20240509

そもそも科学的にみれば、同一性(異なる入力を一つの記憶内容として出力すること)とは、並列分散的な神経網の産物ゆえに、原理的には確率的-熱力学的にしか作動せず、局所的な作動域では、常にソジー錯覚的な擬似記憶(同じ入力に異なる諸出力が応じ、逆に異質な諸入力に単一出力が応じること)が生じるはずである。程度の差こそあれ、太陽がいつもと違って異様に見え、ときには複数個に増殖し、あるいは逆に、死んだはずの男が道の通行人として現れるような、シュレーバーの体験は、ローカルな記憶回路ではおそらく常に生じており、それを補正-圧縮するのは、より広域的なアルゴリズムで、それは世界への想像的な信頼-幻想、他者への依存的な対象関係に帰属する(ないしそれと同値である)と思われる。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.22-23 樫村晴香ドゥルーズのどこが間違っているか?」)



 夢。実家にいる。以前うちの大学にいたセルビア人のJをそのまま小人にしたような謎の生きものが二本足で歩いている。こちらはなぜかその小人を犬のKと認識している。実家の玄関にはソファが置かれている(現実にはそんなソファはない)。J=Kがそのソファをよじのぼりはじめたので、背もたれのあたりをのぞきこんでみると、初代ゲームボーイが置いてある。ゲームボーイの電源は入ったままになっており、画面を見ると、初代ポケモンのプレイ画面が倍速で展開されている。出かけている最中の弟が、どうやら自動でレベル上げできるようにもろもろ設定し、置いていったものらしい。Joe=Kが触れないように、ゲームボーイを高い位置に移す。
 夢。中国の路上にいる。春節の時期なのか、路上のいたるところに赤い飾りものが目につく。夜である。ひとりの女性がマイクを持ち、教本のようなものをペラペラめくりながら歌をうたっている。本気の歌唱ではなく、おさらいのために軽く歌っているようすなのだが、めっぽううまい。周囲には人だかりができている。匿名的な同行者が、あれはフェイ・ウォンだと教えてくれるが、記憶にある姿と全然ちがう。フェイ・ウォンもめっきりふつうのおばさんになったんだなと思いながら、近くにある建物の中に入る。すると、アナウンス音声かなにかが流れ、じぶんがこれからフェイ・ウォンのコンサートに参加することが判明する。コンサートはプライベートなもので、M家と◯◯家の両家親族のみ参加するものらしい(◯◯家の正体はわからないのだが、夢の中ではおそらく親族として認識されていた)。祖父が中国にゆかりがある人物であるし、どうやらその関係で企てられたコンサートらしかったが、フェイ・ウォンを一日拘束するだけの資産が一族にあることになによりびっくりする。建物の中は暗闇。匿名的な男ふたりといっしょにその暗闇の中を走る。こちらを含めて三人全員がボクサーパンツだけを身につけている。後ろのほうから女性のくすくす笑いがきこえてくる。三人そろってトイレに入る。便器のかたちにしても、個室の壁の背の低さにしても、全体的に不潔な感じにしても、いかにもな中国のトイレ。ボクサーパンツを前後反対に身につけていたことに気づき、だからクスクス笑いがきこえたのかと思っていると、匿名的な男が、フェイ・ウォンだったらEyes On Meを歌ってくれるかもしれないなという。その言葉と同時に、FF8のムービーシーンが流れはじめる。

