽しみ」を特定の時空の中で生き生きと知覚したことによって、その経験の切実さを証明するものである。ところが、ここで問われているのは、荘子という「主観」もしくは「自己」が前提される以前の事態である。「自己」があらかじめ存在し、それが魚との間に特定の身体配置を構成し、その上で「魚の楽しみ」を明証的に知ったということではない。そうではなく、「魚の楽しみ」というまったく特異な経験が、「わたし」が魚と濠水において出会う状況で成立したのである。この経験は、「わたし」の経験(しかも身体に深く根差した経験)でありながら、同時に「わたし」をはみ出す経験である(なぜなら「わたし」にとってはまったく受動的な経験であるからである)。
 こうした経験が「わたし」に生じるか生じないかは、誰にもわからない。(…)
(…)
 濠水で魚を目にしたとしても、それにまったく触発されずに通り過ぎることはよくあることだし、あるいは魚を、釣ってみたい客体だと思うだけで、「魚の楽しみ」に思いを馳せることなどないかもしれない。したがって、「魚の楽しみ」を経験するというのはまったく特異な事態なのだ。それは「自己」の経験の固有性を確認するのではなく、ある特定の状況において、「他者の楽しみ」としての「魚の楽しみ」に出会ってしまい、出会うことで「わたし」が特異な「わたし」として成立したということである。ここにあるのは根源的な受動性の経験である。「わたし」自体が、「他者の楽しみ」に受動的に触発されて成立したのである。
 別の言い方をすれば、「魚の楽しみ」の経験が示しているのは、「わたし」と魚が濠水において、ある近さ(近傍)の関係に入ったということである。それは、〈今・ここ〉で現前する知覚の能動的な明証性ではなく、その手前で生じる一種の「秘密」である。それは、「わたし」が、泳ぐ魚とともに、「魚の楽しみ」を感じてしまう一つのこの世界に属してしまったという「秘密」である。知覚の明証性は、受動性が垣間見せるこの世界が成立した後にのみ可能となる。

 ここを読んでいる間、あたまをよぎったのはやはり、できごとが先行し、その後に個体(わたし)が生まれるという、ベルグソンを踏まえたドゥルーズの議論だった。実際、『荘子の哲学』でもこの後、ドゥルーズの生成変化に対する言及がある(毎度思うのだが、哲学の世界におけるドゥルーズのラスボス感は比類ないな!)。
 これはちょっと議論の水準が変わってくる話だが、精神分析の主体(無意識の主体)も、常に行為・発語の事後に否定性というかたちで一瞬姿を見せるものとしてあるわけで、つまり、最初からそこにそれとしてあるものではない。
 わたしが最初からあるのではなく、わたしとはあるできごとのあとに生じる事後的な産物であるというこの考え方は、当然、小説の語り(手)に関する議論ともいちじるしく共鳴する。特定の人称を有する一個の人格であれば到底なしえることのできないスケールの「語り」を、小説という形式にデフォルトとして備わっている単なる機能として括弧に入れてしまうのではなく、あえて「語り手」というひとつの人格として見なす。そこでたちあがる人格とは、当然、通常の意味における人間の範疇を越境した異形のもの、百面相あるいはのっぺらぼうの怪物となる。そのような異形の怪物の出現を、それが「人間」に対していかなる影響をおよぼしうるかという点にこだわらず、純粋な可能性としてひとまずことほぐということ。

  • それから2021年12月27日づけの記事からの孫引き。「楽しい」という語のチョイス、最高やな!

 テープを使おうと、あるいは伝統的な楽器のために作曲しようと、現在の音楽の状況は、テープが出現する以前とはだいぶ変わってきている。これについても警戒するには及ばない。というのは、新しきものの到来がそのこと自体によって、古いものから本来の場を奪うことはないからである。ものごとはそれぞれ独自の場を持っており、他の何かにとって代わることはない。また、ものごとは多ければ多いほど、いってみればそれだけ楽しいのである。
ジョン・ケージ柿沼敏江・訳『サイレンス』より「実験音楽」 p.29-30)

  • 2013年12月25日、26日、27日の記事も読み返す。以下は27日づけの記事より。『A』脱稿間近。

なにかをつくりだそうとするときひとはじぶんが天才でありじぶんにしか作れないものがあるはずだという思い込みをたとえほんのわずかであっても必ず抱くわけだが、そのなにかを完成させるためにはひとは当初のその自信が単なる思いこみであったことを痛感しみずからの傲慢を思い知り苦渋を舐めつくす必要がある。完成は多かれ少なかれ挫折というかたちをとってしかあらわれない。なんちゅうきびしい世界だ!神でさえこの世界を創造しそこねた!

