20240313

 我々は朝目覚めたときに、そこが夢の世界ではないことにすぐ気がつく。たった今まで真剣に夢を見ていたのに、夢だったのか、で済ませてしまう。たとえば夢の中でどこかへ行き着こうとして、どうにも行き着けないような夢を見ていたとすれば、いったん起きればもうそこに行くことなどどうでもよくなり、それがどこだったかも気に留めない。これはいささか節操を欠いてはいないか?
保坂和志『小説の自由』より新宮一成カフカ、夢と昏迷の倫理」)



 8時30分起床。10時から一年生2班の日語会話(二)。第12課。教案、全体的にちょっと弱いなという印象。特にアクティビティがまずい。要修正。
 死ぬほど混雑しているキャンパスを抜けて寮にもどる。階段でHとすれちがったので軽くあいさつ。昼飯は冷食の餃子。食後、30分ほど昼寝。
 (…)大学のKさんからLINEがとどいている。万达の雑貨屋でふざけたサングラスをかけてポーズをとっていたりするこちらの写真が約束どおり送られてきたかたち。礼を言う。ついでに数ターンやりとり。
(…)
(…)
 14時から17時まで「実弾(仮)」第五稿作文。シーン25をもういちど見直す。シーン26もあたまからケツまで通す。けっこうバッサリ切った。第四稿で加筆した孝奈の心理描写がうっとうしく感じられたので。そこまで説明する必要はないやろ、と。
 夕飯は第五食堂で打包。食後チェンマイのシャワーを浴びる。ひさしぶりに口ひげを落とす。口ひげを落とすたびに、鼻と上唇のあいだにあらわれるスペースの広さにびっくりする。こんなに豊かな大地が広がっていたのか、と。あと、やっぱり少し若返ってみえる。あごひげはそのままにする。19時前であってもおもてが暮れきっておらず、照明を落とした浴室内が真っ暗にならないのに、ずいぶん日が長くなったなと思った。寝巻きのヒートテックを身につけたらなぜかものすごく大麻のにおいがしてびっくりした。洗剤のにおいだろうか? あるいは最近新調した洗顔フォームのにおい?
 コーヒーを淹れて、きのうづけの記事の続きを書く。投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の日記を読み返す。2014年3月13日は東京滞在最終日で、Hくんといっしょにオーラの話をしたり、美術館をおとずれたり、神保町でカレーを食ったりしている。全体的に充実した書きぶりになっている。必読。記事冒頭に掲げられているブレッソンの抜き書きもたいへんよろしい。

 原因は結果の後に来るべきであり、それに伴行したりそれに先んじたりするべきではない。
ロベール・ブレッソン/松浦寿輝・訳『シネマトグラフ覚書』)

 先日、私はノートル・ダム寺院の公園を横切る途中で一人の男とすれ違ったのだが、そのとき、私の背後にあって私には見えない何ものかを捉えた彼の眼が、突然ぱっと明るくなった。彼が走り寄っていった若い女と小さな子供に、もし、私もまた彼と同時に気づいていたならば、この幸福な顔は私をこれほど強くうちはしなかっただろう。恐らく、それに注意を向けさえしなかったことだろう。
ロベール・ブレッソン/松浦寿輝・訳『シネマトグラフ覚書』)

 「A」を書いているとき、ブレッソンのこの言葉に直接影響を受けたわけではないと思うのだが、動きのある描写や出来事を書き記すにあたって、こうした考え方があたまのなかには常にあったように記憶している。ひとつ目の抜き書きに即していえば、「Aなので、Bだった。」式の書き方は控え、「Bだった。Aだったからだ」というかたちを採用していた。ふたつ目の抜き書きに近いのは、「A」は脱稿後いちども通読していないのでもしかしたらまちがっているかもしれないが、大佐が黒豹に噛まれる場面で、まず「痛み」を提示→黒豹の姿を提示→噛まれたという事実を提示という順に記述をくりだしているはず(さらにいえば、「痛み」を「痛み」としてではなくまず「熱」として提示しているはずだが、これはJさんが改造銃で腹を撃たれたときの経験談を元にしている)。

