フロイトは、幻想とは誤りであるとして捨て去られるようなものではないとし、幻想の重要性を指摘している。フロイトは現実原則自体快楽原則(幻想)の上に成立しその迂回でしかないとしていた。現実原則は常に快楽原則とその幻想の対象に橋渡しされながら獲得されるものである。幻想は現実の受容のために必要なものである。しかしウィニコットは快楽原則から現実原則への移行を十分に理論化しようとし、幻想と現実の出会う場所にオリジナルな移行空間の議論を展開した。ウィニコットはフロイトの糸巻の議論に示唆を受けながら、移行対象における対象の二重性を記述する。移行対象は幻想の対象であると同時に外界の現実に属する二重性をもつ。幻想とその対象は外界の現実を受容するための媒介物であり、子どもは最終的に幻想を脱して現実を受容していく。おしゃぶりやぼろきれが母および母の不在の代理物になりさらには「母」という言語や外界の具体的対象に代替されていくように。象徴的なゲームについての議論においてピアジェとウィニコットは近いが、ピアジェによってのそれは大人の世界の夢へと移し代えられるのに対し、ウィニコットにとってそれは人間の経験的存在の基礎である。人間は客観的に認知されたものと主観的に認められたものの二重性を生きており、常に外界の現実は人間によって容易なものではなく、現実を受容することは終わりのない課題である。どのような人間にとっても外界の現実と内界の現実の間の緊張を取り除く必要が存在し、それは外界の現実を受容していくための幻想と脱幻想をくり返す過程である(Winnicott 1969)。
(樫村愛子『臨床社会学ならこう考える――生き延びるための理論と実践』より「第10章 教育の心理学化」 291-292)
10時過ぎ起床。食料は切らしているし、食ったところで肛門に痛みを感じながら下痢を垂れ流すことになるだけなのはあきらかなので、今日もまた一日の前半は絶食系男子として過ごすことに。水で薄めたポカリスエットだけ飲む。ときどき屁が出るのだが、猛烈に臭い。子どものとき、だれかが臭い屁をこくたびに、あんた腸腐っとんかん? というのがおきまりのフレーズとして家庭内で口にされていたことをふと思いだした。ワシの腸はいままちがいなく腐っとる。
今日から通常どおりに過ごすことにする。しかるがゆえにまずおとついづけの記事の続きを書いて投稿。たてつづけにきのうづけの記事も一気呵成に書いて投稿した。書き忘れていたが、昨日の昼間、高铁のチケットも(…)のホテルも予約日を変更した。前者は多少変更手数料がかかった。夜には京都のカプセルホテルもいろいろに検索してみたのだったが、以前一度宿泊したことのある店がなくなっているようだった。ざっと検索してみた感じ、カプセルホテルとビジネスホテルではさほど値段がかわらないようだったので、トコジラミリスクはおそらく前者のほうが高いだろうし、駅近くのビジネスホテルで一泊したほうがいいかもしれない。あるいはEさん宅を頼るか?
ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事をまとめて読みかえす。以下、2022年7月15日づけの記事初出。
質料すなわち物質や身体の側が要するにディオニュソス的でヤバいものであり、それを形相すなわちカタが抑えつけている。
ニーチェのこうした図式は、ショーペンハウアー(一七八八〜一八六〇)の影響を受けています。ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』(一八一九)において、世界が秩序立った「表象」として見えている一方で、世界とは本当はひたすら邁進していく「盲目的な意志」であり——自然の運動もすべて「意志」だと呼ぶのが特徴的です——、我々はそれに振り回されるという議論を展開しています。そのどうにもできない力に対して、人間が向かうべき「涅槃」、「無」の思想が語られることになる(ショーペンハウアーはヨーロッパで初の、本格的に仏教思想を念頭に置いた哲学者でした)。
ショーペンハウアーの思想は初めは理解されなかったのですが、晩年に再評価が起こり、ワーグナーやニーチェにも影響を与えました。この普遍的な意志概念、しかも「何かをしたい」という目的的なものではない、ただの力、非合理的な意志というものをはっきり概念化したのがショーペンハウアーのすごいところで、ニーチェのディオニュソス的なものも、あるいはフロイトにおける無意識の概念もその影響下にあるのです。
