20240519

小説を書くということは社会全体に流布している価値とは別の価値による領土を作ることだ。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.298)



 10時起床。文具屋でゴミ袋を買う。老板から老师mang2bumang2とたずねられるが、mang2の音と忙の文字があたまのなかでつながらず、のちほど辞書アプリで意味を確認してショックを受けた。初級もいいところの中国語ではないか! なぜ忘れるのか!
 第五食堂へ。閑古鳥の広州料理を打包する。厨房のおばちゃんからあんた何人だと問われたので、日本人だと受ける。ほかにも学生はいるのかというので、日本人学生はいない、自分は学生ではなく教師だ、(…)には日本人が一人しかいない、それが自分だと答える。おばちゃんのそばにはバイトの男子学生らしい子もいて興味津々にこちらをながめている。その奥には別のおばちゃんがいたが、こちらは悪意や反感や嫌悪を顔面いっぱいにあらわにしている。
 帰宅。メシ喰うないや喰う。三年生のR.Kさんから微信。簡単なスピーチ原稿の添削。スピーチコンテストに出場するのかとたずねると、実践演習の課題のひとつであるという。クラス全員が簡単なスピーチをしてそのようすを録画して提出する必要があるのだ、と。他の学生からも添削依頼が続くかもしれないと警戒する。S.Fさんから修論の催促があったので、ちょっと待ってくれと返信。さらにK先生からも微信。現在「国の教育審査に向けて学校規模の教学書類の整理」している最中であるが、期末試験や成績表関係の書類の中に未提出のものが複数あるのでそれについて説明したい、と。直接会っての説明のほうがわかりやすいと思うのでとあったので、明後日の授業終わりに会うことに。ちなみにこの書類の提出の締め切りも月末で、作文コンクールの締め切りと完全にかぶる。やれやれ。
 昨日づけの記事をひたすら書く。G.EさんとC.Uさんが14時ごろにやってくる。卒論に必要な本を以前貸したわけだが、それを返却するため。外は軽い雨降りだったし、自転車があるこちらがちゃちゃっと女子寮まで行こうかと提案したのだが、ふたりで第五食堂のあたりを散歩するつもりだからかまわないという返信があったのだった。で、玄関の扉がノックされたので出たところ、ぶどうとりんごの入ったビニール袋をさげているふたりがいて、どうやら第五食堂付近の果物屋でわざわざお世話になりましたの手土産を買ってきてくれたようす。とりあえず中に招き入れる。G.Eさんには卒論に必要な本だけではなく、残雪の小説二冊と『うずまき』(伊藤潤二)の中国語版も貸したままだった。ふたりから写真撮影をたのまれる。記念写真ではない。「国際交流」をしているようすを写真におさめて提出する必要があるのだという。きのうC.SくんがC.Iさんにおなじく「国際交流」の写真がうんぬんと微信を送っていたのとおなじ事情だろう。ふたりの日本語能力はさほど高くないので(G.Eさんはもともとかなり流暢だったが、院試にあたって受験で使う外国語を日本語から英語に切り替えたので、たとえば今日「自由」や「引っ越し」という単語ひとつ聞き取ることができなくなっていた)、詳細はたずねなかったが、とりあえずG.Eさんとふたりならんでソファに腰かけたところをC.Uさんが撮影。それでオッケー。G.Eさんはこれから天津大学の院生になるわけだが、C.Uさんはどういう予定なのかとたずねると、現在故郷の(…)で小学校教師をしているという。担当科目は算数。しかし契約は6月までで、その後どうするかはまだわからないというので、夏は暑いから働かなくていいよ、秋になってから仕事を探しなさいといい加減な助言を口にする。三年間お世話になりましたとG.Eさんがあたまをさげてみせるので、こちらこそお世話になりました、オンライン授業を終えてひさしぶりに対面授業をするとなったとき、最初に担当したのがきみたちのクラスの授業でぼくは本当に幸せだった、とてもやりやすかったよと応じる。