  • 今日づけの記事もここまで書くと時刻は15時半だった。饭卡にチャージしたかったが、手元の現金はすでに切らしている。中国建設銀行のATMは以前第四食堂のそばにあったが、いまは別の銀行のものに変わってしまっている。近場に中国建設銀行のATMはないだろうかと思ったので、三年生の(…)さんに知っているかとたずねる微信を送ってみたところ、案内しますとすぐに返信が届いた。が、今日の夕方はシャワーの修理業者が来るかもしれないのだ。さてどうしたもんかと悩んだが、ATMは近くにあるとのことだったし、17時半には閉まってしまうとのことだったので、最悪外出中に業者がやってきてもすぐにもどればいいかというあたまで、じゃあいまから案内お願いしますと返信した。それでちゃちゃっと町着に着替えてからケッタに乗って女子寮へ。道中、すれちがいざまの女子学生らから「先生!」と呼びかけられたので一時停止してふりかえると、一年生2班の(…)さん、(…)さん、(…)さんほか数名。これからコンピューターの試験だという。加油! と激励。
  • 第三食堂前にケッタを停める。女子寮前で(…)さんと合流。電動自転車にのった女子学生から「先生!」と声をかけられる。ヘルメット+サングラス+マスクという強盗スタイルだったので一瞬だれかわからなかったが、三年生の(…)さんだった。電動自転車のカゴのなかには卒業証書が入っている。先輩のものだという。これから先生といっしょに銀行に行くのだと(…)さんが中国語で伝える。バイバイといって別れる。
  • 地下道を抜けて老校区へ。三年生の試験状況についてたずねる。考査はすべて終わった。考试は(…)先生のオンライン授業と(…)先生の高級日本語のみで、どちらも年明け後に実施。だからいまは暇なのだという。ATMは老校区の北門そばにあった。授業のあるときは毎回その前をケッタで通過しているというのに全然気づかなかった! いや、ATMがあるなとは思っていたが、別の銀行のものだと思っていたのだ。ちなみに学生らが現在大学に指定されるかたちで口座をもうけている銀行は中国光大銀行というところらしい。guang1da4と言われてもわからなかったので、どんな漢字? とたずねると、(…)さんはこちらの手をとって手袋越しの手のひらに指で「光」と書いた。ATMではまとめて2000元おろした。全部ピン札だった。
  • 万达にいきませんかと誘われた。メシの誘いを二回か三回連続で断ってしまっている現状、たぶん今回も誘われることになるだろうしその場合はなるべく受けてやりたいという気持ちがあったのだが、いかんせん修理業者が気になる。時刻は16時半前。この時間帯から業者がやってくる可能性はまだ十分ありうる。いったん寮にもどって18時ごろまで待機、その後出発という段取りにしたほうがいいんではないかと考えたが、ずっと以前、似たようなシチュエーションが発生したとき、業者が結局予定よりも数日遅れてやってきたことがあったのをうっすらと記憶していたし、(…)が連絡をしたのは今日であるわけだし当日内にやってくる勤勉な人間もまずいないだろうというあたまもあるにはあったので、もういっか、もし電話がかかってきたら急用で外にいると応じればいいかと考えた。それで徒歩で万达まで向かうことにした。
  • 歩きだしてほどなく、みたび「先生!」と声をかけられた。四年生の(…)さんだった。びっくりした。ひさしぶりだね! のあいさつもそこそこに、大学院試験はどうだった? とたずねた。(…)さん、手応えアリといった反応。とはいえ、彼女は院試に際して法学部に専攻変更、さらに試験で使用する外国語も日本語ではなく英語をチョイスしているため、日本語での会話にやや難儀、言いたいことをうまく伝えることができずにもどかしそうだった。かたわらには見慣れない女子学生がひとりいた。英語学科のルームメイトかもしれないし、法学部の学生かもしれない。