(千葉雅也『現代思想入門』)ここを抜書きしていてふと思ったのだが、そもそも合目的な神の意志という観念をデフォルトで持ち合わせていない日本人が西洋哲学を理解するためには、まずヨーロッパにおける「目的的」な意志にもとづく世界観(キリスト教およびヘーゲル)をインストールした上で、いわゆる「現代思想」以降その解体がはじまったことを理解する(先にインストールしたものをアンインストールする)という二重の手間が必要になる。この事実をもって、東洋は西洋のような回りくどい理路を経過することなく、そもそものはじめからここにいたのだと主張する手合もいるかもしれないが、それはしかし端的に愚かなふるまいだろう。はじめからそこにいたのであれば、その「はじめ」を説明する言葉を持つことはできないからだ。これは日本語ネイティブが日本語を自由に操ることができるからといって(むしろそれだからこそ)、日本語の文法を自由に説明することなどできないという現象と同じ構図だ。われわれはわれわれの位置を言語化するためには、その位置を一度離れる必要がある。
2021年7月15日づけの記事にはその一年前、すなわち、2020年7月15日づけの記事からけっこう長々と文章が引かれている。象徴的父と〈父の名〉の違いについて、「簡単にいえば、象徴的父とは、主体から〈母〉(千葉雅也の用語でいえば「親1」)を引き離すさまざまな事情のことで、〈父の名〉とはそのような事情の抽象的総体およびその受容(内面化)のことだ。さらに単純化していえば、象徴的父とは「(現実を)思い通りにさせてくれない諸事情」であり、〈父の名〉とは、「(現実が)思い通りにならないことを知ること」だといえるだろう」と簡潔にまとめた文章に続けて、コンタルド・カリガリス『妄想はなぜ必要か——ラカン派の精神病臨床』に記載されている症例を解説する片岡一竹の文章を引いたあと、「「自分」という投錨点が作用している」ということは、換言すれば、主体に自己同一性(首尾一貫性)が(ある程度強く)与えられている状態のことだろう。つまり、主体に(強い)自己同一性(首尾一貫性)を与える/強化するのも、〈父の名〉の効果であるということだ。千葉雅也のタームを借りていえば、接続過剰性を生きる主体は、そのような自己同一性(首尾一貫性)が安定していない。なぜなら、そのような主体は常に何かに接続し、過度に生成変化をくりかえしてしまうからだ(精神分析的にいえば、「想像的同一化」の作業をはてしなくくりかえしてしまう)。(…)その効果としてある過度の生成変化を抑止し、主体にある輪郭を与えることになる有限性、主体を接続過剰なその平面から切り抜く切断性こそが、〈父の名〉である。〈父の名〉がもたらす「諦め」とは、このような有限性や切断性のことである——そういうふうに総括することもできるかもしれない」と書いており、なるほど、そうすると主体というのは、換言すれば「諦め」や「断念」のかたちということになる。そしてこの観点は、カフカの小説のおもしろさをその個性的な失敗のかたちにあるものとみなすこちらのカフカ観(「カフカの作品の大半は失敗作である。ただし、それらの作品は彼以外のいかなる書き手も達成したことのないかたちで失敗している。その失敗のかたちに、カフカをカフカたらしめるものがある。彼の天才は、彼以前にはだれも目にしたことのない失敗のかたちをあみだしたという一点にある。」)にも通ずる。
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今日づけの記事をここまで書くと、時刻は14時だった。R.SさんとS.Sくんの原稿をひとつずつ添削して録音した。腹が減ったのでトーストを一枚だけ食った。食後、下痢に見舞われることはなかった。
きのうKindleでポチった『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』(リチャード・ロイド・パリー/濱野大道・訳)を読みはじめた。「実弾(仮)」の資料にはおそらくならないだろうが、それでもいちおうという感じ。無料公開されている部分がおもしろかったというのもある。途中、30分ほど居眠り。