 ふたりが去ったところで、ふたたび日記にとりかかる。記事を書き終えて投稿したところで、S.Fさんに添削済みの修論を送信する。R.Kさんのスピーチ原稿も添削して送り、来週の授業にそなえて一年生の学習委員ふたりにも「道案内」の資料を送る。
 17時前に寮を出る。雨の中、傘をさして南門まで歩く。途中でC.IさんとR.Mさんから電話。もうすぐ着くから待ってと応じる。一年生1班のS.Eくんと2班のK.Kさんから微信がとどく。作文コンクール用の原稿が仕上がったという報告。まるで示し合わせたかのようなタイミングだった。のちほど確認して返信しますと伝える。
 南門前にはそのC.IさんとR.Mさんのほか、R.Eさん、R.Sさん、T.Yくん、S.Rくん、K.Eくん、C.Sくん、K.Uくんというおなじみのメンバーがいる。今日は雨降りもあって先日までの30度オーバーが一転、最高気温が23度かそこらになっており、それゆえにこちらは帰路の夜道にそなえてカーディガンを首に巻きつけるかたちで用意しておいたのだが、S.RくんがペラペラのTシャツと海パンみたいなハーフパンツとビーサンという格好だったので、いまから海でも行くの? と茶化した。けっこうな降りっぷりであったにもかかわらず、男子学生らは五人で三本しか傘を持っていない。会社の寮に傘を置き忘れてきたとC.Sくんは言った。
 メシは一昨年こちらの誕生日にたずねたちょっといいレストランでとる予定だという。15分ほどの道のりを歩く。はじめのうちは例によってC.Sくんといろいろ話す。「国際交流」の写真についてたずねると、大学に提出するものだという。日本語学科の学生として日本人と日本語でこんなふうに交流しましたよという証拠のようなものだというのだが、これも結局は形式主义でしかない。途中からC.IさんとR.MさんとR.Sさんのパーティーにくわわる。东北火锅の店を通りがかったところで、きみたちのルームメイトといっしょに以前ここで食事したよね、T.Sさんもたしかいっしょだったと思うけどというと、C.Iさんが完全に忘れているふうだったので、もうぼくときみの関係も終わりだな、きみが卒業したらきみの写真スマホから全部消しますというと、R.MさんとR.Sさんがゲラゲラ笑った。
 途中からK.Uくんとふたりで歩く。院試に再挑戦するつもりはないのかとたずねると、それは考えていないという返事。それよりもはやく社会人になったほうがいいと思ったという。仕事は広東省で探す。あるいは日本で仕事をするのもいいかもしれないと考えているというので、R.Sさんはそうするらしいよと教える。R.Sさんはいっしょに日本に行こうとK.Uくんを誘った。
 店に到着する。一階にある席は全部せまいので二階の個室に移動。二階の個室には一室ごとに(…)の観光地の名前があたえられている。われわれが通された個室の名前は「(…)」。注文は学生らに任せる。不要辣椒というと、店員のおばちゃんがうちの料理はほとんど唐辛子入りだというので、微辣可以! と続ける。オーダーした品は全部で11点。どれもこれもびっくりするくらいうまかった。いや、ひとつだけまずいのがあった。魚のスープだ。淡水魚を使っているので仕方ないのだが、やたらと臭かったのだ。学生らもこの魚は臭い臭いと口々にいった。スープには薬味としてネギとパクチーのほか、茹でためんたいこみたいなものもあり、それをスープに溶かすと味がちょっと酸辣になったのだが、その正体がいったいなんであるのか学生らはだれも知らない。R.SさんとR.Eさんのふたりがめんたいこみたいだというので、なんでそんなもん知っとんねんとちょっとびっくりしたが、そうだった、ふたりは九州で半年間過ごしたのだった。めんたいこはふたりとも大の苦手。刺身と同じでとても食べる気になれなかったという。あれはたしかに外国人にとってはなかなかグロい。