 6時15分起床。トーストとコーヒーの朝食。
 8時から三年生の日語文章選読。「幸福の瞬間」第2回。全体的に楽しくやれたのだが、後半学生らの集中力が完全にとぎれた。というのも来週、三年生は口語実践演習みたいな名目の遠足に出かけることになっており、その関係で授業が二週間お休みになるわけだが、そしてその目的地については西安と桂林の二種類があるという話も授業冒頭にしており、お土産をよろしく! などとふざけてもいたのだが、どうも授業後半にクラス内のグループチャットでアンケートかなにかをとっていたらしい、そしてその結果として西安にも桂林にも出かけず(…)にとどまることに決まったようで、学生らがその結果にけっこうざわつきはじめたのだ。そういうわけで授業は10分ほどはやく切りあげることにしたのだったが、こういうこと以前もあったなと思いだした。もう四年ほど前になるかもしれないが、I.KさんやC.Sくんのいたクラスの授業をしている最中、やはりこの「遠足」に関する通知がクラスのグループチャット内に出回り、意見の割れていたらしい学生らがその結果に対して授業そっちのけでガンガン議論しはじめて、あのときはもういいやと授業を中断して放っておいたのだった。結果、授業が終わった夜に、今日は本当にすみませんでしたと複数の学生から謝罪のメッセージがとどいたのだった。今日はそのときほどめちゃくちゃになっていたわけではなかったし、授業を中断するレベルの話でも全然なかったのだが、基本的にしっかり集中してこちらの話を聞いている学生の姿が目立つクラスである分、その集中の乱れもやっぱり目立ちやすく、じゃあもういいかとなったのだった。とはいえ、そんな乱れた空気の中でも教壇のこちらから決して目を離さず、一言一句にすべてうなずき、ノートを取り、冗談にはだれよりも率先して笑顔を浮かべるR.Sさんのすばらしさったらないな! おまえがナンバーワンだ! 優勝! 天使! もしこの土地で客死することがあれば、寮にある書籍の大半は彼女に譲ってやってもいい。
 授業後、C.Mさんからの微信。授業開始20分で体調が悪くなったので教室を抜け出して病院へ行ったという。お大事にと返信。彼女の場合はいてもいなくてもおなじ。どうせ机の上に突っ伏しているだけなので。
 なぜかずっと断水の続いている6階の便所で小便をする。この時間に便所にいくと毎回かならず教室移動中の二年生たちと出くわして立ち話をする流れになる。今日はC.RくんとT.UさんとR.Hさん。R.Hさん、きのう微信で交わしたやりとりの続きをなぞるように車校に対する愚痴をこぼす。もともとは月曜日に実技の最終試験の予定だったのだが、人数が多すぎるせいで予定がキャンセルされたらしい。いつになるかわからないのだが、火曜日になったらいやだというので、どうしてとたずねると、火曜日は先生の授業があるからだとかわいらしいことをいう。
 10時から一年生1班の日語会話(二)。第19課。先週にひきつづき、やる気のある子にだけ前列に座ってもらうかたちで授業を実施したのだが、あらたにK.Iくんから前列に加わりたいという申し出があった。好きにしてちょうだい。そのK.IくんとS.Gくんから先生はどんなアニメが好きですかと問われたので、アニメはあんまり見ないけれども漫画はよく読むよ、いま中国で流行している『SPY×FAMILY』も『葬送のフリーレン』も読んでいるよと応じる。K.Iくんは『日常』が大好きだという。何年か前の学生にもひとりこの作品が大好きだという子がいたような気がする。でもあの作品はきみたちにとってはちょっと古いよね? まだ中学生か小学生だったころのものじゃない? とたずねると、然りの返事。『SPY×FAMILY』で思い出したので、S.Bさんにお土産を催促したところ、忘れたという返事。ゆえに『SPY×FAMILY』のポチ袋と交換する例の取引は延期。授業そのものはけっこう盛りあがった。とにかくガンガンガンガン質問しまくる。そしてその過程で生じる脱線を楽しむ。ただそれだけ。S.Eくんがこの夏休み日本旅行をする予定だというのでびっくりした。おばあさんとふたりで出かけるという。日本におばあさんの知り合いが住んでいるらしく、滞在時はそのお宅の世話になるとのこと。クラスメイトたちもみんなびっくりしていた。
 授業後、Y.Iさんがひとり教壇にやってくる。おすすめの辞書アプリを教えてほしいというので、ええ! と内心びっくりする。このクラスでもっともやる気のない学生のひとりであるとこちらが認識していた、高校一年生のころより日本語を勉強しているにもかかわらずろくに会話もできない、それどころかこちらの質問にまともに答えることもできない、というかそもそも授業をまったくきいておらずさらにきいていないことを悪びれるふうでもない、そういう意味でこちらがもっとも内心ひそかにイライラしていた相手であり、かつ、このクラスの授業をやる気のある子らのみを対象とするかたちで実施しようと決断するきっかけとなった当の相手であるのだが、え? 勉強する気あんの? という感じで、というかもしかして媚を売りにきてる? K.IくんやS.Gくんみたいにやっぱり前列で授業を受けさせてくださいというパターンだったりするの? と思ったが、とりあえずこちらがスマホにインストールしているのはこれこれこういうアプリであるよと紹介。たぶん中国語のアプリストアでは購入することができないと思われる小学館発行のもの。
 教室を出る。K.IくんとK.Kくんのふたりがほうきをもって廊下や階段を掃除しているのにおつかれさんと声をかける。階段で二年生のC.Sさんとすれちがう。教室に服を忘れたのだという。一階までおりて駐輪スペースに移動する。ちょうど車に乗りこむタイミングのS先生がいたので、おひさしぶりですと声をかける。スピーチコンテストの校内予選についてたずねるが、主任をはずれたのでわからない、そのあたりのことはC.N先生にきいてほしいというので、やっぱりそうなんだなとなる。主任は六年間だか八年間だか務めていたらしい。お疲れさまでしたとねぎらう。
 ケッタにのって第五食堂へ。一階の広州料理屋、やはりガラガラ。ほかの店はアホみたいに行列ができているのにすぐに注文可能。ありがたや〜ありがたや〜。打包して帰宅。食後は小一時間昼寝。
 コーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きを書いて投稿。ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。以下、「2012年4月前半の記事」より。すべてドゥルーズの『記号と事件』の抜き書き。どれもこれもすばらしい。

