20240321

 以前にこの連載で、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』にアウレリャノのアルカディオが何人も出てくるからといって、単行本に家系図を収録しても意味がないと言ったこととか、カフカの『城』の章ごとの出来事を並べていっても『城』に書かれていることの全体を記憶しなければ意味がないような気持ちになると言ったことは、つまり視覚化した思考でなく本当の思考が小説の理解には求められるという意味なのだが、習熟するということは仮定=不確定要素を頭の中に溜めておいてそれを操作できる量が増えることなのだ。そういうことを私が考えるようになったのは、麻雀と将棋からだった。
 詰め将棋は図面を見ているだけで駒を手で動かすことはしない。私のような下手クソはすぐに駒を動かしたくなるが、実際に駒を動かしてしまうと詰め上がりまでのプロセスを記憶できない。結果としてたまたま詰んだだけだからそれをもう一度再現できない。これが大半のテレビゲームと違うところで、詰め将棋ではたまたま詰んでも解いたことにならない。駒を動かさずに頭の中だけで詰むプロセスを組み立てられてはじめて解いたことになり、それを重ねることで、「手筋」という将棋独特の駒の動き=思考法が身についていく。
保坂和志『小説の自由』 p.267=268)



 6時半起床。トースト二枚とインスタントコーヒー。8時から三年生の日語文章選読。K.Iくん欠席。B.TくんとK.Kくんは遅刻して後半から出席。授業は「キラキラする義務などない」第1回目。うまくいった。全体に対する問いかけに対して、二年生みたいに積極的にわーわー発言してくれる、そういう雰囲気のクラスではないのだけれども、こちらの発言をだいたいみんな真剣に聞いているし聞き取ることもできているという印象を受ける(冗談がかなりの高確率で通じるのだ)。C.R先生が三年生の学生らについて、授業態度もいいし能力も高いと評価していたという話を以前K先生から聞いたことがあるけれども、なるほどたしかにそうかもしれないと思った。のちほどS.Sくんに、きみのクラスさ、けっこうみんなリスニングいいよね、ぼくの発言ほとんど聞き取りできているよねというと、そうです、みんなすごいですという返事があった。
 あと、休憩時間中に、編入組であるK.KさんとS.Dさんとちょっとだけ話した。ふたりとも(…)人。前者が(…)、後者が(…)の出身だったと思う。
 10時から一年生1班の日語会話(二)。授業前にまた担任のC.R先生が班导のS.Sさんを引き連れてやってきて、なにやら寮生活に関する注意事項を延々と述べていた。授業は第12課。先学期とは打って変わって2班よりも1班のほうが盛りあがる。というかS.Mくんの強烈すぎるキャラのおかげで、彼を中心にいろいろ冗談をおりまぜていけば自然と空気があかるくなり、それで授業がぐっとやりやすくなる。男子学生であれば、K.IくんやS.Gくんもおたがいに軽くイジりあうことのできる関係性が成立しつつあるし、女子学生であればやっぱりY.Tさん、それに先学期の時点では劣等生組だったS.Bさんがいい。だんだんこのクラスのツボみたいなものがつかめてきた。今学期は先学期ほど苦労しなくてすみそうだ。
 二年生のR.Hくんから「ちょめちょめ」とはどういう意味かという質問がとどく。なんとなくエロい意味っぽいのだがよくわからない、と。どこでそんな昭和のクソワード仕入れてくんねんと思ったが、ドラマで見たのだという。
 三年生のS.Sくんから昼飯をいっしょに食べましょうという微信がとどいていたので、授業後に外国語学院の一階で待ち合わせ。廊下と玄関を見てまわったがどこにも姿が見当たらない。廊下にS.Sさんがいたので、このあたりにS.Sくんいなかった? とたずねると、え? みたいな反応。ミスった。S.Sさんは二年生だ。三年生のS.Sくんを知っているわけがない。
 そのS.SくんがK.Gくんとともにあらわれたので、三人そろって(…)へ。予報によれば今日の最高気温は24度。しかし一限目の最中にはスコールのような雨が降り、二限目はその余波のせいかけっこうひんやりとし、予報とは全然違う! とS.Mくんも文句を垂れていたくらいだったのだが、昼前になると一転して快晴、予報どおりの暑さになった。移動中そして食事中に話したことで印象に残っているのは二点。まず先学期の総合成績でS.Sくんが一位、そしてS.Sさんが二位になったという話。S.Sくんが一位という点には特に驚きはしないが(しかしR.KくんやR.Sさんをぶっちぎっているのはすごい)、S.Sさんマジか、一年生のときはぶっちぎりで最低スコアを叩きだしていた彼女がクラス二位なのか!
 という文章を書いているまさにいま、彼女に激励のメッセージを送ったところ、スピーチコンテストに代表として参加したということで下駄をはかせてもらっている、総合成績の点数×1.1で最終スコアが算出されているという返事があったが、それにしたって十分すごい。たいしたもんだ。二年生前期の途中まで全然勉強していなかったのに、そこから猛勉強してクラス上位にまでのぼりつめたのだ。
 もうひとつの印象に残った話。K.Gくんが今日も真っ赤っかなスープの米线を注文していたので、彼と同郷である二年生のR.Gさんもやっぱりとんでもなく唐辛子を愛好していたよと告げたところ、彼女は高校時代のクラスメイトであるという返事があったのだった。びっくりした。R.Gさんは現役時、東北地方にある大学に合格して進学した。しかし途中で退学してもういちど高考に挑戦、K.Gくんに一年遅れるかたちで(…)の日本語学科に入学したという経緯があるらしい。それは秘密なのかなとたずねると、わからないという返事。面子を重視するお国柄であるし、不用意に言及しないほうがよさそうだ。
 面子で思いだしたが、(…)大学の学生らを(…)内にある食堂に連れていく直前、担当の教員(たぶん国際交流処のスタッフだと思う)から、第四食堂に連れていきなさい、あそこにはできたばかりのエスカレーターがあるからという内密の指示があったらしい。アホすぎてクソ笑った。食堂にエスカレーターのあることがいったいなんの自慢になるというのか!

