20240528

ジャコメッティは一目でジャコメッティとわかるあの線だけで塗り込められた人物画を繰り返し描いたけれど、それまで描いてきた自分の絵を踏襲しようとして描いたわけではなく、そのつど描いた。ジャコメッティが世界と接する感覚(入力)やジャコメッティの手の動き(出力)があの人物画として毎回たまたま結実した。ジャコメッティという個体に起こった出来事として外から見ているかぎり不可避な出来事ということになってしまうのだが、仕上がりを事前に想定していたのではないので偶然なのだ。結局、偶然-必然という区別も意味がないということでもある。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.337)



 6時15分起床。トーストとコーヒー。外に出ると、日差しは照っているのだが空気がカラッとしており、肌をなでる風がさらさらとしていて、うわ! 秋やんけ! と思ってしまった。いや、まだ夏も本格的にはじまっていないのだが。教室に到着したあと、学生らに今日は湿度がとても低い、だからそれほど暑く感じない、気持ちいい、と語ったのだが、学生らのほうはあんまりぴんときていないようすだった。
 8時から二年生の日語基礎写作(二)。「かんたん短歌」。問題なし。教案のボリュームが少なめだったので、いつもより脱線多めにするつもりであらかじめいたのだが、授業中にものすごく小さなトンボが教室に入ってきて、エアコンのあたりでふわふわ飛んでいるのをその近くに座っていたR.IさんとC.KさんとE.Sさんがこわがっているふうだったので、両手でふわっと捕まえてから教室の外に出してやったのだが、またすぐに教室のなかにもどってこようとして、それを見た三人が、トンボもエアコンがほしいです! というのでちょっと笑ってしまったのだが、それはともかく、いいきっかけになったと思ったのでそこから長々と昆虫の話をした。内陸の田舎とはいえやはりみんな現代っ子らしく男子学生もふくめて昆虫はあまり好きではない、それどころか怖い! 気持ち悪い! というものだから、おめーらカッペがなにを都会人ぶっとんねん! と怒り心頭、中学生のときに教室にゴキブリがあらわれて女子学生らがきゃーきゃー悲鳴をあげまくっていたところ、素手でそいつをひっつかんで窓から投げ捨ててやったエピソードを紹介したら、みんなぎゃーぎゃー言いながら爆笑していた。中国でもやはりゴキブリは気持ち悪い生き物の代表格であるらしく、広東省のほうに行くと特にものすごくデカい種がいるという話だったが、じゃあ逆に東北は? 北海道みたいにゴキブリいないの? とたずねたところ、小さいのがいますという返事。
 授業後、R.Hくんが例によって教壇にやってくる。カタカナで書く「アレ」とはどういう意味ですかというので、文脈依存であると応じる。ほか、最近は関西弁を勉強しているとのことで、「なんでやねん」とはどういう意味ですかというので、R.Uくんが以前「ツッコミ」という単語を作文に書いて寄越したことがあったのを思い出し、R.Uくんが知っているのであればおそらくR.Hくんも知っているだろうと思い、標準語に直したら「なんでだ」「どうしてだ」という意味になるけど、ツッコミの定型文みたいなものだよと応じたところ、すぐに納得したようすだった——というより、あの反応から察するに、彼はもともとその意味合いを理解していたのだが、こちらに話しかけるためのきっかけ、一種のネタとして説明をもとめたにすぎないのではないか。

 K先生から日本語に関することで少しききたいことがあると朝連絡があったので廊下で合流。中庭を見下ろしながらまずはひととき立ち話をする。四年生のK.Kさんが結局こちらの追試を受けなかった件について、教員らとしてはどうにか彼女に卒業するチャンスを与えたいと考えているようだが、教務室のほうからこれ以上の譲歩はできないという反応があったという。ほぼ留年確定だろう。日本語学科としても、あるいは外国語学院としても、卒業できず留年する学生を輩出してしまったとなると、それだけで大学上層部からのおぼえが悪くなるので、どうにかしたいというあたまがあったようだが、これまで何度となくあたえてきたチャンスをことごとくみずからの手で棒にふってしまったK.Kさんに対して、これ以上なにをするというのかというのが教務室の考えなのだろう。もっともといえばもっともなわけだが、こちらとしては「成功学」とやらを売りにしているという例のマルチ商法の彼女が付き合っているという上司の男が、飴と鞭式のDV男にありがちな洗脳でもって彼女を卒業させまいとしているのではないか、卒業できなければ学歴がつかずほかの職場に転職する機会が減少するし(…)にひきつづきとどまらざるをえない、そうした袋小路に彼女を追い込もうとしているのではないかという勘が、むずむずむずむずさわいで仕方ない。