  • (…)公园に向かって歩く。こちらが以前録音してよこした会話文の発音がひとつおかしかったと(…)さんがいう。「ご連絡」という単語。ほかの先生から指摘されて気づいたというので、アクセントに迷うような単語ではないしさすがにそれをこちらが読み間違っていることはないでしょうと思ったが、再生されたものをきいてみると、信じられないことに「ゴレンジャー」のイントネーションで発音していたので、嘘やろ! と笑ってしまった。
  • (…)公园を抜ける。歩きながらなにを食べようかと相談する。自殺宣告の一夜についてはひとまず触れない。火鍋にしようかと提案する。スープを二種類にわければ、こちらは辛くないもの、彼女は辛いものを楽しむことができる。柴犬を連れた老人と二度すれちがう。中国では柴犬の人気が高いと(…)さんがいう。
  • 溝川沿いの半地下通路を抜けて大通りの対岸に渡る。このあたりで以前変態のおじいさんに声をかけられたという。ひとりで歩いている最中、突然、美女! 連絡先を教えてくれ! 友達になってくれ! と言われた、と。雨が降ってもいないのに傘を差していたというので、何歳くらいのひとだったのとたずねると、40歳くらいというので、出来事そのものよりも40歳を「おじいさん」と表現してみせるワードチョイスのほうがひっかかった、ぼくもう38歳なんだけど! と抗議した。
  • 万达の中へ。エスカレーターで四階に移動し、あらかじめ目星をつけていた店に入る。時刻は17時ぴったり。店内はガラガラ。こちらはだいたい毎日17時ごろに夕食をとる習慣であるし、今日は朝昼兼用でトースト二枚を食しただけなので問題なかったが、(…)さんは日頃19時ぐらいに夕飯をとるとのことで(最近は毎日のように自炊しているらしい)、ややはやめのいただきます。肉および魚の中から三品、野菜の中から三品を選ぶコースを(…)さんが選択。スープはもちろん唐辛子たっぷりのやつと三鮮のやつ。オーダーは五花肉、羊肉、海老のすり身、えのき、娃娃菜、名前のわからない緑色のぶっといとうもろこしみたいな味のする野菜。
  • 食す。(…)さん、例によって唐辛子スープでしゃぶしゃぶしたやつを唐辛子たっぷりのタレにからめて食う。二年生の(…)さんが過去最強の辛味耐性の持ち主であったという話をしたからだろう、対抗意識を燃やしてのことだと思うが、豚肉で大量の唐辛子を巻いて食べるというのを何度もくりかえしてみせる。もちろんそのつど全然辛くないですという。これが以前(…)くんの言っていた中国人の格好のつけ方というやつなのだろう。(…)さんはときおり食べ放題のコーナーにある広東省のスイーツにも口をつけた。しかしこれについても、別に辛いものを中和しようとする考えで食べているわけではない、単純にこの味が好きなのだみたいなことを口にするありさまで、どんだけ負けず嫌いやねん。
  • 食事中は他愛ない会話。これまでに何度もくりかえしてきた話を今日もまたくりかえす。言葉の壁があるので仕方ない。めあたらしい話題としては、クリスマスをどう過ごしたかというものがあった。イヴは外教とのクリスマスパーティー、クリスマス当日は二年生女子と新規オープンしたモールで食事会だったというと、(…)さんはずっと寮にいたという。とても退屈だったと続ける。しかしこれが嘘であることをこちらは知っている、なぜなら万歩計アプリで24日か25日か忘れたが、彼女が歩数上位にランクインしているのをこちらはたまたま目にしていたからだ。相棒の(…)さんは学生会関係のイベントで(…)に出向いていたらしい。
  • 院試には挑戦しないことにしたという話もあった。代わりに公務員試験を受けるという。省単位のもの。ふるさとの江西省で公務員になって(…)と暮らしたいという。江西省は経済状況がよろしくない。しかるがゆえに公務員になっても月給はわずか3000元だという。それでも安定はしている。