 楽天ストアから荷物の配送メールがとどいたので、受けとりだけたのむと母にLINEを送った。じきに折り返しの電話があった。Cが元気にしているという報告だった。こちらに代わって最近は弟が散歩やドライブに同行しているという。(…)川で犬を散歩させている飼い主たちはみんなCがあまり歩けないことを知っているため、じっとその場に突っ立っているだけのCのところに、むこうからわざわざ近づいてきてくれるらしい。最近は19歳のダックスフンドと知り合ったという。目もみえないし、耳もきこえないのだが、足腰はCよりしっかりしている。いくら小型犬とはいえ、19歳というのはちょっときいたことがない。信じられない。
 Fくんの「塔のある街」を読んだ。ずいぶん変な小説だと思った。たとえば「塔」をはじめとして、「におい」「凍て闇の悪魔」「図書館」「天使」「賢者」「首輪」「テオドール」「ジャジャーの首の穴」など、この小説には比喩の結節点となりえる要素がふんだんに盛りこまれている。それらの形象はある意味かなりベタなものであり、通常の小説であれば、これらの形象を丁寧に追って拾っていきさえすればそこになんらかの意味の体系が浮かびあがってくる、一種の目印みたいなものとして特権的にあつかわれるものだと思うのだが、この小説ではどうやらそうではないらしい。いや、それらの要素を星座をおりなす星のようにたどることで有効な読み筋をひねりだすことはやはり可能なのかもしれないが、それらの要素はほかの目立たない要素と権利上ほぼひとしいものとして配置されているようにみえる(意味深な表象として現代ではほとんど記号化しているといってもさしつかえないだろう「塔」と、「わたし」が宿のひとびとと交わす他愛ない会話が、同じ等級の輝きを有する星として、潜在的な星座をかたちづくっている)。ときには、これらの要素が比喩の結節点(星)ではなく、むしろ作品の「世界観」をかたちづくる単なる意匠でしかないように見えさえすることもあるほどだ。仮にそれらがすべて単なる「意匠」であるのだとすれば、この小説は(娯楽小説の一種である)ファンタジー小説ということになるだろう。
 しかし当然のことながら、この小説はいわゆるファンタジーに分類されえない。娯楽小説には必須の「設定」も「キャラクター」も「ストーリー」も、そのすべてがバラバラに、それも大半は言葉足らずのまま語られており、読み手を安心させる大枠をかたちづくってはいない。かといってそれらの断片性をひたむきにおしすすめていった結果としてできあがったものでもやはりない(この小説は磯﨑憲一郎の諸作品とは似ても似つかない)。Fくんはたしかこの作品を書くきっかけとなった先行作品としてムージルの「グリージャ」を挙げていたが、「グリージャ」は、あれはあれでわけのわからない作品ではあるものの、大枠の存在がたしかに感じられる。「塔のある街」は「グリージャ」よりあきらかにとっちらかっている。しかし同時に、「塔」をはじめとするもろもろの形象はむしろ、あきらかに物語と相性のよいものであり、散らかる諸物をひとまとめにする吸引力をもつものらである。そうした要素をふんだんに用いながらも、しかしその吸引力を骨抜きにしている。使い古されてほぼ記号化してしまった表象に、もういちど(意味から遠く離れた、純粋な)表象としての権利を取り戻させているようにもみえる。そこに独自の質感がともなう。
 もちろん、先にも述べたように、それらしい読み筋をたどることはできる。特に「塔」とそれにまつわる数々の噂は、ベタに読むのであれば、無限とその数多の解釈ということになるだろう。あるいは「街」自体が「慣れた気がしない」「不思議なにおい」のする場所として言及されている箇所を、作中冒頭の「街の門をくぐるときの数秒間、そこでうつり変わるのは空間ではなく、なによりもにおいだ。どの都市にも、固有のにおいがある。(…)そのようにして、わたしたちはふたたび、ひとつの街につつまれることになった」という記述と重ねあわせることで、「塔」のみならず「街」そのものもまた、「ひとつ」にはおさまらない無限の表象として読むこともできるだろう(この読み筋は「街」=「開拓地」=「前線」という作中のほのめかしによっても補強される)。そしてそうした解釈を収集し、各地を旅しながらその解釈を語ったり歌ったりして路銀を稼ぐ、それが作中一度も名前の明かされることのない、宿の娘からあだ名さえつけてもらえない、ダイアローグがモノローグとして鉤括弧をともなわず語られる、真理としての固有名を剥奪された「わたし」であるのだ(さらにいえば、その「わたし」の「わたしが語れるのは、いつもだれかが教えてくれたはなしだけです」という台詞と、ダイアローグがモノローグとして語られているこの小説の形式上の特徴を重ね合わせることで、「塔のある街」というこの小説そのものが「わたし」の語り=「だれかが教えてくれたはなし」であるとするメタ的な読解も可能だろう)。
 もっとも奇妙なのはやはりジャジャーに関連するエピソードだろう。まず、ジャジャーが警戒心をあらわにする場面。一度目は《凍て闇の悪魔》と呼ばれる「雪虎」を見つけた「橇の主人」が犬笛を吹いたとき。これは単純に犬笛に反応したものとして、あるいは「雪虎」に反応したものとして理解できる。しかし問題は二度目だ。「街」の「中央広場」で「わたし」が芸を披露したあと、「路銀の足しもある程度あつまってそろそろ宿にかえろうかという日暮れ時」、ジャジャーが警戒心をあらわにする。しかしこの場面でなぜジャジャーが警戒心をあらわにしたのかはわからない。「視線がかたくひかれたさきは、中央広場からいくつも出ている道すじのうち、はんぶん裏路地という雰囲気のほそい一本のなかだった。異常なものはなにもなかった。ひとのあまりみえない通りの最奥に、そこを行くひとりの服か持ち物か、水に濡れてふにゃふにゃとしぼみ形になりそこなったような、ピンク色のあいまいな四角形が浮かんでいたが、それに反応したともおもえなかった」という奇妙な記述があるだけだ。「ピンク色のあいまいな四角形」の正体は気になるが、「異常なものはなにもなかった」「それに反応したともおもえなかった」という二重の打ち消しによって、単なる風景描写として済ませてしまいたくもなる。