卒業できないのはK.Kさんだけではなかった。K.Gさんもだという。K.Gさんは卒業写真の撮影にもたしかに来ていなかった。卒論は提出したらしいのだが、彼女は二年生のときに他学部から「転籍」してきた学生である、それゆえに一年生時の必修科目である基礎日本語の試験に卒業するまでにパスする必要があったのだが、4月の段階ですでにテスト範囲を彼女に知らせてあったにもかかわらず、まったく勉強せずテストにのぞみ、結果、採点の匙加減でごまかすことのまったくできない低い点数、20点台か30点台かそれくらいの点数をマークしてしまったらしい。一年生時の基礎日本語なんてそもそも四年生にとってはクソがつくほど簡単であるわけだが、こちらの記憶にあるかぎり、K.Gさんは日本語がまったくできない。K先生もそのことはわかっているからこそ事前にテスト範囲を相手に教えたわけであるし、テスト問題にしても通常よりはるかに簡単にし、出題範囲もせばめ、さらに採点をある程度恣意的におこなうことのできる作文問題を配置したわけであるが、そういう心遣いをことごとく無視する格好となったわけで、いやいやなにを考えとんねんとあたまを抱えたくなった。英語学科のほうにも同様の留年組が複数出たという。留年した場合は通常よりも高めの学費を払い込む必要があるらしいし、就職にあたってももちろん好印象は与えないだろうから(日本の大学では留年なんてありふれたものという感じがするが、中国ではかなりめずらしい)、うーんという感じ。もしかしたらメンタルを損ねてしまっているとかなにかしらの事情があったりするのかもしれないけど。
 教務室に移動する。S先生が先着しているので軽くあいさつする。K先生がバッグからとりだしたプリントに目を通す。「〜すると」「〜したら」「〜すれば」あたりの使い分けについて。めんどうくさいところだ。四択問題がずらりとならんでいる。K先生が選んだ選択肢がまちがいではないかどうかだけチェックしてほしいとのこと。ざっと目を通す。パーフェクト。さすがK先生だ。そのまままた雑談になだれこむ。卒業後、日本の大学院に進学することになっているT.Sさんについて、父親が院進に反対しているという話が出た。T.Sさんのところの両親は離婚しており、父親というのは再婚相手らしいのだが、その義理の父親が男尊女卑的な価値観のもちぬしなのだという。それで元妻とのあいだに設けた息子に対しては家を買い与えているいっぽうで、T.Sさんに対しては女がわざわざ海外の大学院に進学する必要なんてないと反対しているらしく、母親はそれに激怒、だったらもう離婚だ! というところまで話がこじれつつあるようで、T.Sさんはそのことにも心を痛めているらしい。難儀な話だ。中国でも東北のほうは男尊女卑的な傾向が比較的マシなんですがとK先生がいうので、たしかに東北出身の女子学生らは比較的自己肯定感が強くみえるというか、変に卑屈なところがなくて堂々としている子が多いなと思いもするわけだが(単純に長身の子が多いのでそういう印象を受けるだけかもしれないが!)、しかしそれでいえば、四年前に卒業したOさんのルームメイトであるC.Kさんは東北出身であるけれども両親ともにかなり男尊女卑的で、これは彼女から直接きいたのではなくOさんからきいた話であるけれども、ある日C.Kさんがお酒を飲んでかなり荒れた日があってわんわん泣き出した、それでルームメイトらがどうしたどうしたとたずねると、じぶんの両親はふたりそろって不倫をしている、そのせいで子どものときからずっとじぶんはしんどい思いをしてきた、さらに母親は(父親は? あるいは両親は?)酒を飲むたびに、うちが本当にほしかったのは男の子だ、女の子じゃない、どうしてあんたが産まれてきたんだとじぶんを罵倒する、それが本当に耐えられないと泣きじゃくりながら打ち明けて——ということがあったようですとK先生に話すと、K先生は顔をきつくしかめた。東北出身といえばいまK先生が担任をしている一年生2班のC.Eさんが今年の夏休みに日本に旅行するみたいですねというと、彼女の実家はかなり裕福だ、父親が自営業の商売をしている、彼女はこれまで中国の全省を旅行したことがある、大学入学後にかぎってもすでに江西省に二度ほど出かけているという返事があった。そのC.Eさんについて、最近はちょっと学習意欲が落ちているみたいですねと口にしてみると、同意の返事があって、これには正直ちょっとほっとした。