 こちらの左となりにはC.Sくんが着席。故郷である温州にて靴の製造会社で働いている彼であるが、日本語を使う機会があるのはいいものの、休みが日曜日だけであるので、せめて週休二日の会社で働きたいという。杭州まで出張ればチャンスもあるだろうし、頃合いを見計らってそちらに越すつもりでいるのだが、なんせ中国はいまだに週休一日の会社が大半。給料がいまよりも少なくなってもかまわないので、とにかく週休二日がいいとのこと。工場労働者ともなれば休みが月に一日か二日しかない、しかも朝の8時から夜の8時まで働く、日によっては深夜3時まで残業することもあるというので、エグいな! となりつつ、それで給料はいくらくらいなの? とたずねると、先生よりずっと少ないですという。6000元とか? とたずねると、5000元や4000元の場合もあるというので、それはマジで地獄だなと受ける。大卒者であればさすがにそんな仕事に就くことはない、たとえばいまの会社の工場には高校を中退した男の子がいる、まだ17歳だ、そういうひとがそういうところで働くのだと説明が続く。
 われわれのやりとりを小耳にはさんだT.YくんがC.Sくんの会話能力を褒める。しかしC.Sくんの会話能力は実際のところそれほど高くない。S.RくんやR.Mさんとさほど変わらない。そしてその三人よりも、三年生のR.SさんやK.Kさん、二年生のR.HくんやR.Uくんのほうがさらに能力は高い。そう考えるとこの学年は会話能力にめぐまれた子はあんまりいなかったんだなと思うわけだが、いやそれも仕方ないか、外教としてこちらが(…)にもどってきて対面授業を再開したとき、彼女らはすでに二年生後期だったのだ。生の日本語にふれる機会があまりに少なかった。
 T.YくんとR.Eさんのふたりは日本語がほぼできない。そしてふたりそろって口数の多いタイプである。しかるがゆえにこのふたりがそろうと、だいたい毎回会話が中国語一色になってしまうという問題がある。置物扱いのまま長い時間を過ごすのは当然苦痛であるので、一時期はこのクラスの大人数での集まりは避けていたわけだが、今日もそういう空気に流れそうな瞬間が何度かあった。がしかし、その都度、左となりのC.Sくん、右となりのK.Uくんに別の話題を切り出し、こちらはこちらで会話を楽しもうとしたところ、自然とほかの面々もその話題に加わりはじめるという流れとなって、要するに、こちらが会話の主導権をにぎったわけだが、これはこれで授業みたいになってしまうので、実はあんまり好きではない。今日は最後の食事会になるかもしれないので、いわばホストとしてちょっと気張った格好。
 K.Kさんの話題が出た。こちらとK.UくんとR.SさんとR.Eさんの四人で話しているときだった。彼女は正式に留年が決まったらしい。K.Kさんの指導教官はS先生、R.Eさんの指導教官もおなじくS先生であるので、共通のグループチャットが存在するわけであるが、そこでもK.KさんはS先生からのメッセージにほとんど返信しないという。S先生はかなり怒っていたというので、そりゃそうでしょう、指導教官という立場であるし彼の教員としての評価にもかかわるかもしれないからというと、学生らはS先生に同情した。K.Kさんの勤めているあのスピーチ教室はだいじょうぶなの? 変な会社じゃない? とたずねると、希望をもって、みなさん、がんばりましょう! とガンギマリの笑みを浮かべて空疎な美辞麗句をスピーチする人物のまねをR.Sさんがしてみせるので、だよね! だよね! なんかそんな感じだよね! ちょっと宗教みたいだよね! というと、そうそうそうそうという反応。三年生のころにはそっちの仕事があるからという理由で授業をよくサボっていたという。それでいえば、こちらが(…)にもどってきた直後、最初の授業で自己紹介として黒板に名前と趣味を書かせたわけだが、K.Kさんは二年生後期のその時点ですでに趣味に「講演」と書き記していたのだった。
