20240526

 実体概念は主観概念の一つの帰結である。その逆ではない! 魂とか「主観」をわれわれが放棄するならば、およそ「実体」にとっての前提もなくなってしまう。存在するもののさまざまな度合いは得られるが、存在するものそのものは失われる。
 ……(略)……
 主観、それは、最高の実在感情のさまざまな要因すべての間には或る種の統一があるということによせる、われわれの信仰を表わす術語にほかならない。すなわちわれわれはこの信仰を唯一の原因のはたらきとして理解するのである、——われわれはこの信仰のゆえに「真理」や「現実性」や「実体性」を総じて空想するほどまでに、このわれわれの信仰を信じているのだ。
 「主観」とは虚構であり、この虚構によればわれわれにおける数多くの同等の諸状態は、あたかも唯一の基体のはたらきであるかのように見える。しかしこれらの諸状態の「同等性」を最初に創り出したのはわれわれにほかならない。これらの諸状態を同等に置いたり整合させたりしていることこそが事実なのであって、同等性は事実ではない(——同等性はむしろ否定されねばならない——)(断想10〔一九〕)
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.335-336 ニーチェ『遺された断想』より)



 10時半起床。トースト二枚とヨーグルトの朝食。森恒二三浦建太郎との思い出についていろいろと語るインタビューがなんとなくまた読み返したくなったのでウェブで公開されているものもろもろにざっと目を通した。こんなふうな友人がいる人生というのはすばらしいだろうなとあらためて思った。自分が絶対に勝てないと白旗をあげてしまいたくなる親友でありかつライバルである存在と「脳を共有」するレベルで創作を語り合い創作を進めること、これ以上の青春なんてありえないだろう。実際にその立場に身を置いてみたらそれはそれでいろいろあるんだろうが、かれこれ二十年近くほぼひとりでずっとカタカタやってきた身からすると、そういう関係にどうしても強いあこがれを抱いてしまう。
 12時半から「実弾(仮)」第五稿作文。15時半まで。シーン45をもういちどチェックしたあと、シーン46にざっと手をくわえる。今日はいまひとつ集中できなかった。そういう日もある。
 きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前の記事を読み返す。以下、2021年5月26日づけの記事より。

 ヒューマン・ネイチャーが「人間の本性」ならば、ヒューマン・フェイトは「人間の運命」とでも訳すことができるもので、僕が作り出した表現です。この概念を提示するにあたって参考にしたのはジャン=ジャック・ルソーの自然人の概念でした。
 ルソーによれば、自然人はいかなる束縛も受けずに自由に生きています。たしかに誰かと一夜を共にすることもあるだろう。しかし、いかなる束縛もなければ、人間はその後、その相手と一緒にいるはずがないとルソーは言います。自由にひとりで生きていき、同じことを繰り返すはずだと。ルソーは家族制度を自然なものだと論じたジョン・ロックを批判してこのようなことを述べました。子どもが生まれるまでには十か月かかるというのに、その間、なんの束縛もない、自然状態における男女が、その間ずっと一緒にいるなどというのは不自然であって、ロックは社会状態における常識を自然状態に投影したにすぎないというわけです。
 ルソーが言うことは論理としては筋が通っていると思われます。たしかに自然人というものが存在するとしたら、何ものにも、誰にも拘束されることなく、フラフラと自分の好きなとおりに生きていくでしょう。それはわからなくはない。
 しかし、少し立ち止まって考えてみると、どこか納得できないところがあります。というのも、私たちのほとんどは、たとえ自由であろうとも、誰かと一緒にいたいと願うものだからです。たしかに自由なら誰かと一緒にいる必要はない。誰かと一緒にいるというのは面倒なことばかりでしょう。にもかかわらず、私たちが誰かと一緒にいたいと願うのはなぜなのか。ここには大きな謎があります。
 ここでヒントになるのは、自然状態が、これまでも存在せず、今も存在しておらず、これからも存在することはない状態であり、したがって、自然人は実際には存在しない虚構的な存在だということです。ルソーはこの虚構的存在を説明することで、社会状態という現実を分析しようとした。自然人が虚構的存在であるというのは、それが純粋な人間本性を具現化しているということです。仮にまったく無傷の純粋な人間本性がこの世に存在として現れ出たとしたら、それはたしかにルソーの言うとおりになるでしょう。
 しかし私たちは、絶対に、無傷の純粋な人間本性ではあり得ません。現実のなかで生きることで私たちは多かれ少なかれ必ず傷を負うからです。熊谷さんの言う予測誤差もまた傷の原因でしょう。おなかが空いているのに、すぐには食事が与えられない。そうしたズレだけでも私たちは傷を負います。私たちを傷を負うことを運命づけられている。
 傷を負うことが私たちの運命であるとすると、その傷によってもたらされるさまざまな結果・効果は普遍的なものであることになります。つまり、人間が傷を負った存在であることに例外はないわけです。そうすると、傷のもたらす結果・効果はまるで人間の本性であるかのように見える。しかし、もしそれらを混同してしまったら、あとから人間に付与される性質がもともとそこに内在していたことになってしまう。だから、自然人のような虚構を立てて人間の本性を考えると同時に、普遍的に存在するこの世での人間的生のあり方を、人間の運命という概念で考える必要があるのではないか。つるつるのヒューマン・ネイチャーを想定したうえで、ざらざらした傷だらけの存在にならざるを得ないというわれわれの運命、ヒューマン・フェイトについて考える必要があるのではないか。
 ヒューマン・フェイトとして考えられるべき傷が、人をして、誰かと一緒にいたいと感じさせるのではないかというのが私の仮説です。これは精神分析の知見にも依拠したものであって、ある意味ではそれを言い換えたものかもしれませんが、ヒューマン・ネイチャーとヒューマン・フェイトという対で考えることで見えてくるものがあると思って、こういうふうに僕は命名しているんですね。
國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』 p.163-166 國分発言)