創造は、創造のネックとなるものがあるところでおこなわれるものなのです。一定の国語のなかでも、たとえばフランス語を使う場合でも、新しいシンタクスはかならず国語内の外国語となるのです。ものを創る人間が一連の不可能事によって喉もとをつかまれていないとしたら、その人は創造者ではありません。創造者とは、独自の不可能事をつくりだし、それと同時に可能性もつくりだす人のことです。発見するためには、マッケンローのように壁に頭をぶつけていなければならない。壁がすりへるほど頭をぶつけなければならないのは、一連の不可能事がなければ逃走線、あるいは創造という名の出口を、そして真理を成立させる〈偽なるものの力能〉を手に入れることができないからです。

かくかくしかじかの点について見解も考えももたないというのはとても気持ちがいい。私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいるのです。旅をするとは、出かけた先で何かを言ったかと思うと、また何かを言うために戻ってくることにすぎない。行ったきり帰ってこないか、旅先に小屋でも建てて住むのであれば話は別ですけどね。だから、私はとても旅をする気になれない。生成変化を乱したくなければ、動きすぎないようにこころがけなければならないのです。トインビーの言葉に感銘を受けたことがあります。「ノマドとは、動かない人たちのことである。旅立つことを拒むからこそ、彼らはノマドになるのだ」というのがそれです。

さまざまな人の生涯で面白いのは、そこに含まれた空白の数々、つまり劇的なこともあるし、場合によっては劇的ですらないこともある、欠落部分だと思います。何年間にもわたるカタレプシーとか、ある種の夢遊病のようなものなら、たいていの人の生涯に含まれている。運動が成り立つ場所は、こうした空白のなかにあるのではないでしょうか。いかにして運動を成り立たせるか、いかにして壁を突き抜けるか、と問うことこそ、難局を切り抜ける道だからです。だとしたら動きすぎることも、しゃべりすぎることもないように気をつけるべきではないか。偽の運動を避け、記憶が消えた場所にじっとしているべきなのではないか。フィッツジェラルドがみごとな短編を残しています。十年間の空白をかかえて、ある人物が町を歩くという話です。これと正反対の問題がもちあがることもあります。空白ではなくて、定数外の流動的な追憶が過剰なまでに増殖し、それをどこに置き、どこに位置づけたらいいのかわからなくなる状態(そんなこともあったな。でも、あれはいつだったのだろう)。こうした追憶は、どうあつかったらいいのか見当もつかない。余分の追憶だからです。七歳のときだったのか、十四歳の、あるいは四十歳のときのことか。人間の生涯で面白いのは、いま説明したふたつの状態、つまり健忘症と記憶過剰なのです。

そもそも哲学は議論といっさい関係をもたないはずです。誰かが問題を提起するとき、その問題はどのようなものであり、どのようなかたちで提起されるのか。これを理解するだけで一苦労するわけですから、ただひとつ必要なのは提起された問題を充実させることなのです。問題の裏づけとなる条件に変化をもたせ、これを補足し、連結することがもとめられているのであって、議論している場合ではないのです。

