20240704

 性がなぜ社会の根幹にあるかといえば、それは、人間の性が、動物的なもので社会によってコントロールされなければならないものだからではなく、動物的な性的欲求を超えた可塑性をもち、他者との関わりを強くもって身体や主体の構成を支えるからである。フロイトが発見したように、性は、性器だけではなく(後天的に性器に特化される)、他者とものをやりとりする身体の開口部(ラカンにおいては目や耳などの感覚器官も含む)のすべての領域に存する現象である。
 すなわち人間の性は、原初的には、他者から与えられた快感であり、この刻印された快感を再現しようとするもので、生殖機能をもつ性器の性的欲求や人格的愛とは、後天的に結合して組織化されるのであり、生得的なものではなく本質の機能ではない。性はこの可塑性のゆえ現実の生物学的欲求(食べることや生殖等々)や社会的機能から自律している。またこの可塑性ゆえ、人間は快感原則や外傷といった生物的条件やこの条件と言語・社会との亀裂の構造のうえでこれを利用しながら後天的に言語を獲得していくのであり、性はこの点で主体や言語の確立の支えとなる。
 しかしここで、性を含めその母体となった「非主体」「非言語」「身体」という領域は、主体や言語が構造化されると、主体や言語の成立に関わりこれを支えてきたことは抑圧・忘却され「自然化」される。フェミニズム精神分析は、この「自然化」された「非主体」「非言語」「身体」を「脱自然化」してその組成や構造を提示しようとしてきた。フェミニズムにおいては、男性(=主体)ではないものとして排除された女性の領域が「非主体」「非言語」「身体」であり、精神分析においては、通常の主体のカテゴリーから外れた患者が「非主体」として存在するとき、彼らを通じて「非言語」「身体」における現象が「主体」「言語」と密接な関係をもち「主体」「言語」を支えることを発見してきたからである。この点にフェミニズム精神分析が現在、学問の最前線に立っている理由があるだろう。
樫村愛子『臨床社会学ならこう考える――生き延びるための理論と実践』より「第4章 ジェンダーと現代の精神分析」 125-126)



 10時過ぎ起床。C.Kさんからグループチャット経由で明日は何時から練習ですかという質問がとどく。ちょうどそのことを相談しようと思っていたところだったので、こちらと学生四人からなる別のグループをその場で作成、そこで予定について話し合った。C.N先生によれば、午前は8時30分から11時30分まで、午後は14時30分から17時30分までというのが基本的な時間割らしかったが、自分たちの都合のいい時間帯にずらすことは可能であるとのこと。明日の練習に参加できるのはC.KさんとR.Sさんのふたりだけ。ふたりとも上の時間割のままで問題なしとのこと。S.Sくんは9日の午後から練習に合流できるという。大連にもどったK.Kさんについては、もうすこし時間を置いてから、これこれこういう課題をしてくださいと連絡してみるつもり。
 12時半から16時半まで作文。「実弾」第六稿。シーン12を昨日にひきつづきチェックする。問題なし。シーン13も途中まで進める。難所に時間をとられすぎた感あり。もっとサクサク進めたい。作業BGMは『Kyle Bobby Dunn and the Infinite Sadness』(Kyle Bobby Dunn)と『Replica』(Oneohtrix Point Never)と『R Plus Seven (Bonus Track Version)』(Oneohtrix Point Never)。
 外出。今日は完全な夏日。最高気温は37度。予報によると今後一週間、最高気温が35度を下回る日は一日もない。降りに降った雨もようやくあがったらしい。こちらが空港をおとずれる日までにはあふれにあふれた(…)の水も引くだろう。キャンパスにはまだ思っていたよりも学生の姿があった。もちろんキャリーケースをガラガラ引いている姿も目立つ。Jで食パンを三袋買う。第五食堂で閑古鳥の広州料理を打包する。うまいことはうまいのだが、こればかり毎日食っていたらあきらかに野菜不足だ。
 メシ食いながら『寝ても覚めても』(濱口竜介)を最後まで。原作よりもさらにホラーテイストが増している。 東出昌大(麦)の「あっち側に出ちゃった感」はすごいし、その表象の仕方はやっぱりあきらかに黒沢清の影響を受けていると思う(唐田えりかを迎えにきたあと、地下駐車場を移動しながら手持ちのスマホをきわめて即物的に地面にたたきつけるときの、あの非人間的な身ぶり!)。きのうづけの記事に、唐田えりかを正面からとらえたカットがことごとくよかったと書いたが、後半も同様で、東出昌大(麦)があらわれる前に仲間たちとレストランで食事をとっている最中にさしはさまれる正面からのカットも、その東出昌大(麦)と別れたあとに堤防から海をながめる正面からのカットも、やはり非常に印象的ですばらしく、そしてそうであるからこそ、東出昌大(亮平)とベランダでならんでたつようすを正面からとらえたカットが最後に置かれるそのことの重みがぐっときわだつ。原作の内容をすっかり忘れてしまったので、一時帰国中にちょっと再読してたしかめてみたいことがいろいろにあるのだが、映画では震災が非常にシンボリックに扱われている。唐田えりか東出昌大(亮平)が正式に(?)むすばれたのは震災当日であるし、ふたりはその後定期的に東北のボランティアに参加していることが描かれる(さらにその動機として唐田えりかが「正しいことをしたかった」というような、かなり意味深なセリフを口にしもする)。そして東出昌大(麦)と再会して一度は彼と駆け落ちしかけた唐田えりかが、やはりそのそばを離れることにしたと話すその場面の直前で、東出昌大(麦)は仙台の海をはじめて見たことを語る。もっとも凡庸で教科書的な理解をするのであれば、ここで唐田えりかは、過去五年間にわたり交際してきた東出昌大(亮平)の重みを、仙台の海をそれまで見たことがない(ボランティアに参加したことがない)と口にする東出昌大(麦)のセリフをきっかけに認識し、それまで麦の代役でしかなかった亮平を亮平として見る。ここには当然、きのうづけの記事でも触れた、「芝居」「役者」といったテーマが共鳴するし、東出昌大(亮平)のところにもどった唐田えりかが言葉の上ではあくまでも「クリシェ」でしかない謝罪や愛の言葉しか口にすることができず、それを信じることができないと言明しつつも彼女を結局迎え入れる東出昌大(亮平)の言葉と行動の乖離(「演技」)も含めて、複数のテーマが細く薄くはりめぐらされているのを感じる。あと、逃げ去る東出昌大(亮平)のあとを追う唐田えりかそのふたりの姿をキアロスタミみたいな超遠景で撮ったカットがあったけれども、画面奥にむけて両者ともに白い上着を着ているので目立つ豆粒のような姿が去っていくそのあとを追うように、日陰と日向の境界線もまたずっと移動していくようすがおさめられており、これCGじゃなかったら奇跡的というほかない完璧な画だなと思った。

 チェンマイのシャワーを浴び、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返し、今日づけの記事も途中まで書き、明日のスピーチ練習で使用する資料を印刷し、懸垂し、インスタントラーメンを食し、The Habit of Being(Flannery O’Connor)の続きを読みすすめて就寝。