  • 途中、スマホの着信。彼氏じゃないの? と冗談で口にしたところ、まさかのビンゴ! しかし電話には出ない。ちょうどいいきっかけになったなと思われたので、(前回の自殺宣告のあとに)彼氏とは復縁したのかとたずねると、完全に別れたという返事。別れたといいながらいままさに着信があったわけだが、むこうが復縁を求めているだけだという。微信の連絡先も削除したと続ける。どうせまた復縁するでしょうというと、それはないという。彼氏は大学院試験の勉強に集中したいという理由でいちどじぶんを切った、にもかかわらず合格したらしたですぐに復縁を求めてきた、そういう人間は信頼ならないと続けたが、まったくおなじ話を以前こちらの前で口にした数日後に復縁したという前科があったので、これについてもニヤニヤしながら受け止めざるをえない。共通の趣味がない、価値観も異なる、だから復縁はないというので、だったらそもそもどうして付き合ったのかとたずねると、高校生のときはあたまのいい先輩がかっこよくみえたからというので、クソ笑った。50メートル走のはやい男の子がモテる小学生とほとんどおんなじ理屈やんけ。
  • 中国の男はダメだとまたいつものように言う。そういう考えはやめなさい、いい男性もいればわるい男性もいる、それだけの話だと応じるも、耳をかたむけない。とにかく中国人とは結婚したくないという。しかし公務員になったら外国人と結婚することもできないというので、海外旅行もできないんでしょうとたずねると、できないことはないが条件や手続きがかなり複雑であるという返事。外国人といってもアメリカ人やイギリス人は嫌だというので、うるさすぎるから? とたずねると、たくさん恋愛しているからという返事。恋愛経験の少ない外国人がいいという。子どもは欲しくないというので、うちの女子学生はみんなそう言っているねというと、でも男性はみんなほしいと思っていますという。(…)さんはとにかく出産がこわいといった。以前リストカットした傷跡を病院で処置した際、麻酔を打ったにもかかわらず激痛を感じ、痛みのあまり右の太ももを掴む指に力が入りすぎて皮膚から出血するほどだった、出産はもちろんあれよりも痛い体験だ、だから絶対に嫌だといった。
  • (…)さんは豚肉と羊肉をひと皿ずつ追加注文した。こちらはその時点ですでに腹八分目だったので、これ絶対食べ切れないでしょと思ったが、なんだかんだで食べきった。(…)さんは最近ずっとダイエットしており、体重を2キロ落とすことに成功したというのだが(現在47キロらしい)、今日でまた50キロになったかもしれないといった。
  • 支払いは例によってこちらが多めにもつ。店を出てほどなく宝くじ売り場が目につく。行くしかねえ! と、(…)さんが前かがみになる。お腹が痛いという。先日の(…)さんとおなじかと思ったが、トイレに行きたいわけではないという。どうやら唐辛子の食べすぎによる胃痛らしかった。いったんどこかに座ろうかとうながす。宝くじ売り場に椅子があったのでそこに彼女を座らせる。先生は彩票を買ってくださいというので、そういう場面でもないんではないかと思ったが、とりあえず20元のものを一枚買う。それで彼女のかたわらに腰かけてスクラッチする。さっそく20元当たる。その20元でもう一度20元の宝くじを買う。今度は20元×2で40元当たる。ふたりそろってびっくりする。その40元で今度は40元の宝くじを一枚買う。すると50元当たる。(…)さんとそろって爆笑する。こんなに連続で勝ちすすめるのは地元にある駄菓子屋「(…)」で「ヤッター! めん」を連チャンさせたとき以来だ! その50元で今度はこの売り場でもっとも高い宝くじであるところの一枚50元のやつにチャレンジすることに。
  • その50元のくじの引き換えにたったとき、売り場の夫婦らしい男女からどこの国の人間だとたずねられた。例によって(…)话で日本人だと応じると、夫婦は笑った。するとそのときそばにいた客が、日本人? おまえ日本人なのか? とこちらにいった。坊主頭というかハゲの小男だった。目が片岡鶴太郎に似ていて丸く窪んでおり、ガリガリで、一目見た瞬間、うん? という違和感をおぼえたのだが、50元の宝くじをもってテーブルとチェアにあるほうにもどったこちらと(…)さんのそばになぜかついてきた。そしてスクラッチするわれわれを後ろから立って見下ろしていたのだが(その時点で、こいつここで大当たりが出た瞬間にわれわれのくじを奪うつもりでいるんじゃないだろうなと多少警戒した)、突然、(…)さんの耳元に顔をぐっと寄せてなにかささやいた。その瞬間、あ、これはやばいかもしれん、と思った。