 R.Sさんに卒業後どうやって日本で仕事をするのかとたずねる。仲介会社にお願いするのかとたずねると、そうであるという返事。しかし前回インターンシップに参加した際に利用したのとは別の仲介会社を利用するとのこと。K.Uくんもその話には興味があるのだが、じぶんにホテルのウェイターが務まるかどうか自信がないという。専門用語さえおぼえれば、あとはそれほどむずかしくないでしょうというと、いえいえと経験者のR.SさんとR.Eさんが首をふる。R.Eさんはその後中国語で日本社会のあれこれをディスりまくっていたが、彼女はもともとこのクラスでももっともパッキパキな愛国少女であるので(だからこそ彼女が日本にインターンシップに行くという話をはじめて聞いたときこちらはびっくりしたのだった)、これはもうどうしようもない。むこうで友人になったのに中国に帰国後LINEの連絡先を消されたという例の日本人女性の話が出た。どうして? というので、わからないと応じる。人間関係をリセットする癖のある子なのかもしれないと続けたのち、その子が仕事を辞めた可能性もある、仕事を辞めると同時に以前の職場の同僚の連絡先を全部消してしまうひとはいるからというと、そういうひとは中国にもいるとC.Sくんが言う。でもわたしたちはみんなでいっしょにいつか旅行する約束をしていましたと女子ふたりが抗議する。社交辞令としてしか受けとっていなかったんだろうと思ったが、それは口にしなかった。
 R.Eさんに卒業後の予定をたずねる。上海に行くという。パイロットの彼氏といっしょに? とたずねると、彼氏はいまは四川にいる、そのあとは新疆で二年間、さらにじぶんたちの故郷である江蘇省で二年間、パイロットとしての訓練(?)をまだ重ねなければならないとのこと。上海は家賃がすごいみたいだね、うちの卒業生も何人か上海で仕事をしているけど、中心部の家賃が高すぎるから通勤に電車で一時間二時間かけているひとも多いというと、C.Sくんの知り合いで通勤に片道三時間かけているひともいるという話があった。信じられない。
 R.U先生の話にもなる。四年生ではC.Sくんただひとりだけが彼女を卒論の指導教官としていたわけであるが、なにか質問があって微信を送ってみてもクラスメイトにきいてみてという返事しかないと不満をこぼしてみせるので、そもそもあのひと日本語ほぼまったくできないからなと言ったところ、R.Eさんがびっくりした表情を浮かべた。ほかの面々はみんなそんなことにはとっくに気づいているわけだが、あらためてそのあたりのことを説明したのち、博士課程に所属している現在じぶんに出された課題をうちの学生らに押しつけているという胸糞悪くなるエピソードを紹介したところ、S.RくんとR.MさんとC.Iさん以外はさすがにこの事実を知らなかったらしく、みんなぎゃーぎゃーわめいた。じゃあどうして博士課程に進学できたのだ? そもそもその前にどうしてうちの教員になれたのだ? というので、关系でしょうというと、ああーという納得の反応。でも博士号を取得したら彼女はほかの大学に移るかもしれないとこちらが口にすると、それだけでこちらの言わんとするところを察したS.Rくんが吹き出し、みんながなになにとなるのに、だから彼女には博士号取得後に(…)大学に行ってもらいましょう、そうしたら(…)大学のレベルが下がる、そして(…)のレベルが上昇するというと、みんなゲラゲラ笑った。R.Eさんがじぶんも关系を利用して大学教員になりたいというので、なってもうちに来ちゃダメだよ、(…)大学のほうに行ってねと言うと、みんなまた爆笑した。あまりにうるさかったので、途中で店員のおばちゃんがちょっと個室をのぞきにきた。
 個室には食後もずいぶん長居した。会計は学生らがもってくれた。最後だからお世話になりましたの意味を込めてとのこと。ここはお言葉に甘えることにした。店の外に出る。雨はすでにやんでいる。徒歩でふたたび大学にむかって歩き出した。帰路はR.EさんとR.Sさんといっしょに歩く。電車と地下鉄とJRの違いはなにかとたずねられたので、電車と地下鉄は中国語の电车と地铁と同じ、JRは鉄道会社の名前だと答える。大阪を旅行したときは梅田駅で迷いに迷ったというので、あそこはやばい、ぼくも大学生のときにはじめて梅田駅をおとずれたとき彼女との待ち合わせ場所に全然たどりつくことができなかったと応じる。
