20240324

 社会の中では私たちは、「あれをするか、これをするか」「あっちにつくか、こっちにつくか」「それを悲しむか、見なかったことにするか」という選択肢がいろいろに与えられるけれど、社会の向こうにある世界は選択肢など与えてくれず、茫洋としていて手がかりがない。人はその手がかりのなさに耐えなければならない。それはそのまま、カフカベケットを意味づけせずに読むことだと言えるのではないか。
保坂和志『小説の自由』 p.351)



 9時30分起床。よく寝た。歯磨きをすませて洗濯機をまわす。11時前になったところで寮を出る。第四食堂の「(…)」で麺を食す。店員の兄ちゃん、こちらの存在をおぼえていたらしく、唐辛子はいらないと告げると、わかっているという。麺はうまい。唐辛子は入っていないが、山椒か花椒は入っている。それで食後はくちびるがぴりぴりした。売店でペットボトルの無糖紅茶を買う。
 帰宅。紅茶をのみながらきのうづけの記事の続きを長々と書き記す。投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。2023年3月24日づけの記事に、その10年前、すなわち2013年3月24日づけの記事からの引用があった。ニコス・カザンザキス

 私は自分が幸福であることがよく分かった。幸福を体験している間は、それを意識することは難かしいものである。幸福が過ぎ去ってしまってから、それを振りかえってみて、はじめて、しばしば驚きの気持で、自分たちが幸福であったことに気づくものである。しかし、このクレタの海岸で、私は幸福を体験し、同時に自分の幸福を意識していた。
ニコス・カザンザキス/秋山健・訳「その男ゾルバ」)

 作業中は『Music from the Penguin Cafe』(Penguin Cafe Orchestra)と『Union Cafe』(Penguin Cafe Orchestra)、それに『Songs & Symphoniques: The Music of Moondog』(Ghost Train Orchestra & Kronos Quartet)を流した。

 15時から授業準備。明日の日語基礎写作(二)を最後まで詰める。「よくある間違い」みたいなものをまとめて説明しようかなという考えもあったのだが、やっぱりめんどうくさいからいいやとなってしまった。日語会話(二)の第14課&第15課も少々進める。しかし途中で完全に集中が切れてしまった。
 『生きる演技』(町屋良平)の続きを読む。17時になったところで第五食堂へ。夕飯を打包して寮にもどる。外国人寮のむかいにある女子寮入り口でJKファッションの女子学生を見かける。日本風のJKファッションではない、たぶんタイ風のやつだと思うが、ミニスカートからのびる脚が異様に細く、ぎょっとしてしまった。たぶん拒食症の子だと思う。
 食後、30分ほど仮眠をとる。