(…)さんの表情がゆがんだのがわかったので、おっさんをとりあえず追い払おうとして相手の胸ぐらに手をのばしかけたが、おっさんはひらりと身をかわして去っていった。変なこと言われた? とたずねると、ちょっと顔をしかめてあいまいに肯定した。くじはここでも的中、なんと50元×2=100元ゲットという結果だった。流れ的にはここでさらに50元のくじを二枚追加で購入するところだが、先のおっさんがまだ売り場のほうにいたので、ここは彼女を保護するほうが優先だなというわけで、売り場の夫婦に現金で100元もらうだけもらってさっさと階下に移動した。立ちあがって移動するとやはりまだ腹が痛むらしい(…)さんに、さっきのおっさんなんか嫌なこと言ってたでしょうというと、あのひとは日本人が嫌いですという返事。
  • 一階におりた。スタバの店内で休憩するかとたずねると、公園に行くという。しかし公園のベンチまではまだ少し距離がある。店の外に出て広場を歩いている最中も両手でお腹をおさえて前屈みになっているので、トイレに行かなくてもいいかというと、そういうのではないという返事。公園まで歩いていくのはちょっとむずかしそうだったので、駐輪スペースの端っこ、植え込みのための段差がもうけられているところに座るようにうながした。ならんで腰かける。座ると少し楽になるらしく、ぽつぽつとさっきのおっさんについて話しはじめた。おっさんは彼女の耳元で、日本人はよくない、日本人はやめておけ、みたいなことを口にしたらしい。レジの夫婦はとても親切だった、夫婦とやりとりしているときに先生のことを大学の外教だと説明した、それをあのおっさんも耳にしているはずなのにその後も悪い言葉を何度も口にしたというので、悪口自体は別にどうでもいいのだけど、ぼくはあのひとがきみの耳に突然顔を近づけた、それがよくないと思った、あれはセクハラでしょうといったのち、体に触れられてはいないかとたずねると、肩に手を置かれたというので、あのクソ野郎やっぱ一発かましといたったほうがよかったなと思った。冬だから厚着している、だから気にならない、でも夏だったらすごく嫌な思いをしたと思うと(…)さんは言った。
  • ときどき考えることがある。もし中国であの手のおっさんなり不良なりが本格的にからんできたらどうすればいいのか、と。日本とは勝手が異なる。さっさとぶん殴ればいいというものでもないだろう。ただちょっと思うのは、さっきのおっさんみたいなあきらかに党関係者や黑社会との关系を有していないようなしょうもない人物が相手である場合、たとえばぶん殴り合いになったとしても、その後のジャッジはこちらに有利に働くんではないかということだ。(…)には外国人が少ないが、市政府は国際的な都市であるという評判目当てに市内に住む外国人数の上昇をのぞんでいたはずであるし、それは市内に唯一の大学である(…)も同様で、そういう意味で、大学教員の外国人であるこちらはまずまず保護優先度の高い存在として取り扱われるのではないかという印象を以前から抱いていた(逆に、外国人数の多い大都市であればそうはならないだろう、外国人なんてしょせんone of themでしかないからだ)。だから先のようなシチュエーションの場合、つまり、あきらかに相手方に非があり、かつ、周囲の目撃者も多いという場面であれば、早い話、胸ぐらのひとつやふたつひっつかんでやってもよかったのではないか、ついでに喉仏を親指でグッとやってやってもよかったのではないかと思うわけで、その点、ちょっと後悔した。まあでもそんなことをして、たとえば相手がやりかえしてくるなどして騒ぎがおおきくなったら、結果的に同行者である(…)さんにますます迷惑をかけるはめになるわけだから、あのときの判断は間違っていなかったのかもしれないが、それにしてももやもやが残る。ただこのもやもやというやつは、結局、田舎の不良社会で育ったじぶんの育ちの悪さに由来するものでしかないのかもしれん、そんなメンツは犬にでも喰わせておけばいいのかもしれん。でも宝くじ連チャンの流れがあれで途切れてしまったのは本当に残念だと思う。マジで大富豪になっていた可能性だってあるのに!
