20240319

 もちろん〝信仰〟ということだが、信仰とはそもそも肉体からやってくるのか、言語からやってくるのか。信仰とは肉体を言語に拘束させた状態なのではないか。生の感情を聖書などの言葉によって鋳造しなおした状態が信仰なのではないか。
保坂和志『小説の自由』 p.160)

 「鋳造」って「ちゅうぞう」と読むのか。ずっと「いぞう」と読んでいた。



 6時30分起床。三年生のS.Sくんから微信。39度の発熱。きのう約束した新疆烤肉には行けなくなったというので、体調が回復したらまた行きましょうと応じる。コロナかもしれない。
 8時から二年生の日語基礎写作(二)。「キャッチコピー」を返却し、おもしろ回答を紹介する。それだけで授業前半がまるっとつぶれる。ちょっと予想外。寝不足にくわえてコーヒーを飲んでこなかったせいで、あたまがちょっと働いてくれない感じがあった。授業後半は「◯◯の日記」作文。「嘘日記」の代用として今学期はじめて導入した教案。学生らが作文を書いているあいだ、『新しい小説のために』(アラン・ロブ=グリエ平岡篤頼・訳)を読んだり、五階にある(使用者が少ないゆえに)比較的きれいな便所でうんこしたりする。
 作文のための時間を後半40分しか用意することができなかった。そのせいで授業が終わってもなお作文を書き終わっていない学生が複数いた。R.Hくんが教卓にやってくる。初対面の日本人と会話するにあたっては敬語を使ったほうがいいとは思うが、敬語を使うのをやめるタイミングはいつなんだろうかという。難問。基本的にです・ますを使っておけば間違いない、相手のほうでタメ口でいいよと言ってくるタイミングまではです・ますで話すという方針にしておけばいいんではないかと応じる。
 英語学科の学生たちが教室に入ってくる。R.KさんとK.Dさんのふたりが作文を書き終わるのをそばで待つ。英語学科の女子学生が複数、日本語で「先生」と口にするのがきこえる。ん? とそちらを見ると、みんなものめずらしげにこちらをながめている。「こんにちは」とあいさつしてみると、「こんにちは」と返ってくる。第二外国語で日本語を学習しているのだろう。作文を書き終えたふたりとこちらが日本語で会話するようすを興味深そうにながめている。いまきみたち注目されていてちょっとはずかしいでしょうというと、K.Dさんがうんうんと首を縦にふる。
 ふたりと別れて一階に移動する。K先生がいる。リュックサックからGODIVAを取り出して渡す。毎回ありがとうございますとK先生がいう。そこから少々立ち話。韓国人のK先生について話す。(…)街で夜桜をめでた先日のできごとについて、中国で韓国人といっしょに桜を見ている日本人の自分を意識したときはさすがにちょっとあたまが混乱しましたと告げると、大笑いする。S先生は今学期すでに主任を外れたのですかとたずねると、然りの返事。事務仕事は多いし成果を出せという上からのプレッシャーもあるしで、もう何年も前からおりたいと考えていたらしい。代わりに主任になるのはC.N先生。そのC.N先生がやってくる。C.N先生もやはり主任はしたくないという。仕事量が膨大に増える、しかし賃金は年間で3000元ないしは4000元しか増えない。
 C.N先生が去る。K先生とそろって駐輪場に移動する。Mさんがこの夏から重慶にやってくることを伝える。(…)にも顔見せにやってくると思うのでまたいっしょに食事でもしましょうと約束する。Iは元気にしていますかとたずねると、元気すぎるという返事。先週ははじめて週末の宿題を土曜日にすべて終わらせることができた、だから日曜日はご褒美としていっしょにSwitchでたくさん遊んだとのこと。今週の金曜日から来週の月曜日まで学校を休んで南京旅行にいくというので、小学校はそれを認めてくれるのかとたずねると、それらしい理由を取り繕えば問題ない、とはいえ取り繕ったところで子どもであるので結局ぜんぶ話してしまうに決まっている、だから担任には正直に旅行にいくと告げたとのこと。いっしょに来ませんかと誘われる。本気かどうかわからないが、さすがに家族旅行にじぶんが加わるのはアレだろうから、これは遠慮する。夏にはまた新入生がやってくる。また2クラスなのだろうかとたずねると、日本語学科の就職率は高くないのでどうなるかわからないという返事。中国経済の話に自然となる。K先生の見通しはかなり暗い。教師になったばかりのときに授業を担当した学生、すでに三十代になっている元教え子の女性がいるのだが、その女性も中国の将来性に見切りをつけて、最近日本に移住することに決めたのだという。日本は景気がいいみたいですねというので、株価が好調なだけで実態はどうなのかって議論もありますよ、円安もなかなか厳しいですしと応じる。でも大学生の就職率は高いですよねというので、全然人出が足りてないようです、ただそれは景気というよりも少子高齢化の産物ですがというと、十年後の中国の姿ですとK先生は笑った。中国の若者の失業率について、仕事そのものがないのではなく大卒者が仕事を選んでいる側面もあるでしょうというと、然りの返事。親としてもせっかく大学を卒業したのであるからいい仕事につけるまで二年か三年ゆっくり過ごせばいいという考え方の持ち主が多いという。しかしこの状況が二年か三年で改善されるかというと、正直かなり厳しいだろう。
 習近平が(…)に視察にやってくるという話もあった。いつですかとたずねると、今月という返事。(…)のほうですでにリハーサルは行われたらしく、周囲の交通が規制されたり、街中の監視カメラがすべて撤去されたりしたらしい。
 K先生と別れる。老校区の菜鸟快递で荷物を回収し、(…)で食パンを二袋買う。レジに蒸し器が置かれており、なかにちまきがあったので、粽子! と指差すと、おばちゃんがうんうんとうなずく。日本にもあるのかというので、あるけれどもかたちが違うと答えて、細長いようすをジェスチャーで説明する。それにしてもちょっとはやくないか? 今年の端午節は6月10日のはず。商売熱心なこった!
 第四食堂に立ち寄る。客のあまりいない時間帯なのでゆっくりと一階フロアを見てまわる。猪脚饭の文字が踊っている看板を見つけたので、マジか! いいもんがあるじゃん! となって打包。帰宅して即食す。二年生のC.Rくんから微信。三年生のK.Kさんの写真はないか、と。いつもじぶん(C.Rくん)の写真を素材にした表情包を送ってくるので、たまにはやりかえしたいのだという。あのふたりがそんなに親しいとは思ってもなかったのでびっくり。
 食後はベッドに移動して一時間ほど昼寝。目が覚めると、モーメンツがちょっとした騒ぎになっている。习大大が(…)に来た、主席がわが街にやって来た、と。え? 今日なの? とびっくりする。K先生の言葉をこちらが聞き違えていたのだろうか? 「今月中に来る」ではなく「今日来る」だったのだろうか? あるいはK先生自身、というより一般市民はみんな具体的な日程を知らされておらず、視察が終わってから事後報告で知るということなのだろうか? モーメンツでこの件に言及しているのはほぼ一年生だった。二年生は少数。三年生と四年生はほぼだれも言及していない。やっぱり若い世代ほど愛国教育が浸透しているのだろう。
 明日の日語会話(二)で使用する第13課の資料を学習委員のK.Kさんに送信。彼女の名前はK先生との立ち話でも出た。ものすごくまじめに勉強をがんばっている、と。1班と2班のレベル差について、先学期中はかなりひらきがあるという印象をもったわけだが、期末試験の結果はさほどでもなかった。K先生曰く、基礎日本語の期末試験の結果もやはりそうだったという。
 コーヒーを淹れる。14時過ぎから17時過ぎまで「実弾(仮)」第五稿作文。またシーン27をいじくりまくる。正解になかなかたどりつけない。たどりつけないのだが、しかし進行方向はまちがっていないようだぞという、わずかな手応えのようなものもあるにはある。連日シーン27ばかりいじくりまわるのもいいかげんしんどくなってきたので、途中から別の作業にとりかかった。これまでに修正を加えた箇所は基本的にすべて赤字にしてあるのだが、その赤字部分をシーン1から順番にチェックしていき、問題なしと判断されたところを黒字にもどしていくという作業。シーン16までチェックする。ほかのシーンをそんなふうにつまみ読みしていると、あれ? これなかなかいい小説じゃない? よく書けているんじゃない? と元気づけられる瞬間もある。あせらずじっくりがんばろう。第十稿まで加筆修正を重ねることになったっていいや。納得できるまで徹底的にやってやろう。