だから、ふたりで書いたところで特に問題はないし、そもそも問題などおこりようがないのです。けれども、もし私たちがほかならぬ個人であり、各人が自分に固有の生活と固有の意見をもち、相手に協力して議論する気になったら、そのときは問題が発生する。フェリックスと私は、どちらかというと小川のようなものだったと申しあげたのは、個体化とは、かならずしも個人にかかわるものではないという意味だったのです。自分が個人であるのかどうか、私たちはまったく確信がもてない。空気の流れ、そよぐ風、一日の流れ、一日のうちのある時間、小川、場所、戦い、病などには非=人格的な個体性がある。つまり固有名があるのです。こうした固有名を、私たちは「此性(haecceitas)」と呼びます。〈此性〉同士はふたつの小川、ふたつの川のように組み合わせることができます。言語のなかでみずからを表現し、言語に差異を刻み込むのは〈此性〉ですが、個体ならではの生を〈此性〉に与えて、〈此性〉と〈此性〉のはざまを何かが流れるようにするのは言語のほうなのです。意見を述べるときは誰でも同じような話し方をするもので、「私」を名乗り、自分はひとりの個人だと思い込んでいるようですが、これは「太陽が起きあがる(=太陽が昇る)」という慣用表現に疑問を感じないのと同じことです。けれども私たちには、それで当然と思えないし、個人というのはけっして正しい概念ではないはずです。フェリックスや私、そして私たち以外にも多くの人びとが、自分のことをかならずしも個人とは思っていないのです。むしろ私たちには〈事件〉の個体性があると考えたほうが正しいのですが、これはなにも大げさなことを言っているのではありません。〈此性〉というのは控え目で、場合によっては顕微鏡をのぞかなければ見えないほど小さなものなのですから。私はこれまでどの著作でも〈事件〉の性質を追求してきましたが、それは〈事件〉が哲学の概念であり、「ある」という動詞と、属詞とを失効させることのできる概念は他にないからです。そう考えれば、ふたりで書くことは不思議でもなんでもない。何かが伝わり、何かが流れ、その一筋の流れだけが固有名をもつようになれば、それでじゅうぶんなのです。ひとりで書いているつもりでも、かならず誰か他人が関係しているものだし、しかもその他人は名前を特定できるとはかぎらない他人であるわけですから。

(…)ところが芸術家は、涸れた生に甘んじることも、個人の生活で満足することもできない。自分の内面、自分の記憶、自分の病を語っても書くことにはならないからです。書くという行為には、生そのものを変容させ、個人を超えた何かにつくりかえよう、生が閉じ込められていたら、そこから生を解き放ってやろうという明確な意図がある。芸術家や哲学者は健康状態がすぐれなかったり、からだが弱かったり、精神的に均衡がとれていなかったりすることが多いですよね。スピノザニーチェ、あるいはロレンスのように。けれども彼らを最後にうちのめすのは死ではなく、むしろ彼らがその存在に気づき、身をもって生き、考えぬいた生の過剰なのです。彼らにとっては大きすぎる生かもしれませんが、それでも彼らの力があればこそ「兆しは近い」ということにもなる。『ツァラトゥストラ』の最後や『エチカ』の第五部を見てください。書くということは、来るべきものとして想定され、まだ自分の言語をもたない人民のためにおこなわれる行為です。創造とは、いわゆる伝達ではなく、耐久力をもち、抵抗することです。

マイノリティとマジョリティは数の大小で区別されるものではありません。マイノリティのほうがマジョリティより数が多いこともあるからです。マジョリティを規定するのは、遵守せざるをえないひとつのモデルです。たとえば平均的ヨーロッパ人の成人男性で都市の住民……。これにたいして、マイノリティにはモデルがない。マイノリティは生成変化であり、プロセスであるわけですからね。マジョリティは誰のことでもないともいえるでしょう。誰であろうと、いずれかひとつの面で、マイノリティへの生成変化に巻き込まれているものだし、生成変化の道を歩む決意ができていさえすれば、誰もが未知の旅路をたどることができるのです。マイノリティがみずからモデルを構築するとしたら、それはマイノリティがマジョリティになりたいという願望をいだくからにほかなりません。たぶん、生き延びたり、救済を見出したりするためには、そうするしかないのでしょう(たとえば国家を構えたり、認知してもらったり、みずからの権限を押しつけたりする場合がそうです)。しかしマイノリティの力能は、あくまでもマイノリティ自身がなしえた創造から生まれるわけで、マイノリティによる創造が少しばかりモデルのなかに流れ込んだとしても、創造がモデルに依存することにはなりません。人民は常に創造的なマイノリティであり、たとえマジョリティを征服したとしても、変わることなく創造的なマイノリティでありつづけるのです。