 大学に到着する。新校区の南門には大学名の彫られた看板があるので、そこで最後の記念写真を撮ることになる。K.Eくんが保安员を連れてくる。それで撮影。以下、その写真。左から順に、K.Uくん、S.Rくん、K.Eくん、C.Sくん、T.Yくん、日本猿、R.Eさん、R.Sさん、R.Mさん、C.Iさん。
 
(…)
 
 寮が老校区にある男子学生とはそこでお別れ。卒業してもいつでも気軽に連絡してねという。特に金持ちになった場合は絶対に連絡をすることと続ける。最後に、みなさんご卒業おめでとうございます、これまでどうもありがとうございました、と深々とあたまを下げる。学生らも恐縮してお辞儀する。
 女子学生らと新校区に入る。おしゃべりしながら歩いていると艺术楼の近くで「先生!」と呼びかけられる。三年生のK.Kさんがひとり傘をさして地面にしゃがみこみ、野良猫にチュールをあたえている。今日はC.Rくんとデートしていないのとたずねると、いまはひとりですという返事。そのC.Rくんものちほどやってきた。そしてふたりしてわれわれの会話をやや遠巻きに見守るかたちになった。そう、われわれはなぜかその場所に立ち止まったまま一時間以上、R.Mさんによれば「二時間くらい」、ずっと立ち話をし続けることになったのだった!
 しかしなにを話したのか、もはやほとんどおぼえていない。それくらい「普通の会話」(cero)だったということだろう。きのうR.MさんとC.Iさんといっしょに散歩している最中、C.Iさんがなぜか途中で英語で会話しましょうと言い出したのだが、日本語の文法に慣れてしまっているせいでSVOでうまく文章を組み立てることができず、それにくわえて発音がカタカナ英語のようになってしまっており、それで大笑いしたのだったが、今日あらためてその話が出た。で、C.IさんとR.Eさんが交互に、ものすごく簡単な英語のセンテンスを口にしたのだが、たしかI want to go swimmingだったろうか、その発音がほんとうに「アイウォントゥーゴースイミング」になっていたので、うわ! ほんとにJanglishじゃん! とびっくりした。中国人の英語の発音、少なくともうちの学生らがときたま口にするものを聞いているかぎりは、日本人のいわゆるカタカナ英語よりもはるかに本場のそれっぽい発音であるという印象があるのだが、C.IさんとR.Eさんの英語は完全にカタカナ寄りだった(しかし決して日本語能力の高いとはいえないふたりにかぎってなぜそんな発音になるのか?)。先生の英語は挺好だ、全然日本人っぽくないとR.Mさんが言ったのを受けたR.Eさんが、どうしてなのかとたずねてみせるので、いまから十年くらい前に半年ほど一生懸命勉強したからだと答えた。C.IさんとR.Eさんのふたりはこの話についてよく知っている。だからすぐにイギリス人の彼女? というので、そうそうと受けたその流れで、あらためてSとの出会いとその後の経緯についてざっと説明するはめになった。
 そこからまた恋愛談義——になりかけたのだが、きのうにひきつづき、50歳の大金持ちに求婚されたらどうするかというバカみたいな思考実験がはじまった。相手は(…)省一の大金持ちです、外見はふつうです、年齢は50歳ですというと、R.Eさんは結婚するという。でも子どもがうんぬんかんぬんとR.Mさんが言うと、それはいやだ! とR.Mさんが反応、C.Iさんもそれは話がちがう、結婚はするけれどもそういうことはしたくない! みたいなことを中国語でまくしたてるので、いや結婚するということはいっしょに寝るということだよ、その上で相手は50歳の大金持ちです、どうしますかという質問だよというと、そうだそうだ、だからじぶんは拒否すると言ったのだとR.Mさんが口にし、すると今度はR.Eさんが、じゃあ結婚するだけして夫にはきれいな小姐を複数人あてがう、それでじぶんは中国と韓国と日本とアメリカとフランスのアイドルを呼び寄せてうんぬんかんぬんと言い出すので、この子ちょっとバカですねとみんなで笑った。そのあいだR.Sさんはわれわれの輪からはなれてひとり野良猫をめでていた。