 帰路、S.Sくんから明後日の土曜日に新疆烤肉を食べにいこうと誘われたので、了承。前回彼の体調不良で流れてしまった一件の埋め合わせだ。
 学生ふたりと西門前で別れたのち帰宅。昼寝。その後、14時半から17時過ぎまで「実弾(仮)」第五稿の作文。今日も赤字にしてある修正箇所の確認。途中、bottle waterの配達人から電話。なにを言っているのか全然わからん。开门と言っているのが聞きとれたので玄関のドアをあけてみたが、その先にはだれもいない。ドアはあけた、自分は部屋にいると応じたところ、三番目の棟にいるのではないかみたいなことを言うので、そうじゃない、二番目の棟だと受ける。ほどなくして配達人がやってきたが、びっくりするほどのおじいちゃんだった。この年であの重たいbottle waterを運んでいるのか? ミニプログラムでの注文時、前々回注文した分がまだとどいていない、だからbottle waterは二本持ってきてほしいというメッセージを送っておいたにもかかわらず、配達人は一本しか持っていなかった。DeepLで翻訳した中国語をみせると、じゃあ明日持ってくるという返事があった。
 夕飯は第五食堂で打包。食後、ケッタにのって万达へ。H&Mで割引品のセーターを買うつもりだったが、売り切れていた。ショック。以前(…)大学の学生らとそろっておとずれたとき、半値以下になっていたセーターがあり、これけっこうええやん、一枚で着れるやんと目をつけていたわけだが、たらたらしているうちに複数枚あったものすべてが売り切れてしまったらしい。ユニクロにもたちよる。シャツとカーディガンを買いたかったのだが、シャツはやっぱり割高であるし、カーディガンにいたっては取り扱ってもいない。夏に日本で買っておくべきだった。
 ひさしぶりにスタバで書見でもしていこうかなと思ったが、まぶたの奥がなんとなくおもたるく感じられたので、こりゃすぐに眠くなるパターンやなと察し、おとなしく手ぶらで帰宅することに。第五食堂近くの瑞幸咖啡でアイスコーヒーだけ打包する。
 チェンマイのシャワーを浴び、アイスコーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書き、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。以下、1年前の記事に引かれていたもの。初出は2022年3月21日づけの記事。

千葉 そもそも言語がしち面倒くさい存在であるのは、それが直接的な表現ではなくて、常に間接的で迂遠なものであるからですよね。言葉が何かを指すときには、また別の言葉が惹起されて、意味作用が少しずれていったりする。直接現実に関わるのではなくて、あいだに挟まる衝立のようなものとして言語がある。つまり言語というのは、直接的満足の延期であり、もっと簡単に言うと我慢なんですよ。その直接的満足の延期が、メタファーの存在に通じている。何か言い足りていない、真理に到達していないという不満が言語活動にはあって、その不満の周りでさまざまな言葉をああでもない、こうでもないと展開することによって、豊かな言語態が成立するわけです。
國分功一郎+千葉雅也『言語が消滅する前に』