K先生の授業はまじめに受けているいっぽうで、こちらの授業はつまらなさそうにしているというのであれば、正直、「そういうのはやめてくれ、そういうのにおれは傷つくんだ」と言いたくなるが、そうでないことに安心したのだ。あと、卒業生の親のなかには、無理して条件のよくない職場に就職することもない、メシぐらい食わせてやるからしばらくうちでゆっくりすればいいと鷹揚に構えているひとも少なからずいるわけだが、これについて、大学を卒業してまでブルーワーカーだのサービス業だのに従事するなんて馬鹿げているとする職業差別的なアレだけではなく、あくまでもK先生個人の意見であるという断り付きであったが、親のほうが子離れできていないという事情もあるのではないかという話があった。親と毎日のように電話で連絡をとりあっている大部分の学生らの習慣からしてもうなずける仮説だ。
 結局1コマ分ずっと教務室で雑談して過ごした。ベルが鳴るのと同時に教務室をあとにした。別れ際、M先生ほんとうに旅行しないですよねと言われたので、コロナでオンライン授業をしていた期間あったじゃないですか、あのときに実家で十年以上ひきこもりに近い生活をしていた弟からほんとうに外に出ないんだなと驚かれましたからね、ぼくはコーヒーと本さえあればあとはどうでもいいんです、(…)にいても北京にいても上海にいてもおなじですよと言った。
 Jで食パン三袋を、セブンイレブンでカレーとレモンティーを購入する。帰宅後、メシ喰うないや喰う。その後、一時間半ほど昼寝。覚めたあともなぜだか不思議にずっと眠くてしんどいあたまできのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返した。
 快递で七部丈のワイドパンツとコーヒー豆を回収するために外出。道中、二年生のR.Kさんとばったり遭遇する。日傘を差しながら図書館にむかう途中。快递でブツを回収したのち、第五食堂で閑古鳥の広州料理を打包。厨房のおばちゃんに言われてはじめて知ったのだが、どんぶりメシの上にのっける肉は一種類だけではなく二種類チョイスすることができるらしい! なんてこった! もっとはよ教えてくれ!
 メシ喰うないや喰う。チェンマイのシャワーを浴びる。K.Kさんの作文コンクール用原稿を最後まで詰めて彼女に送信し、明日の明日の授業で使用する資料をまとめる。K.Kさんから問題なしの返信がとどいたところで、全員分の原稿のフォーマットを調整してまとめて応募。これで今月最大のタスクが片付いた。やれやれ。
 トマトラーメンを炒めて食す。红枣のヨーグルトも食す。モーメンツをのぞいたところ、S.Sさんの彼女の、名前はなんだったけ? たしかOさんだったと思うがその彼女が日本のニュース番組の一部を投稿しており、なんだろと思ってのぞいてみたところ、日本留学中の学生らが和服の着付け体験をしている現場に対する取材で、ほかでもないS.Sさんの彼女が着物を着付けてもらいながら、なぜその色の着物を選んだのかという取材陣に対する質問に流暢な日本語で、自分の恋人がいちばん好きな色だからと返事しており、おー! となった。彼女のほうはどう考えているかわからないけれども、S.Sさんはたぶん将来的に日本に移住するんではないかと思う。中国にいても同性婚の可能な将来はまったく見込めないし、いやそれでいったら日本も相当アレであるけれども、ただそれでもいちおう一部ではパートナーシップ制度があるようであるし、そのことに彼女は以前関心を持っているとこちらに語ってみせたことがある。
 あと、ベッドに移動する前にニュースをチェックしていたところ、「火事でもラーメン食べ続ける客が…「ラーメン二郎」で火事も「火と煙の中で普通に営業」アブラに引火か?」という見出しが偶然目に入ってしまい、クソ笑ってしまった。ラーメン二郎は食ったことないし、食いたいとも思わないし、2ちゃんねるなんかで一時期アホみたいに流通しまくっていた二郎ネタみたいなやつもまったくおもしろいと思ったことがないのだが、このニュース記事の見出しにはマジで笑ったし、ニュースサイトに投稿されている写真や動画のキャプチャにもやはり笑った。ガンガン火の手があがって煙が充満している店内に「ラーメンを食べ続ける客」というテロップが付されているやつが非常におもしろく、いやこれおもしろいで片付けていいわけではない、ふつうに店側の手落ちであるわけだし客は客で正常性バイアスかかりすぎやろ、心理学の本にお手本として収録してもいいくらいの実例ちゃうかと思ってしまうわけだが、とはいえおもしろいものはおもしろいのでモーメンツに投稿しておいた。
 ベッドに移動後はThe Habit of Being(Flannery O’Connor)の続きを読んで就寝。