R.SさんはS.Sさんから同性愛者であるときいているのだが、乙女ゲームをよくプレイしているようであるしイケメンがどうのこうと口にするし、だからバイなのかなと思うことがここ一年ほどはよくあったのだが、ただ彼女の仲良しのR.Eさんがガチガチ愛国少女であり考え方も保守的、しかるがゆえに性的少数派に対する理解もいまどきの若い中国人にしてはほとんどなく、それこそS.SさんがいつだったかモーメンツにLGBTという単語を用いた文章を投稿して遠回しにカムアウトしたところ、そのコメント欄でどうしていま変態の話をしているのだ? みたいなおそろしく空気の読めていないデリカシーのなさにもほどがあるメッセージを寄せていて、というようなタイプの子であるので、そのR.Eさんの手前、R.Sさんはカモフラージュしているのかなと思うこともなくはない。
 あとは高校生時代の話もこわれるがままに語った。田舎のヤンキー社会の話だ。学生たちは信じられないというようすだった。そりゃそうだろう。「学習は人間を改造する」みたいな、たぶん中国でよく使われるフレーズであると思うのだが、そういう言葉をC.Iさんがぽつりと漏らし、周囲がうんうんとうなずいた。
 気づけば22時だった。女子寮前まで歩いた。別れ際、今日が最後ではないと女子学生らは言った。まだまだ寮に残る予定だというので、ぼくも来月あたりからちょっと暇になるから、またみんなでごはんを食べたり散歩したりしましょうというと、C.Iさんがうれしそうにニコッと笑った。
 帰宅。チェンマイのシャワーを浴び、ストレッチをし、マンゴスチンとぶどうをかっ喰らった。R.KくんとK.Iくんに、たのまれていた文章の添削をする時間がとれないかもしれないと微信を送った。締め切りは24日までというのだが、実践演習で作成する郷土文化紹介ビデオの字幕として利用する文章は専門用語が多く、原文と照らし合わせて慎重に訳す必要があるので、どう考えても時間がかかる。だから作文コンクール用の原稿の添削のみならず、事務室に提出する書類仕事だのなんだのが月末締めで山積みになっている現状、正直ちょっと厳しいかなと思ったのだ。
 ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。以下は2023年5月19日づけの記事より。スピーチコンテストの校内予選の様子。

 会場には日本語学科以外の学生の姿もちらほらあった。ほとんど男子学生。だれだよとあれとぼやいていると、興味がある学生かもしれないとC.Uくんはいったが、しかし実際にコンテストがはじまってみると、大半は手元のスマホをいじっているのみ。サクラかなと思った。教室に空席が存在してしまうと見栄えが悪いということで、行事ごとには毎回カメラも入ることであるし、満員をアピールするために外国語学院が動員した連中かもしれない(中国社会ではこういうまったくもって「形式主義」的な論理がいたるところで作動するのだ)。手元のスマホでいえば、これもやっぱり例年のことであるが、見学を強いられている一年生から三年生までほとんどすべての学生が、壇上でスピーチしている学生のほうなど見向きもせず手元のスマホばかりいじっていたし、それは審査員として最前列にいるS先生やR先生やC.Uくん、あるいは司会役のR.MさんとK.Kさんもおなじで、おれはやっぱりこういう他者に対する敬意の不在がデフォルトであるコミュニケーションのあり方にまったく魅力を感じないなとあらためて思った。「先生、日本人は冷たいですか? 東京の人は冷たいですか?」とどこかで仕入れたステレオタイプを裏打ちしようと試みる学生らに対しては、ところできみたちはこういう光景を冷たいと感じることはないのかと聞いてみたい。

 以下は2021年5月19日づけの記事より。「一回性の記憶(トークン-現実的なもの)を言語(タイプ-象徴的なもの)を介して他者と分かち合うことで予測の体系(象徴秩序)におさめて御すというところが特におもしろい」(2023.5.19)という補足つき。