 以下は2014年5月9日づけの記事より。こういう微妙すぎることをきっちり言語化して微妙でない迫力をもたせることができるから梶井基次郎は天才なんだよな。

 その前晩私はやはり憂鬱に苦しめられていました。びしょびしょと雨が降っていました。そしてその音が例の音楽をやるのです。本を読む気もしませんでしたので私はいたずら書きをしていました。その waste という字は書き易い字であるのか――筆のいたずらにすぐ書く字がありますね――その字の一つなのです。私はそれを無暗にたくさん書いていました。そのうちに私の耳はそのなかから機(はた)を織るような一定のリズムを聴きはじめたのです。手の調子がきまって来たためです。当然きこえるはずだったのです。なにかきこえると聴耳をたてはじめてから、それが一つの可愛いリズムだと思い当てたまでの私の気持は、緊張と云い喜びというにはあまりささやかなものでした。しかし一時間前の倦怠ではもうありませんでした。私はその衣ずれのようなまた小人国の汽車のような可愛いリズムに聴き入りました。それにも倦くと今度はその音をなにかの言葉で真似てみたい欲望を起したのです。ほととぎすの声をてっぺんかけたかと聞くように。――しかし私はとうとう発見出来ませんでした。サ行の音が多いにちがいないと思ったりする、その成心に妨げられたのです。しかし私は小さいきれぎれの言葉を聴きました。そしてそれの暗示する言語が東京のそれでもなく、どこのそれでもなく、故郷のしかも私の家族固有なアクセントであることを知りました。――おそらく私は一生懸命になっていたのでしょう。そうした心の純粋さがとうとう私をしてお里を出さしめたのだろうと思います。心から遠退いていた故郷と、しかも思いもかけなかったそんな深夜、ひたひたと膝をつきあわせた感じでした。私はなにの本当なのかはわかりませんでしたが、なにか本当のものをその中に感じました。私はいささか亢奮をしていたのです。
梶井基次郎「橡の花」)

 今日づけの記事をここまで書いたあと、東院二年生のY.Bさんのスピーチ原稿を手直し。それから卒業生への手紙をほんのちょっとだけいじる。
 17時をまわったところで第五食堂で打包。C.N先生から微信。国際交流処から大学の沿革についての文章を日本語訳するように頼まれたのだが、添削してほしいという依頼。やっぱり! 忙しいときにかぎって! 依頼が! 舞い込み続ける!
 メシ喰うな、いや喰う。チェンマイのシャワーを浴びる。C.N先生からの依頼にざっと目を通し、原稿をいくらかいじる。今日はなんとなく気分ののらない感じがしたので、自室で作業するのはやめにして、図書館で書見することに。保温杯にコーヒーをたっぷりそそいで出発。三階にあるいつもの長テーブルで20時から22時まで『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続きを読み進める。これまでそんな姿はなかったと思うのだが、今日は巡回のおばちゃんがふらふらと歩いている姿を何度も目にした。以前瑞幸咖啡で買ったコーヒーを手にしたまま図書館に入ろうとしたら、入り口にいた警備員からそれはダメだと叱られたことがあったのだが、保温杯になみなみそそいでいったコーヒーに口をつけていても特になにか言われることはない。周囲の学生らもみんな水筒をもっているし、なんだったらおなじフロアに飲料用の湯をそそぐことのできる機械もある。だったら別に外からコーヒーでもミルクティーでももちこんでいいでしょうと思うのだが。あと、このあいだ一年生の授業で、中国の図書館にはなぜかサンダルで入ることができないけれども、あれはどうしてなのかとたずねたところ、ペタペタいう足音がうるさいからだろうという意見があったのだが、それをいえば暗記のためにみんながみんなぶつくさ独り言を口にしているあれのほうがよほどうるさいと思う。

 一度も避妊手段をとったことがない。人通りの多い路にはなにも生えない。
(598)

 彼女には自分の習慣がない。いつでもそれぞれの男の習慣を身につける。
(598)

 解剖学教室の老僕が死体解剖の際に発見された胆石で大きなモザイク像を作り上げた。
(615)

文学の本質に通じる道は、草案は完全原稿より強烈に作用するという事実に注目することである。
(654)