  • 中国はまだ進歩していないと(…)さんは言った((…)さんはよく「進歩」という言葉を使う)。座っているうちに回復したというので、そのまま(…)公园を抜ける帰路をたどる。ドブ川で魚釣りをしている老人らが今日もいる。(…)さんは釣りについて「なにが楽しいですか」といった。笑った。夜空に噴きあがる噴水のしぶきを遠くに見上げながら橋を渡る。(…)さんはこれまでにも「変態」のおじさんの嫌がらせにあったことがあるという。高校生のときに道を歩いているといつも故意にぶつかってくる掃除夫のおじいさんがいた(中国版「ぶつかりおじさん」!)。一度目は偶然かと思った。二度目は故意とわかった。三度目にいたっては彼女の帰路で待ち伏せしていたという。また高校一年生のときの軍事訓練時、担当教官の質問に答えられずもじもじしているときに体を触られた、悲鳴をあげると教官はにやにやしながら去っていった、当時のじぶんは16歳だった、信じられないというので、そういう思いをしている女の子はたぶんほかにもたくさんいるんだろうねと受けた。そして昨日あたりから報道されている松本人志の性加害疑惑の一件について思ったりした。
  • 噴水の広場を通り抜ける。(…)さんは歩きながらスマホをちょくちょく見ていた。たぶん(元?)彼氏とやりとりしているのだろうと思った。しかしそのスマホもじきに充電が切れたようす。もうひとつの橋を渡っている最中、先生は中国に来てから恋愛をしましたかと問われたので、だれかと付き合ったかという質問であると解釈したうえで、していないねと応じた。前から犬を連れたおばちゃんがやってくる。中型犬。毛は短くて防寒着を着せてもらっている。名前は忘れた。ゴールデンレトリーバーとなんかのミックスだという。しかし臆病なのか、われわれが手をのばしても近づいてこようとせず、むしろあとずさりした。
  • ふたたび歩き出す。前方にそびえたつマンションをながめながら、あれは日本にありますかという。高層マンションは東京や大阪のような都市部に多い、でも中国人にくらべると日本人はマンションよりも一軒家のほうを好むと応じると、(…)さんも一軒家のほうがいいという。ぼくもし宝くじでお金持ちになったら、たぶん田舎に家を買って車の免許をとりなおして、そこで犬といっしょに暮らしながら毎日読み書きだけして過ごすよというと、わたしがお金持ちになったら先生に家をあげますというので、でも公務員の月給3000元じゃむずかしいよねといった。(…)さんは笑った。しかし前回手相占いの「先生」に診てもらったとき、将来は1000万元以上の資産家になると言われた、「先生」によるとじぶんは国家公務員と結婚するらしいというので、だったら筋書き通りじゃん! (…)さん公務員になるんでしょ? 職場できっと大金持ちの同僚と出会うんだよ! それで結婚するんだよ! といった。
  • 南門から新校区に入る。第三食堂前でケッタを回収。(…)さんは例によって寮までついてくるという。第四食堂付近を歩いている最中、最近は毎日散歩ついでに(…)に行きますというので、ぼくもヨーグルトやラーメンを買わなきゃとなんとなく漏らしたところ、いま? いまですか? とめちゃくちゃ笑顔になっていうので、きみ寮に帰りたくないんでしょ? というと、先生! どうしてわたしの気持ちがわかりますか! という反応。いや、むしろだれがわからんの? という感じ。それでケッタを西門のそばに停めて(…)に向かうことに。(…)のそばには宝くじ売り場もあるし、あそこでさっきの続きを買うのもいいなというと、(…)さんはその場でぴょんぴょん飛び跳ねた。先生はどうしてわたしの気持ちがわかりますか? としつこくたずねるので、顔を見たらだれだってわかるよと応じると、じゃあさっきの変態のおじさん、「あの子」がいるときのわたしの気持ちわかりますか? というので、すごく嫌だったでしょう? 気持ち悪かったでしょう? はやく帰りたかったでしょう? だからぼくは宝くじを途中でやめました、それでもう帰りましょうと言いましたと受けると、先生! あなたはとてもすごい! どうしていつもわたしの気持ちがわかりますか! とまたいった。わからんやつのほうがあたまおかしいやろ。