 おなじように謎めいているのがジャジャーの首まわりに突如としてあらわれる楕円形の穴だ。ひとつめの穴があらわれる前も、ふたつめの穴があらわれる前も、ジャジャーは宿の人間によってグルーミングされている(一度目は「少女」に、二度目は「お嬢さん」によって)。しかしそれが穴の出現のきっかけであると断言することはできない。
 そのジャジャーは、終盤、はじめて「わたし」のもとを離れる。「広場から出ている数ある通りのうちの一本」に去っていくようすが描かれているが、それが「ピンク色のあいまいな四角形が浮かんでいた」あの一本とおなじであるかどうかはわからない。そして翌朝、「なにごともなく帰ってきた」ジャジャーの「首もとの穴はなくなってい」る。そして「ジャジャーはもう、首輪をつけようとしな」い。この首輪については「リードをつけるためのもの」ではない、「旅先で懇意になった職人にこしらえてもらったひとしな」「純粋に装飾品」であると事前に言及されている。そうであるから、「首輪をつけようとしない」ことがジャジャーの(飼い主=「わたし」からの)独立を象徴しているとする単純な読み方はかなりあやしくなるわけだが、仮にそうであるとした場合、この作品のあきらかにムージルを意識した書き出し、つまり、「旅の途中で、ひとは多かれすくなかれ、おのれをうしなうことになる。ただしいこころ構えを知らなければ、それに気がつくことはない。気づく者は数すくなく、おのれ以上をうしなえる者はさらにずっとすくない」という文章の、「おのれ以上をうしなえる者」の共鳴をききとることもできるだろう。作中、「わたし」によって「相棒」と呼ばれる存在であるジャジャーの独立を、「おのれ以上をうしな」う喪失経験として読むというわけだ。そしてその読み筋にさらに付き合うのであれば、街のひとびとについて「しばりつけられているんですよ、この土地にね。まるで先祖代々、ここで殺されたみたいに」と語る「幽霊男」の言葉を、「相棒」という束縛から解放されたジャジャーと対比して読むことも可能になるだろう(ちなみに、この台詞は「幽霊男」がまさに「幽霊」について自己言及している場面として読むこともできなくはない)。
 とはいえ、それよりも妥当なのは、塔=無限=現実的なできごとをめぐる多数の解釈(他人の言葉からなる無数のうわさ話)を安全圏から語るだけであった私が、ほかでもないその無限(の解釈不可能性)に当事者として巻き込まれるという読み筋だろう。「雪の視点をやどせたならば、無限のかなたとは空のあちらがわのことではなく、わたしがいま座っているこの地上にほかならなかった」という言葉にあるように、あちらがわ(塔=上空)に属するものとされていた無限が、こちらがわ(街=地上)に属するものでもあるという気づきを得たのをきっかけに、「わたし」はジャジャーの首まわりに出現する「穴」という、それ自体いかなる意味づけも拒む(がゆえに無数の解釈をうみだす)、現実的なできごとに遭遇する。その穴はのちほど塞がれはするのだが、穴がかつてたしかにあらわれたという事実はなくなりはしない。無限=現実を遠巻きにながめていた安全圏、象徴体系の確固たる足場が、一度たしかに崩壊するにいたった、その痕跡として「首輪」をふたたびつけようとしないジャジャーの姿が最後に置かれる——しかし、この読み筋はそれほどおもしろいとは思わない。
 ここまで書いてみて思ったが、もっともおもしろい読み筋はやはり、上に一度書いた、「その「わたし」の「わたしが語れるのは、いつもだれかが教えてくれたはなしだけです」という台詞と、ダイアローグがモノローグとして語られているこの小説の形式上の特徴を重ね合わせることで、「塔のある街」というこの小説そのものが「わたし」の語り=「だれかが教えてくれたはなし」であるとするメタ的な読解」だろう。図書館という形象ともそちらのほうが相性がよい。