20240703

 ラカン精神分析理論では、意識・理性・言語の領域は「象徴的なもの」と呼ばれる。また、フロイトが他者と関わる「性」の領域として記述した領域は、「想像的なもの」(イマジナリーおよびイマジネール。本章ではコーネルを参照するので、イマジナリーの用語を使用する)と呼ばれる。「イマジナリー」は、人が自分が依存する他者との同一化の中で主体を形成し維持する構造をさす。イマジナリーは、過酷な現実の認識から主体を保護し、時間を稼いで主体を成長・変容させて現実に適応させ、象徴的な世界へと結合させるものである。が一方では、イマジナリーとは幻想ゆえ、現実との適応がうまくいかないと、現実を否認してしがみつく場としても機能する。それゆえ、イマジナリーは象徴的なものによって抑圧されコントロールされ、象徴的なものを支えていることは忘却されて「自然化」される危険性をもち合わせてきたのである。精神分析フェミニズムは、このように「自然化」されたイマジナリーを「非自然化」することに格闘(共闘)し、「イマジナリー」を文化や社会の条件として記述してきた。この点で、両者の理論は現在の学問の中での最前線の理論となっていると言えるだろう。
 ポストモダン社会では「象徴的なもの」が不安定化し、「イマジナリー」の領域に押し込められていた女性は自由を獲得しつつある。しかし、象徴的なものの揺らぎは現実との関係の不安定や不適応を導くこととなり、現実を否認するものとして「イマジナリー」の負の部分が突出する現象も起きている。その病理への批判は、女性とイマジナリーを同一視し両者を「自然化」して抑圧しようとするものとなりつつある。この反動的状況(バックラッシュ)を批判するために、フェミニズム精神分析理論を利用して、イマジナリーなものの両義性と文化や社会にとっての必要性を分析し提示する必要があるだろう。
樫村愛子『臨床社会学ならこう考える――生き延びるための理論と実践』より「第4章 ジェンダーと現代の精神分析」 123-124)



 10時起床。死ぬほどたくさん夢を見たけれどもそのすべてをよくおぼえていない。K先生から微信がとどいていた。第五食堂の一部が7日まで営業を延長するとのこと。通知原文に“烤鸭烧腊饭”の文字があったので、これおれがいつも食っとる閑古鳥の広州料理やんけ! とテンションがあがった。くだんの店と餃子の店の二軒だけが営業延長するらしい。
 スピーチコンテスト用のグループチャットでC.N先生が通知を送っていた。正式通知のPDFがとどいたので各自チェックするように、と。問題はすべて政治に関するものであるのかというC.Kさんの質問に対しては、“应该是的,这个是趋势,现在都是这样的。英语也是。”との返事。即興スピーチ用のテーマと作文のテーマについては、外国人のこちらには勝手のわからないところがあるので、ほかの先生らと学生らで相談して決めてほしいとお願いした。のちほど公式通知のPDFに目を通したのだが、問題については“《习近平谈治国理政》第一卷、第二卷、第三卷、第四卷和党的二十大报告等”から部分的に選出するとあり、いよいよ極まってきたなと死ぬほどげんなりした。テーマスピーチのテーマはすでに発表されているのだが、(…)というわけのわからんもんで、これにも閉口せざるをえない。右をみても愛国、左をみても愛国、前も後ろも頭上も足元も、ぜんぶぜんぶ愛国! 今年からコンテストのルールが変更になるわけだが、“阅读客观题、汉日笔译、写作”からなる“综合试卷”は10月19日実施。これはたぶんオンラインでやるというものだろう。で、“定题演讲和即兴演讲的比赛”は10月26日および27日の二日間とのこと。新学期がはじまるのが9月、新入生の授業がはじまるのが例年どおりであれば10月のはずで、となると10月の一ヶ月間が勝負になるのか。そこを乗り越えさえすれば、とりあえずひと息つくことができるはず。しかしこうなると夏休み中はどこにも出かけずうちにこもっていろいろ準備したほうがいいな(毎年そう言っている気がするが!)。ちなみにスピーチコンテストの開催校は(…)大学。(…)市にある。地図で確認したが、(…)からの距離でいえば去年おとずれた(…)とほぼ同じ。
 朝メシ食ったのち、12時から16時まで作文。「実弾(仮)」第六稿。シーン11、無事片付く。シーン12もいちおう通してチェックした。ほぼ問題なし。とはいえ、ここはかなり長いパートであるので、明日もう一度チェックしたい。しかしさすがに第六稿となると、思ったよりもサクサク進むものだ。第五稿でだいぶがんばったのかもしれない。作業BGMは『The Way Up』(Pat Metheny Group)と『All Melody』(Nils Frahm)。
 寮を出る。スーツケースをさげたロシア人のTとすれちがう。Welcome back! みたいなことを言われたので、あれ? おれがすでに日本に帰国してそれでもどってきたものとかんちがいしている? と思ったが、いやそうじゃないな、たぶんTのほうが一時帰国していたか出張していたかしたのだろう、それでただいまのつもりであやまってWelcome back! と口にしたのではないか。知らんわ。愛想悪いで適当に誤魔化して第五食堂へ。閑古鳥の広州料理を打包。ここのおばちゃんたちはこちらの顔を見るたびに厨房から老师! と声をかけてくれる。大好き。うちは七号まで営業しているよ! とわざわざ教えてくれたので、知ってる、今日通知があった、ありがとうと受ける。
 帰宅。メシ食いながら『寝ても覚めても』(濱口竜介)。原作を読んだのってもう何年前になるんだ? 10年以上前であることはまちがいない。冒頭の写真展覧会で双子(?)の姉妹写真がピックアップ、さらにおなじ写真作家による数年後の展覧会のタイトルが 「みるもの、みられるもの」で、これって原作にもあった要素だっけ? いずれにせよ、この作品の主要なテーマである分身がここですでに予告されているわけだ。「みるもの、みられるもの」の名にふさわしく切り返しのショットがすばらしい。序盤、エスカレーターにのった東出昌大の背中とその後ろについた唐田えりかの切り返しに、こんなエスカレーターの使い方があったのかとびっくりした(ちなみに、カメラに長らく背中だけをさらしたまま歩く東出昌大の姿は黒沢清作品の幽霊のような不気味さをたたえているが、これは確信的な演出だろう)。二度目の展示会における、展示作品→唐田えりかの切り返しもすばらしい。あと、瀬戸康史が舞台女優である山下リオの演技をけなすシーンで、友達から花束をもらったりわたしにはとても真似できないと誉めそやされたりすることを目的にやってんのかと問いつめる、それに対して唐田えりかがじぶんは実際に楽屋に花をもっていったし自分には真似できないと口にした、でもそれは本音の言葉だったと打ち明ける流れがあって、あ、ここはたぶんフックになっとんな、「分身」だの「みる/みられる」だのにかかわるもんやなとピンときた。つまり、「分身」と「みる/みられる」にかかわるテーマとしてここで「演技」があらたにあらわれたわけだが、さらにそこにたたみかけるかたちで、クリシェ/台詞/役柄とそれに対峙する本音/実存/役者みたいな構図が提出されているように思われたのだ。
 あと、東出昌大の関西弁に対する違和感がどうしてもほんの少しあるのだが、それがなんなのかじぶんには言語化できない。こちらが学生ら相手に使う標準語ももしかしたら標準語ネイティヴのひとがきいたらこんな感じなんかな、どことはいえないけれどもどこかに違和感があるそんなイントネーションだったりするのかなとも思った。それでいえば、きのう、Lと国際交流処のオフィスで話している最中、二年生らがこの夏過ごす日本の地方はdialectがあるからちょっと大変だと思うというこちらの言葉に対して、(…)老师のJapaneseにはdialectがあったけれどもあなたにはないという反応があり、あ、Lってそのレベルで日本語の聞き取りができるのかとちょっと驚いたのだった。
 仮眠。チェンマイのシャワーを浴び、きのづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。そのまま今日づけの記事もここまで書くと、時刻は22時だった。