市民的に悲劇的なのは、個人と法の対立であり、詩的に悲劇的なのは法のなかでの矛盾であろう。解決の違いは、人が普遍的な公式を一歩先まで計算するか否かに従う。
(655)

 カイニーテン(ユダイテン)カインと男色家を尊敬し、ユダの福音書をもつと主張した。
(677 ※フローベル『アントニウス』全集、第四巻へのJCCブルンスから借用した初期キリスト教宗派に関する注)

 この記述にはちょっと面喰らった。日記のこのページ、「初期キリスト教宗派に関する注」がずらりと羅列されており、その簡単な説明に目を通しているだけでもかなりおもしろいのだが、なかでもひときわ異質なのがこの「カイニーテン(ユダイテン)」という宗派で、「ユダの福音書」なんてRPG後半で出てくるやばいアイテムみたいでクソカッコいい!

はじめのうちどもりどもり言い、のちには決まり文句に堕落したものは完全に正しい。
(750)

 われわれの民族。それは人類の、われわれが到達できる部分という意味でなければならない。
(752)

人工的な自我連続性を形成させなければ、死は生以上の恐怖をあたえないであろう。
(796)

ひとは一生にとって決定的な着想をもつ。x年後、ひとはこの着想より一歩先んじているか、遅れているかである。
(805)

諷刺的技法。愛するものを考え尽くして、それが諷刺的になるまでに支配しなければならない。
(808)

ドイツは、その不道徳的な、ではなくて、その道徳的な市民たちによって没落していった。モラルが掘り崩されたのではなく、モラルが空洞であることが実証されたのである
(809)

(こう言うことはできないであろうか。われわれは一つの既成の個性と、一つのつねに生成しつつある個性をもつ、と。前者は情熱を抱き、思考、エトセトラのことをする。後者は形づくられていない人間素材、人間マイナス彼を形づくった影響、別なふうになることもできるであろうもの)
(814-815)

 やっぱりこういう二段構えがこちらにもしっくりくる。本質主義構築主義どちらが正しいという話ではなくて、人間には本質主義的な部分もあれば構築主義的な部分もあるという二段構え(その二段に上下の別を設けるべきかどうかはわからない)。あるいは、予測誤差の体系化(経験のまとめあげ)と、それが最大公約数的に社会化(言語化)されて伝承されたものとして〈父の名〉(系譜の伝達)の二段構え。

 偉大な人間になるには、どうすればよいのか? そこに諷刺的な側面がある。いかに偉大な人間になろうとしても、偉大な人間とはどういうものなのか、誰も知らない。明らかに多様な方法がある。しかしこの偶然的な方法がもっと重要なこととして描かれる。ディオティーマ、ゲルダ、ボーナデーアは偉大さの多様な観念である。ニーチェ、カーライル、マルクス、キリストは個人的な表われであって物象ではない。本来、後ニナッテ[ポスト・フェストゥム]成功が決定する。彼は最初にそれに気づく。それは悪の原理である。→個人は、なにか普遍的なものになろうとすれば愚者になる。←
(828)

 書見中、二年生のR.Hさんから微信。「私のアイドル」用の文章を一部チェックしてほしい、と。K先生も言っていたが、R.Hさん、けっこう文法の基礎があやしい。授業熱心でまじめな学生であるし、最近ますますやる気満々になっているふうであるから、なるべくサポートしてあげたいという気持ちがあるのだが、日本語の文法を根本的に理解していないと犯せない間違いが文章のところどころに散見せられて、うーんとなってしまう。
 帰宅。Y.Bさんにスピーチ原稿を送る。C.N先生からの依頼もちゃちゃっとかたづける。ついでにスピーチコンテストの校内予選はいつ実施する予定であるのかたずねようかなと思ったが、急かしているように思われるのも嫌であるし、こちらとしても練習の開始は遅いに越したことはないというあたまであるので、触れないでおくことに。C.N先生自身、「主任」の仕事がいそがしすぎて、けっこう参っているふうだった。
 懸垂をする。トースト喰う。A Prayer Journal(Flannery O’Connor)をKindleでポチる。Katherine Mansfield and Virginia Woolfはあんまりおもしろくないしもういいや。
 ベッドに移動前に『胎界主』の最新話を読んだら、すごいことになっていた。影男も久松二三夫もレックスもみんな死んでもうた(レックスはどうかまだわからんけど)。演出もキレッキレ。第一部からまた通して読み返したいな。夏休み中に再読するかな。