 1年前の記事、すなわち、2023年3月21日づけの記事には現三年生のC.Mさんの授業態度に対する言及もある。

しかしメシに行きましょうだの先生の故郷に遊びにいっていいですかだのさんざんあれこれいうC.Mさんの授業態度が毎回おそろしく悪いのはどうにかならんかなとも思う。ま、彼女の場合、こちらの授業だけではなくほかの授業でも同様らしいが、それにしても授業中あんな絶望的に退屈した表情を浮かべるか? 今日なんてクラスほぼ全員がわーわーなっている笑いどころにあってさえ目の前で犬猫が車にでもひかれたんか? みたいな、ついさっき親友看取ったばっかけ? みたいな顔をしていたわけだが、なんやあれ? どういうこっちゃ? たまたま体調が悪かっただけかもしれんが、でもけっこう毎回あんな感じだよなと思う。

 C.Mさん、今学期の日語文章選読の授業中もやっぱり授業態度がおそろしく悪く、基本的に机につっぷすようにして絶望したような表情を浮かべている。1年前の会話の授業についてはこちら自身、じぶんの授業方法に確信がもてていなかったし、うまくできているとも思えなかったので、そうした彼女の反応にいちいち過敏に反応しているところがなくもなかったわけだが、今学期の日語文章選読はいまのところ完璧な手応えを得ることができているし、彼女以外の一軍および二軍の学生たちもみんなしっかりこちらの授業に耳をかたむけているのがはっきりと見てとれるので(三軍はどもならん)、そうした彼女の反応にいちいちどうこう思わない。とはいえ、あのような態度が鬱っ気のあらわれではないかという心配はなくもない。
 以下は10年前の記事、すなわち、2014年3月21日づけの記事より。ジョン・バンヴィル『海に帰る日』という小説を口汚く腐している(いちおう評価すべきポイントは評価しているようだが)。

 Eさんが出張で不在だったためいくらか内職をする時間をとることができたのでジョン・バンヴィル『海に帰る日』をちょびちょび読み進めたのだけれど、喪失と回想の語りというそれだけでけっこうもういいってとなるようなところにくわえてどこにむかっているのかわからない道を延々と歩きつづける夢を見ただのパソコンだかタイプライターだかのキーボードのI(わたし)のキーが欠けているのを発見しただのいうくだりがあって、ブッカー賞ってのはこんなにも程度の低い、あけすけな、手垢と糞便にまみれたクソみたいなメタファー(それもそのあまりの安直さと合意性のためにすでにメタファー特有の迂回性がはぎとられてしまっているもっともみじめでだらしなく擁護のしようのない域にある低俗きわまりないもの)を戦略的にではなくごくごく生真面目にそして真っ正面から使ってみせる書き手ごときに与えられる賞なのかと思った。ただそれで打っちゃって終わりというわけにはいかないのがこの作品のすこし複雑なところで、とても繊細にそしてなによりも丁寧に書かれている一場面ごとの描写や、心理の襞にわけいるおっとおもわせるような記述にも出くわすことがあって、原文だったらたぶんこの繊細さと丁寧さがますますいきて、おそらくは文体家の印象をもたらすんでないかと推測した。病院で死病を宣告されたばかりの妻とその夫が自宅に帰宅した直後の場面、《それは困惑だった。アンナも同じように感じているにちがいなかった。それはたしかに困惑だった。何と言えばいいか、どこを見ればいいか、どう振る舞えばいいかわからない恐怖。と同時にもうひとつ、怒りというほどではないが、苛立ちのようなもの。自分たちが陥った窮地に対するどうしようもない憤懣。まるで、あまりにも下劣で胸くその悪い秘密を告げられて、たがいに相手の知っている汚らわしいことを知っており、まさにそれを知っていることによって結びつけられていて、いっしょにいるのは耐えがたいが、逃げだすこともままならないかのようだった》、こういうぴたりとくる比喩もあったりする。

 この小説、内容はまったくおぼえていないのだが、新潮社のクレスト・ブックスの一冊だったことははっきりと記憶しており、というのもこの時期、この『海に帰る日』もふくめて当時勤めていた(…)の同僚であるFさんが何冊かくれた小説のすべてがこのクレスト・ブックスシリーズだったのだ。しかもそのすべてがことごとくくだらなく、しょうもなく、つまらないものだった。そのせいでクレスト・ブックスはじぶんにとってまったく縁のないレーベル、避けるべきシリーズだという認識が強く刻まれ、いまにいたるまでアクティヴになっている。
 あと、Jさんのエピソードも。「刑務所時代」のことを「学園時代」という隠語で呼んでいたことを思いだし、それだけでクソ笑ってしまった。なつかしいなァ。