 作業中、ドリルの音がたえまなく響いていた。それほど遠くない部屋だ。中国で暮らしはじめて思うことなのだが、なぜこうしょっちゅう部屋の工事が行われるのか? 工事の音が部屋まで響いてこなかった学期などこれまで一度もなかった、というかじぶんの部屋にかぎってすらおそらくそうで、人夫が部屋に入らなかった学期などこれまで一度もなかったのでは? これは中国あるあるなのか? それともうちの寮にかぎっての話なのか? 年がら年中あちこちで工事をし続けているという印象。
 夕飯は第五食堂で打包。チェンマイのシャワーを浴び、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回。1年前と10年前の記事を読み返す。

 以下、2021年3月19日づけの記事より。1年前の記事に引かれていた。

ひとが「かつて失った原初的な享楽を部分的に代理する対象a」を大他者に差し出すことで、大他者は(偽物の/みせかけの)の根拠/一貫性を得ることになる。無意味な世界にそのようにして意味が生まれる。ひとがそのひとに特異的な享楽——それはしかし無意味なものである——と象徴界に参入後も関係を有するための媒介としてある対象aを、この世界(大他者)に結びつけることで生じる物語が、ファンタスムである。わたしはこのような享楽を享楽したい。しかしそこに意味はない。世界はこのようにある。しかしそこに意味はない。そこでわたしはわたしの享楽の無意味と世界の無意味を重ね合わせる。わたしの享楽とかかわりのあるかたちで世界に意味を与え、そうすることでまたわたしの享楽もその世界のなかで意味を与えられる。無意味と無意味をかけあわせることで意味を捏造する。それがファンタスム=物語である。

 明日の授業で使用する資料を印刷し、データをUSBメモリにぶっこむ。パソコンに表示されている時刻を確認してがっくりする。どうしてこんなに時間がないのか? 午前中に100分授業しただけであるにもかかわらず、午後に3時間作文しただけであるにもかかわらず、夜に教案の細部を詰めただけであるにもかかわらず、気がつけばずいぶんな時刻になっている。日記のせいなのだろうか? 毎日日記を書くのにいったいどれだけの時間を割いてしまっているのか、計測したことがないのでわからないのだが、ふつうの勤め人とくらべてそれほど忙しい生活を送っているはずがないのにどうしたって時間が足りない、これはやっぱり日記のせいなのではないか?
 その日記を書く。今日づけの記事。作業中は『Reflections - Mojave Desert』(Floating Points)と『Again』(Oneohtrix Point Never)と『Deeper Man』(Fernando Kabusacki)と『Cribas』(Mono Fontana)と『Mil Almas』(Alejandro Franov)あたりを適当に流した。23時になったところで切りあげる。昼寝をしたとはいえ、睡眠不足の一日だったので、日記を書いているあいだはずっとまぶたが重たかった。