 さて、ここである疑問が生じます。今までお話ししたことからおわかりいただけると思うのですが、人は、予測を洗練させていくことで、世の中の見通しを立てていくことができるようになる。逆に言えば、人は予測誤差をなるべく避けようとする、ということです。多くの研究者たち、そしてご存知のとおりフロイトも「快感原則」という言葉で、そのように語っています。
 であるはずなのに、われわれは、わざわざ予測誤差をみずから求めにいくことがある。みなさんにもきっと思い当たる節があるのではないでしょうか。ということは、そもそも本当に、人間は予測誤差を減らしたいだけの生き物なのだろうかという疑問が立ち上がってくるのです。
 最も予測誤差が生じないのは、暗い部屋で何もしないで、じっと閉じこもっている状況です。もしも人間が快感原則だけで生きているなら、それが一番心地よいことになるはずです。しかし人はそれを求めない。認知科学などの分野ではこれを「ダークルーム・プロブレム」と呼び、ずっと議論が続いているテーマでもあります。
 さて、ここまでお話ししてくると、この問題が、國分さんの『暇と退屈の倫理学』のテーマと重なることがおわかりでしょう。人は予測誤差を減らしたいはずなのに、なぜわざわざ自分から進んで予測誤差を取りに行くようなことをするのか? 言い換えれば、人はなぜ愚かにも「退屈しのぎ」をしてしまうのか。この問題を解く鍵は、トラウマ、つまり予測誤差の記憶にあるのではないか。何度も國分さんとディスカッションを重ねてきて、私たちはそのような仮説を立てています。
 私たちは、生まれてから今日に至るまで、大量の予測誤差を経験しています。過去の予測誤差は、それを思い出すたびに叫び出したくなるような「痛い」記憶が多々含まれていると思います。誰でも痛いのは嫌です。わたしももちろん嫌です(笑)。しかも予測誤差の記憶は、範疇化を逃れた一回性のエピソード記憶の形式をとります。予測可能にするためには、反復するカテゴリー(タイプ)の一例(トークン)として、その予測誤差の記憶を位置づける必要があるわけですが、一回性の記憶は私のなかでは反復していませんから、論理的に無理なことです。
 おそらくそこで重要になってくるのは、類似したエピソードを経験している他者との言語(タイプ)などを通じた分かち合いだろうというのが、私の考えです。一回性の記憶は、他者を媒介に反復させることによってトラウマ記憶ではなくなるのではないか、という考えですね。そうすることで、集合的な予測のなかに自分のエピソード記憶が位置づけられたときに、それはなまなましいトラウマ記憶ではなく、通常の嫌な記憶として御しやすいものになっていくのでしょう。
 ところが、そういった他者がいないとか、媒介する言語が流通していないなどが理由で、予測誤差の記憶がセピア色の思い出になってくれない場合があります。このような予測誤差の記憶を、私たちは「トラウマ記憶」と呼んでいるのではないか、と私は考えています。これは特別な人にだけ起こり得ることではなく、大なり小なりおそらくすべての人がトラウマ的な記憶をもっていると思いますし、忘れていたはずの過去のそんな記憶の蓋がある日突然開いてしまうこともあるかもしれません。とりわけ重要なのは、その人の覚醒度が落ちたり、あるいは何もすることがなくなったりした瞬間に、蓋が開きやすくなるという点です。
 記憶の蓋を開けないためには、例えば、覚醒剤とか鎮静剤にひたる、あるいは仕事に過剰に打ち込もうとすることで覚醒度を〇か一〇〇にしていると考えられるのではないか。つまり、痛む過去を切断して、未来に向けて邁進するような方向に向かうのではないか、と。予測誤差の知覚は、覚醒度を高める効果があります。それによって、地獄のような予測誤差の記憶に蓋をすることができる。こうして、予測誤差を求めてしまう人間の性を、予測誤差の記憶の来歴によって説明できるのではないか、というのが、私が國分さんとの数年の討議を通じてたどり着いた仮説でした。しかし、予測誤差の知覚は、当然すぐさま予測誤差の記憶へと沈殿していきますから、このサイクルは終わることがありません。しかも、予測誤差の知覚を与えようとして繰り返し気晴らしを行えば、反復によってそこで得られる知覚は予測可能になっていくので、気晴らしはエスカレートせざるを得ない宿命にあります。