そのJさんが今日学園(刑務所)から出た直後、むかえに来た人間といっしょに銭湯にいったときのエピソードを披露してくれた。刑務所ではほかの受刑者らとすし詰めになって湯船に浸かるらしいのだけれど(背中合わせの二列に整列するらしい)、そのさいに両手は浴槽のふちにだすという決まりがあったみたいで、さすがに十年もはいっているとその癖がなかなかぬけなくて娑婆の銭湯でもおなじような姿勢を無意識にとってしまって、同行者にそれはちょっと勘弁してくれと苦笑されたのだという。今度銭湯行くことあったらいっちょその姿勢でやってみますわ、というと、彫りもんあるやつが入ってきたらやね、まあそういう姿勢とってみたらええわ、ほんでの、身体洗うときにはやな、頭から顔から体から上から順にばばばっと三分で終わらせるんや、そうしたら、あああいつは長いあいだ務めてきたんやなと、こうや、とあった。

 そのまま今日づけの記事も途中まで書いた。作業中、禁断の多数決のことをふと思いだし、『Maiden Voyage』と『禁断のアーリーイヤーズ2』と『さいごにアイがのこった』をまとめて流した。『さいごにアイがのこった』というタイトルは1stのタイトル『はじめにアイがあった』を踏まえてのものなんだろうが、同時に、『わたしは真悟』(楳図かずお)に対する目配せもあるのかな。(…)大学の学生らとのグループチャットで南さんが「タコパ」の写真を投稿していたが、うちの学生たちがあまり反応しないので(R.Sさんがおいしそうですとコメントするのみ)、こちらが相手を引き受けるかたちになった。

 席をとってリビングに移動したらものすごく煙草のにおいがした。ふつうの煙草のにおいではない。ものすごく特徴的な、たぶん外国のやつだと思うが、それが部屋いっぱいにたちこめていて、え? となったところ、玄関のとびらのむこうから立ち話をする男女の声がきこえてきて、あ、そこで吸ってるんだなとなった。聞き耳をたててみたが、やりとりは片言の中国語で、男のほうはおそらくむかいの部屋に住んでいるアフリカ系の留学生男子だと思うのだが、女のほうが中国人であるのか、あるいは男と言語の壁を有する留学生女子であるのかは謎。話し声はさほどおおきくなかったからいいのだが、うちの部屋の前でこんなに強烈なにおいのする煙草は吸ってほしくないし、こいつら絶対吸い殻ここに放置するやろなという予感もあった。とりあえずキッチンのそばの窓をあけて換気扇をまわしておく。
 母からLINEがとどく。母子手帳は持っているかという。中国にはじめて渡る前に必要な予防接種をまとめて受けたあのときに見たおぼえがあると受けると、日本でいま麻疹が流行している、TとMは世代的に一度しか予防接種を受けていないと思うのでもしそうだったら次回の帰国時に二度目の接種をしたほうがいいという。伝染病でいえば、ワールドカップの予選かなにかが北朝鮮平壌で開催される予定だったのだが北朝鮮側が中止を要請、その理由として現在日本で流行のきざしを見せつつある伝染病を警戒しているからであるという報道があり、その伝染病というのが「劇症型溶血性レンサ球菌感染症」というもので全然聞き慣れないものであるのだけれども通称が「人食いバクテリア」とあって、これだったら知っている! たしかものすごく致死率が高く、かつ、感染経路とかなんかそのあたりもいまひとつはっきりしていないものではなかったか? と思って調べてみたらやっぱりそうで、致死率は30%ほどに達するらしい。以下、東京都感染症情報センターのウェブサイトより。

 劇症型溶血性レンサ球菌感染症は、レンサ球菌による感染症です。通常は、レンサ球菌に感染しても無症候のことも多く、ほとんどは咽頭炎や皮膚の感染症にとどまります。しかし、稀に通常は細菌が存在しない組織(血液、筋肉、肺など)にレンサ球菌が侵入し、急激に症状が進行する重篤な疾患となることがあります。

 上気道感染や創傷感染等がありますが、感染経路が不明な場合も多くあります。

 初期症状としては、発熱や悪寒などの風邪様の症状、四肢の疼痛や腫脹、創部の発赤などが見られます。発病から病状の進行が非常に急激かつ劇的で、筋肉周辺組織の壊死を起こしたり(このことより、「人食いバクテリア」と呼ばれることもあります。)、血圧低下や多臓器不全からショック状態に陥り、発病後数十時間で死に至ることも少なくありません。

 クソ怖いんやが!
 急速な壊死を受けて手足を切断しなければならないこともままあるらしい。感染者数は去年過去最高を記録しているのだが、今年は現時点でその過去最高記録の五割を上回っている。いや、マジでこんなん流行せんといてください。ほんまに怖い。病気で死ぬのは嫌だ。
 あと、ニュースといえば、大谷翔平の通訳をしている水原一平が違法賭博にかかわっていたという理由でドジャースを解雇されたという報道もあった