 明後日のスピーチの練習で使用する資料を作成。夜食の餃子を食しながら『寝ても覚めても』(濱口竜介)の続き。東出昌大(亮平)が唐田えりかに告白するシーンで、前者が後者の頬に手をのばして触れる。そこでカットがいったん割られるのだが、その後に続くのが割られる前とまったく同じ構図おなじ角度の画であり(つまり、東出昌大唐田えりかの頬に手で触れている)、ただ先ほどよりも画面がほんの少しだけズームしている。ふつうに考えてここでカットを割るのは不自然であるのだが、これはおそらく東出昌大(麦)と唐田えりかの特権的な出会いのシーンでもまた前者が後者の頬に手をのばしていた、そこの反復であるということを(決してこれ見よがしにではなく)わずかにしるしづける操作であり、うわ、こんな上品なやりかたがあるのかとたまげた。
 その東出昌大(亮平)が唐田えりかスマホでメッセージが送るのだが、スマホの画面の表示されているのはLINEではない。ということはこれは震災以前の話なのかと思っていたところ、まさにその震災が劇中で発生した。こちらの記憶がたしかであれば『寝ても覚めても』の原作は震災以前に発表されていたはず——と書いたところで確認してみたところ、「2010年に雑誌『文藝』夏号に掲載され」たという記述がウィキにあったのでやっぱり間違いない。このあたりは脚本の濱口竜介田中幸子に手による変更だろう。劇場で落下したシャンデリアを正面にとらえた画はブレッソンみたいでかっこよかった。東出昌大(麦)と唐田えりかが付き合っていたのは震災よりもさらに数年前であるから、なるほど、だから東出昌大(麦)の髪型はひと昔前のものだったんだなと納得がいった。
 寝床に移動後、The Habit of Being(Flannery O’Connor)の続きを読みすすめて就寝。今学期中に読み終えるつもりだった『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)もまだ200ページか300ページ残っているが、帰国までに読む時間はたぶん残されていない。寮に置いていくか、持って帰るか、ちょっと悩む。