 花粉がうっとうしいので鼻まわりにワセリンみたいなやつを綿棒で塗りたくる。去年だったか一昨年だったかに淘宝で買ったタイ産の花粉ブロッカーみたいなやつ。ケッタに乗って万达のスタバへ。ガラガラ。美式咖啡をオーダー。大杯で30元。やっぱり高い。窓辺にあるふたりがけの席に座る。トイレ近くのソファ席にかわいい女の子がひとりいる。かわいいというか雰囲気が一般的な女の子とちょっと違う、うちの大学にいる一般的な女子学生よりもずっとおしゃれで、メイクも自然で、洗練されているというか都会的というか、たとえばうちの日本語学科の女子学生が仮にいま日本をおとずれた場合、大半の子は一目で日本人ではないとわかる、髪型とか服装とかそういうもろもろの印象が少なくとも「うん?」とある種の違和感をおぼえる、こういう言い方をするのかもアレかもしれないけれども年の割にはたいそう芋臭いという印象を受けるのだけれども(省外の学生はわりとそうではないことがあるので、そういう点からもやっぱり(…)省は田舎なんだなと思う)、スタバの彼女は全然そうではない、中国でも都市部にいけばこういうタイプの子なんてざらにいるのだろうけれども、(…)のような田舎ではけっこうめずらしい、だからこうしてほとんど反射的に目を奪われる。日曜夜はスタバで書見するという習慣がもともとこちらにはあったわけだが、この習慣はいつ途絶えたのだったけ? ちょっと忘れてしまったけれども、日曜夜のスタバは客も少なく店内も静かで、さらにいえば日曜夜は学生らの自習もあるため(外国語学院の一年生と二年生は金曜夜と土曜朝夜と日曜朝以外は一日二回朝夜の自習を強制されている)、突発的な誘いも入ることが滅多にない、そういう意味でかなり憩いの時間帯であり、今日もこうしてひさしぶりにおとずれてみて二時間ほどゆっくり書見してみて、やっぱりこの時間は必要やな、毎週日曜夜は多少コーヒー代が割高になるけれどもこだわらずここに来ようとあらためて思った。以前ここに通っていた時分には卒業生のK.Rさんそっくりの女の子がやっぱりトイレ近くのソファ席にいつもひとりでいてノートパソコンをカタカタやっていて、あれたぶん小説を書いているなと勝手に想像をたくましくしていたわけであるし、むこうはむこうで毎週日曜夜にやってきては本を読んでいるこちらの存在を認知していたと思うのだけれどもそれはともかく、今日の子はこちらが店に滞在中ずっとスマホをいじっているだけで、それもめちゃくちゃ退屈そうな表情をいつも浮かべていて、あれはいったいなんなんだろうなと思う。いや、別にそういうのはめずらしくないのか? たとえばこちらにしたところで、書見なら別に自室でできるわけであるけれどもなんとなく気分転換をもとめてカフェをおとずれるという習慣が京都時代からずっとあったわけで、それとおなじなのか? 別にスマホをいじるだけなら自室でもできる、抖音を延々とながめるだけなら自室のベッドでもまったく問題ない、しかし気分転換をなんとなくしたいという気持ちがあるのでひとまずモバイルバッテリー片手にやってくるということなんだろうか?
 なんでもええわ。そういうわけで21時ごろまでひたすら『生きる演技』(町屋良平)の続きを読んだ。このスタバには問題点がひとつあって、たぶん下手すればもう一年以上ずっとこうであるのだけれども、店内のトイレが使用不可になっている。トイレの入り口に黄色いコーンみたいなものが置いてあり、立ち入り禁止と表示されているわけではなくむしろ印字されている文字はすべりやすいので気をつけてくださいを意味する中国語であるのだけれども、だからといって中に入ることが許されているわけではないようで、たとえば先の女子もいちどそのトイレに入ろうとしたけれどもひきかえし、そのままいったん店の外に出ていく姿が確認されて、いったいなぜトイレがずっと使用禁止のままになっているのか理解できない。なんとなくであるけれども、掃除を厭うているスタッフが勝手に利用禁止ということにしているのではないかという気がしないでもないのだが、掃除といえば、これはそれこそ一年前の日記にも書きつけられているのをわりと最近読み返した記憶があるのだけれども、21時前にモップがけをはじめた若い女性スタッフが、こちらの座っているひとりがけのソファの前に置いてある背の低い円卓の真下にまでそのモップをつっこんでくる、当然こちらのブーツの爪先にモップが触れるか触れないかの距離を行き来するわけであるが遠慮はいっさいない、フロアをモップがけする必要があるのはわかるのだけれどもふつう客が利用中のテーブルまわりは避けてあとまわしにするだろうに、ここのスタッフはそういう配慮が一切なくて、それこそ一年前なんて足をフロアからいったんあげてくれと頼まれたこともある。今日にしたところで、円卓のそのまた向こうにもこちらが腰かけているのとおなじひとりがけのソファがあり、その上にこちらはレザージャケットとリュックは置いていたのであるけれどもそれらの私物にモップの棒の部分がガンガン当たるのもおかまいなしでモップの先端をその円卓とソファのあいだにつっこんで激しく前後に動かすし、その過程でモップが円卓に激しくぶつかって卓上のコーヒーカップが倒れそうになる一幕もあり、もし倒れて中身がこぼれていたらこちらのスマホも財布もそのコーヒーでびちょぬれになっていただろう——という、子どもでも理解できるようなことがなぜ理解できないのかは本当にふしぎな気持ちになる。嫌がらせなのかなと疑いたくなるほどであるが、たぶんそうではなくてこれがこの社会のデフォルトで、だからこちらはただ受け入れるしかないわけだが、しかしモップがけの終わったあとのフロアから生臭い悪臭がたちのぼってきたのには閉口した、このモップ絶対に洗濯していないだろ!
 そういうわけでそのタイミングで退散したのだった。帰宅し、チェンマイのシャワーを浴び、トーストの夜食をとったのち、寝床に移動してまた『生きる演技』(町屋良平)の続きを読んだ。