 誰もが大なり小なり傷ついた記憶を持っている。そんなわれわれ人間にとって、何もすることがなくて退屈なときが危険なのではないか。そんなときに限って、過去のトラウマ的記憶の蓋が開いてしまう。だから私たちは、その記憶を切断する、つまり記憶の蓋をもう一回閉めるために予測誤差の知覚を得ようとして、いわゆる「気晴らし」をするのではないだろうか、と。
(…)
(…)今でもこれは有力な仮説ではないかと私は思っています。人はたしかに予測誤差を減らしたい生き物ですが、実際、生きていれば、予測誤差は必ず生じる。そういう意味で、私たちはみんな傷だらけなわけです。だからこそ人は退屈に耐えられない。退屈というのは、古傷の疼きの別名ではないだろうか。これが、國分さんが二〇一五年に、増補新版の『暇と退屈の倫理学』を出される前あたりでの、私と國分さんとのあいだの暫定的な答えでした。
 そして國分さんは、同書の増補部分において、ルソーを引きながら、予測誤差をおおよそ次のように整理されたかと思います。
——予測誤差を少しでも減らしたいという特徴は、おそらく人間が生まれつき持っているものだろう。傷を得る前から、生まれながらに備わっている、身体が宿している特徴や傾向、人間の本性というべきものを「ヒューマン・ネイチャー Human Nature」と呼ぶことができる。ところが、生きていると無数の傷を負う。すると、先ほど言ったように、「ヒューマン・ネイチャー」に反して、自分から、傷を求めるような行為をしてしまう。だから「ヒューマン・ネイチャー」からだけでは、なぜ人が退屈になるのか、なぜ人が愚かな「気晴らし」にのめり込んでしまうのか説明できない。生きていればやむなく、ほとんどの人間が自分を傷つける経験をしてしまう。誰も無傷ではいられず、傷だらけになる運命にある。その運命に基づく人間の性質や行動を「ヒューマン・フェイト Human Fate」と呼ぶことができるのではないか。考えてみれば、そういう少し悲しい運命が、例外なくすべての人に課せられている。こう考えると、「ヒューマン・ネイチャー」と「ヒューマン・フェイト」の両方を踏まえたときにはじめて、なぜ人は退屈になるのか、そして退屈に対する体制の個人差が生じるのかが説明がつくのではないか。
(…)
 國分さんのこの整理は、私にとって非常に納得のいくものでした。では次に、退屈と中動態がどう関係しているのかに移ります。今ご説明した「ヒューマン・フェイト」の話がヒントになろうかと思いますし、その接点は、おそらく先ほど國分さんが話された「無からの創造」にあるかと思います。
 順番に説明します。まず、これは仮説なのですが、一つに、先ほども薬物の例でご説明したとおり、依存症とは、痛む過去を切断しようとする身振りなのではないかということです。過去の記憶の蓋が開けば地獄が訪れる。そういう人にとっては、蓋は閉まっていた方がいい。そのためには、過去を切断して、それ以上遡れない状態にしたい、今を出発点にしたい。つまり過去とは無関係に、現在や未来を「無から創造」したい。過去の記憶がよみがえることで訪れるのが「地獄」だとしたら、意志の力で、現在と未来しかない生を生きたい。言い換えれば、中動態を否定して、一〇〇パーセント能動態の状態になりたい。地獄の到来が想定されるのなら、そのように思ってもなんの不思議もありません。そして私には、國分さんの『中動態の世界』は、この「切断」あるいは「無からの創造」という考え方そのものへの批判として読むことができたということを述べておきたいと思います。
國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 p.128-136 熊谷発言)

 今日づけの記事を書くひまはなし! ベッドに移動し、アイスノンをバスタオルでぐるぐる巻きにしたものを枕として、すぐに就寝!