  • また「先生!」と声をかけられた。一年生2班の(…)さんと(…)さん。本日二度目の遭遇。宝くじで稼いだ100元札を見せびらかす。ふたりはお菓子でいっぱいになった買い物袋を提げていた。年末パーティーの準備だろう。
  • 顔認証のゲートを抜けてキャンパスの外に出る。例の宝くじ屋をたずねる。現在80元プラスの計算なので、店で売っていたいちばん高いやつ、すなわち、一枚50元のやつにチャレンジする。しかしハズレ。残り30元はプラスのまま手元に残しておくことに。あの「変態」のせいでツキに逃げられてしまった。
  • (…)を冷やかす。タラバガニやサンショウウオやすっぽんの水槽を今日もながめる。(…)さんは点点のための肉が買いたいといった。先生の冷凍庫を借りてもいいですかというので了承。地元のスーパーよりも(…)のほうが肉が安いらしい。しかるがゆえにここで肉を買いだめし、冷凍したやつを実家に持って帰るという算段。ただ、この時点で時刻は21時をまわっていたからだろう、肉はすでに売れ残りしかなかったので、また別の機会に出直しましょうということになった。こちらはインスタントラーメンと红枣のヨーグルトとピーチ味の炭酸ジュースを購入。
  • 西門経由でふたたび新校区へ。(…)さん、やっぱりこちらの寮までついてくるという。時刻が時刻であるしもういいといったのだが、ケッタのハンドルを手にとって無理やりこちらの寮のほうにむけようとする。明日は授業だと漏らすと、まだ授業があるんですかと驚いてみせるので、一年生は軍事訓練のせいで授業が遅れているからと受ける。一年生はどうですかというので、正直かなりレベルが低いと思うと受けると、今年の新入生の高考のスコアはとても低いという。相棒の(…)さんが班导をしている関係で新入生らの高考のスコアを知る機会があったのだが、(…)さんらの時代とくらべるとずいぶん低いのだ、と。具体的にいえば、(…)さんらの時代は560点だったか540点だったか、これが彼女個人の点数であるのか平均点であるのかあるいはボーダーラインであるのかはわからないが、とにかくそれくらいの数値だったのが、今年は400点台にまで低下しているという。レベルだけでいえば今年の新入生は三本大学と同じだというので、(…)とおなじレベルかというと、そうですという返答。それは日本語学科だけの話? それとも(…)全体? とたずねると、それはわからないという返事。しかし以前通話した際に(…)さんが語っていたのと符号する話だ。(…)大学の新入生もやはり高考のスコアが100点ほど低下したという話だった。ぼくもそろそろこの仕事をやめるころかもなと漏らすと、わたしたちが卒業するまでは……というので、あと一年はいるよと応じた。
  • 帰宅。火鍋を食いながら撮った写真を(…)さんに送ってからシャワーを浴びる。ストレッチをし、今日づけの記事の続きを書きながら懸垂し、プロテインを飲んでトーストを食し、大友良英のインタビュー記事「「10年後はないかもしれない」大友良英、60代半ばで到達したギター&ターンテーブルの自在境」の前後編を読む。
  • 1時になったところで日記を中断してベッドに移動。『限りなく透明に近いブルー』(村上龍)を最後まで読み進める。今日は『Be the Cowboy』(Mitsuki)と『Win&Lose』(Chinese Football)と『藤倉大:ウェイファインダー』と『藤倉大オーケストラル・ワークス「世界にあてた私の手紙」』と『Diffusion of Responsibility』(She Her Her Hers)と『Cousin』(Wilco)をききかえした。