20240422

 作品は作品で、いろいろなものを作品という統一体に束ねていく過程でひじょうに大きな労力を必要とする。それは私自身『カンバセイション・ピース』を書きながら痛感した。しかし、作品という統一体にするために、意識的と無意識的の両方で切り捨てたものがいくつもあったことを書いた本人が一番知っている。
 作品であるからにはじゅうぶんに騒音を取り込めないのだ。作品として「つじつまを合わせる」こともさることながら、作品に向かっていく力が破綻する余地を進行中の作品に与えなくなる。しかし現実は、つまりここでいう〝諸衝動〟も含めた現実は、もっとずっとばらばらな方向を向いている。小説の情景が「いきいきした」ものでなければならないとしたら、作品は作品という統一体になっていく過程でどうしてもじゅうぶんに「いきいき」しなくなる。
 それは当然こっちも小説家なんだから、文章をいじって精一杯「いきいき」とさせるけれど、それは小さな子どもが地面の上を転がり回るような活力とはまったく別のものだ。しかし、書いている自分の中には確かにそういう活力がある。子どもが地面の上を転がり回るような活力がなければ小説は書けないのだ。
保坂和志『小説の誕生』 p.349-350)



 10時半起床。第三食堂へ。窓口で饭卡に300元チャージする。前回ここで400元渡したのに300元しかチャージされずトラブルになったことがあったので慎重に確認。第五食堂の一階で炒面を打包。新入りらしいおじさんが鍋をふるっていた。
 帰宅。食し、洗濯機をまわし、日語会話(二)で使う資料を一年生1班と2班の学習委員にそれぞれ送信。ついでに先週風邪で授業を休んでいたK.Kさんに具合をたずねる。問題ないという返事。
 「実弾(仮)」第五稿作文。12時過ぎから15時半まで。シーン35、無事完成。シーン36もあたまから尻まで通したが、ここはかなりよく書けている。修正点はほぼない。すばらしい。
 「首相側近、元号案を独自に提示 国書出典「佳桜」など3案」というニュース記事(https://news.yahoo.co.jp/articles/e2f325776ff1c5226e0e913153f831a066af4563)を読んで、ひたすらげんなりしたというかほぼ絶望した。

 元号「令和」を巡り、当時の安倍政権で首相秘書官を務めた今井尚哉氏が2019年4月1日の発表前、元号選定の実務を担う事務方とは別に、国書(日本古典)由来の元号案「佳桜」など3案を安倍晋三首相に独自に提示していたことが21日、政府関係者への取材で分かった。発表前に政府の事務方内で漢籍(中国古典)由来の「万和」が「平成」に代わる元号として最も有力視されていたことも判明。発表から5年を経て終盤の詳細な選定過程が明らかになった。
 関係者によると、杉田和博官房副長官(当時)をトップとする事務方が複数の専門家に依頼して得た「英弘」「広至」「久化」「万和」「万保」の5案のうち、石川忠久二松学舎大元学長(故人)が「史記」を典拠として考案した万和が有力とされた。ただ安倍氏は、国書ではないことや濁音が入ることで難色を示した。
 こうした中、安倍氏から協力を求められた今井氏は3月中旬、万葉集に基づく佳桜や「桜花」、出典のない造語の「知道」を安倍氏に示した。3案は国学院大の関係者が考案したもので、今井氏が面識のあった日本財団笹川陽平会長を介して集めた。

 元号が「令和」に決まったとき、それまでは漢籍から採用するという(保守主義者の大好きな)「伝統」がかくして(なんの値打ちもないナショナリズムによって)ぶち壊されるわけだなと思ったわけだが、今井尚哉なる人物の提案によるところの「知道」なんて中国語の動詞であるし(意味はknow)、「桜花」なんて(おまえらカスがすぐに美談に仕立てあげたがる)特攻兵器の名前ではないか! こいつらほんまにあたま腐っとんなと心底げんなりする。というかほんまにシャバイだけのカスがイキって出典もなにもない「造語」をもちだしている点にしても、日本といえば桜みたいなクソしょうもない小学生以下の発想にもとづく候補を堂々とあげている点にしても、場末の広告屋以下の感性でしかないわけであって、こういうミスチルとかRADWIMPSとかを親子二代そろって好んで聴くようなクソ喰いバヤ以下の感性がこの国を代表しかけているという危機にまず愛国者を自認する連中は家伝の日本刀をたずさえて抗議しろよと思う。ほんとうに教養も常識もクソもなにもない連中が国のトップに居座っているのだ、そしてそういう連中を(愛国ドラッグでヨレた)この国の過半数の人間が支持しているのだ! 前々から言っているように、円安うんぬんかんぬんよりもこの知的劣化の事実のほうが、こちらにとってはよっぽど罪深く重苦しいものとして絶望的に感じられる、マジで終わりつつある国なのだという現実的認識をまざまざと突きつけられる。

 きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。以下、2023年4月22日づけの記事より。

(…)「死への欲動」というのは、文字通り、死へと向かっていく欲動ですが、そういう「欲動」を生命体である人間がどうして抱くのか、生命は快楽を求めているのではないか、という疑問がすぐに生じてきますね。フロイトによると、生命を持つということは生命を維持するための緊張を常に強いられることです。現代思想的に言い換えると、生命は常に何かを欠如している状態にあります。だから、有機体はその緊張・興奮を限りなくゼロに近づけ、楽になることを目指します。これは、最終的には無に戻ること、すなわち死です。それが「死への欲動」です。人間の中では、この「死への欲動=タナトス」と、生に留まって、快楽を得ようとする「生への欲動=エロス」が常に対立しています。命に関わる強い衝撃を受けた時、その時の記憶が反復的にフラッシュバックしてくるのは、「死への欲動」の働きだとされます。
 ドゥルーズガタリは、「死への欲動」のようなまとまった欲動があって、それが「生への欲動」と鬩ぎ合うことでバランスが取れている、という見方をするのではなく、元々バラバラの運動をしていただろう諸「機械」が、私たちという統一体の中の各器官に割り振られ、部分対象=部品としての決まった役割を担い続けることに無理があって、もう一度バラバラになろうとする傾向が私たちの体を構成する機械たちにある、という見方をしているわけです。「身体」を、各器官が有機的に統合された一つの生命体と見れば、母の子宮から外に「生まれる」ということは、新生であり解放ですが、諸「機械」の連合体と見れば、身体だという堅い檻の中の独房に閉じ込められるようなものです。
仲正昌樹ドゥルーズガタリ<アンチ・オイディプス>入門講義』 2021年4月22日づけの記事より)

(…)引用を参照すれば、死の欲動(享楽)とは、なかば力ずくで成立させられている象徴秩序が瓦解する傾向であると理解できる。元来バラバラの断片である出来事(現実的なもの)が、系譜(父の名)と経験(予測誤差の体系)による出来合いの象徴秩序による歯止めを突き破ろうとする力。象徴秩序の不完全さのあらわれとしての死の欲動
(2021年4月22日づけの記事)

(…)この場合の「系譜(父の名)」とは「経験」が最大公約数的に社会化されたものであると考えればいい(その最たるものとして「言語」がある)。
(2022年4月22日づけの記事)

 以下は2014年4月22日づけの記事より。

(…)どうすればひとりでいても満ち足りることができるか。自分が知っているすべてから、愛する人々からさえ身を守って。そういう奇妙なやり方で、人々を完全に理解しながら。
マイケル・オンダーチェ村松潔・訳『ディビザデロ通り』)

 夕飯は第五食堂で打包。上の部屋が今日もうるさい。あの女のわめき声はマジでどうにかならないだろうかとげんなりする。ほとんど二三日置きで旦那か父親かわからない相手とケンカしているのだが、その声というのがこちらがこれまでに会ったことのある人類のなかでもっとも下品で耳障りな響きを有しているのだ。おおげさじゃない。マジだ。録音して聞かせたいくらいだ。あのわめき声を録音して毎朝スピーカーから流せば、うちのキャンパスにアホみたいにたくさんいる野鳥らはみんな新型の鳥インフルエンザにかかって即日墜落死すると思う。あれは魔属性のワギャンだ。
 Lに電気ケトルの件について問い合わせる。チェンマイのシャワーを浴び、ストレッチをし、コーヒーを淹れてから「卒業生のみなさんへ(2019年)」を詰めなおす。先週即興でいけるだろうとたかをくくって失敗しかけたので、スライドをしっかり作りなおす。
 21時半からデスクで書見。『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続き。小腹のすいたところでトマトスープのインスタントラーメンをふつうにこしらえて食したが、これはあんまりうまくない、以前やったように炒面風にしたほうがずっといい。
 歯磨きをすませて寝支度をととのえる。あとはベッドに移動するだけというタイミングで、寝るまえにちょっと大きな音で音楽をききたい気持ちになり、それでLIBROの“ハーベストタイム”をイヤホンから大きめの音で流してみたのだけれどもツボにハマり、しばらく部屋の電気を落としてひとりでくねくね踊るはめになった。今日は入浴中にも『なおらい』を流していたのだが、いいアルバムだと思う。