 そのまま今日づけの記事もここまで書くと、時刻は17時だった。K.Kさんから修正後の作文がとどいた。

 第五食堂で打包。夕立が降り出す。往路はそうでもなかったが、帰路はなかなかの降りっぷりだった。傘からしたたる水滴に裸の腕が濡れるたびに、タイのスコールを思い出す。
 帰宅後、メシ喰うないや喰う。食後、20分の仮眠。夕立のおさまる気配がなかったので図書館行きはやめにしてチェンマイのシャワーを浴びる。「かんたん短歌」と「川柳」をまとめ、K.Kさんの原稿をいくらか直す。
 コーヒーを淹れている最中、ふと、S.Sさんのことを思い出した。(…)大学の院試後、具体的にだれであったのか彼女は言おうとしなかったしこちらも問い詰めはしなかったが、うちの教員が勝手に口利きした。実際のところはどうであったか知れないが、彼女は合格という結果をその口利きによるものと解しており、自分には(…)大学に進学する資格はないと泣いてこちらに連絡を寄越したわけだったが、あんなふうに不正に対してまっすぐな怒りを表明してみせる学生はこの社会では圧倒的に少数派で、たぶんおなじ状況に置かれた学生の大半はシンプルにそのような关系をよろこび受け入れると思う。授業中におこなう気晴らしのゲームひとつとってもハッキング的発想やチート的発想がたびたび散見されることに象徴的なこの社会にいきわたるその種の三观を、こちらはやはりいまだに受け入れがたく感じてしまうし反感をおぼえることも多々あるのだが、とはいえ日本社会もまちがいなく、ほぼ確実に、いま現在そういう方向に進んでいる。もしかしたらじぶんは「きれいごと」や「約束事」を尊重できる最後の世代なのかもしれない。それはつまり、「平和で豊かな日本」の最後の残り香をぎりぎり浴びることができた世代ということでもあるわけだが。
 書見。『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続きを読みすすめるつもりだったが、ページをひらいてほどなく二年生のR.Uくんから微信。作文コンクールの応募原稿のタイトルについて「(…)はこう言った」はどうかというもの。ニーチェみたいでかっこいいけど、ぼくのフルネームをそのままタイトルに用いるのはたぶんプライバシーの観点からもあまり良い印象をもたれないでしょうと応じる。だったら「変な先生はこう言った」はどうだろうという話になったが、そもそも審査員がそのタイトルを見て『ツァラトゥストラはこう言った』のパロディであると気づくとは思えないので、結局、「(…)」に落ち着くことになったわけだが(とはいえ、これ自体も「(…)」のパロディといえばそうであるのだが)、それはそれとして、一年生のS.Eくんに続いてR.Uくんまでニーチェを読んでいるのかと少々びっくりした。R.Uくんはこちらとの会話をきっかけに『ツァラトゥストラ』の中国語版を買ったという(きっかけとなったその会話内容をこちらはしかし思い出せない)。ノートをとりながら読んでいるのだが、一部わからないところがあるので解説してほしいというので、哲学書なんてわからないところがあって当然だ、一度で全部理解できるなんて不可能、一生かけて折に触れて読み返せばいいと応じた。先生がはじめて『ツァラトゥストラ』を読んだのはいつですかというので、大学に入学して本を読むようになってほどなくだったと思うと応じた。大学の生協で岩波文庫のやつを買って、Fから誕生日プレゼントにもらった無印のノートにやはりメモをとりながら読み進めたのだが、全然理解できなかった記憶がある。ただそれはまったくネガティヴな感想などではなく、ここには自分には全然理解できない世界があるという戸惑いとよろこびとなによりも興奮をもたらすものであり、結果的に、当時なんとなく習慣になりつつあった読書にブーストがかかったというか、少なくともいわゆる現代思想というものに興味をもつようになったきっかけの一冊となったことはまちがいないし、それでいえばFから誕生日プレゼントにもらった無印のノートはその後抜き書きノートになり、その抜き書きの習慣はデジタルに移行したいまもなおこうして続いているのだから、そうした観点から考えてみると、『ツァラトゥストラ』との出会いが一種のターニングポイントであったという、あまりにベタな物語化もいちおう可能といえば可能である。しかしR.Uくん、いつのまにか完全にこちらに転移している。こんなふうになるとは思ってもみなかった。一年半前に出会ったときはただのアニメ好き男子という印象しかなかったのに。
 葡萄と冷食の餃子を食す。寝床に移動後、A Prayer Journal(Flannery O’Connor)の続きを最後まで読みすすめて就寝。

I do not know You God because I am in the way. Please help me to push myself aside.

Hell seems a great deal more feasible to my weak mind than heaven. No doubt because hell is a more earthly-seeming thing. I can fancy the tortures of the damned but I cannot imagine the disembodied souls hanging in a crystal for all eternity praising God.

I think perhaps hope can only be realized by contrasting it with despair. And I am too lazy to despair.