17時になったところでひさびさに外出。家を出る直前、フライトアプリから通知がとどいた。全世界でフライトキャンセルが相次いでいるみたいな警告だった。起き抜けに世界中でWindowsがバグってトラブル頻出みたいなニュースを斜め読みした記憶があるので、たぶんそれだろうなと思った。ある意味このタイミングでフライト変更したのはラッキーだったのかもしれんと思ったが、中国の空港および航空会社はあまり影響を受けていないようだった。国策としてWindowsを使っていないのかもしれない。のちほどあらためて調べてみたところ、クラウドストライクというクラウド・ストライフみたいな名前の企業が提供しているセキュリティソフトのアップデートがバグの引き金になった模様。外はあいかわらずクソ暑い。週間予報をチェックしたのだが、今日から一週間、最高気温が38度を下回る日がない。外出はひさしぶりであるし、暑いし、それにここ数日メシをろくに食っていないからだろう、ケッタに乗っていてもあたまがふわふわとして体が変に軽く、フライト変更してよかった、仮に今日大荷物で(…)まで移動していたら途中で倒れていたかもしれないと思った。南門までの距離がやたらと遠く感じられる。Jで食パンを三袋と飲むヨーグルトを買った。そろそろメシも食べたほうがいいと思ったのでセブンイレブンでおにぎりふたつも購入。さらに第三食堂にたちよって、ミネラルウォーターを二本とポカリスエット的な飲料を一本購入。
帰路、第四食堂前でJとAとばったり遭遇。Lを散歩させているところだった。食中毒になったよと伝える。ずっと下痢が続いているというと、Jは食中毒はおそろしい、じぶんはvomitすることができないから、もし食中毒になったら命にかかわるのだみたいなことをいった。vomitすることができない? とたずねかえすと、のどのあたりに手をあててなにやら説明した。病気か、あるいは手術したためか、それとも先天性のなにかしらのせいか、どうやら食道のあたりになにやら問題を抱えているらしく、そのせいで物理的に(?)嘔吐することができない、あるいは気管に詰まりやすい、そういう困難があるようだった。そういえば、あれはもう二年くらい前になるのか、J宅で夕飯を呼ばれた際、むかしなんでもかんでも吐いてしまう癖があってそれで精神科を受診したみたいな話をきいたおぼえがあるが、それに関係する後遺症みたいなものなのかもしれない。いつEnglandにもどるのかとたずねると、この夏休み中はAとCのビザの関係でむずかしい、おそらく11月ごろになるだろうという返事があった。Lはそのあいだにanimal hotelにあずけるとのこと。ついでにそこのトレーナーにしつけをしてもらう予定だという。Lは食べものの好き嫌いが激しい、そこのところをどうにかしてもらいたい、じぶんたちはちょっと彼に対して甘すぎた、と。
食中毒の心当たりについてたずねられたとき、学生らと万达でsea foodを食べた、そのなかのshrimpが原因かもしれない、というのもじぶんはshrimpのあたまも丸ごと食べてしまったのだが、そういう食べ方は本来新鮮なものでしか許されないものだから——と説明する途中、新鮮を英語でなんといえばいいのかド忘れしてしまい、中国語の新鲜ばかりあたまに浮かんできて参った。帰宅してなお思い出せなかったので、ググったところ、freshと出てきて、うわ! 中一レベルやんけ! と笑ってしまった。
おにぎりをふたつ食う。下痢、到来せず。『象は静かに座っている』(フー・ボー)を最後まで観る。すばらしかった。映画のスタイル的に、全編BGMなしの無音でもまったく問題ないだろうし、むしろそのほうがある意味安易にそれっぽい雰囲気を醸成することができるだろうに、そこにあえて花伦の音源を挿入する、そのタイミングがどれもこれもすばらしい。この手の作品の場合、BGMを用いるという選択肢は冒険になるだろうに、その冒険を難なく成功させている。
ビー・ガンは荒々しく、過激で、いかにも若かった。それにくらべると、フー・ボーのほうはずっと洗練されている。ワンシーンワンカットの造りは非常に凝っていてすばらしく、タル・ベーラみたいに方向転換するカメラの動きに「おおっ!」と思う瞬間も幾度もあったが、荒々しさみたいなものはない。どちらもすばらしい作家であるとは思うが、たぶん、なにかを突破する力というものをもっているのはビー・ガンのほうなのだろう。しかし「実弾(仮)」という作品にここ数年かかりきりのこちらはやはりフー・ボーのほうに共感をおぼえた。「実弾(仮)」の元ネタである『青の稲妻』(ジャ・ジャンクー)とおなじく、『象は静かに座っている』には中国の閉塞的な地方を生きる若者が登場する。『凱里ブルース』の舞台になっている田舎はいわば画になる田舎であり(だからこそマジック・リアリズム的なものが成立する)、ある種のひとびとにそこに行ってみたいと思わせるだけの魅力をたたえている空間であるが、『青の稲妻』や『象は静かに座っている』の田舎はそういうものではない。それは画にならず、命名されず、ほかと区別されうるしるしすらもたない、「なりそこねた都市」のようなものだ(日本の場合、「ファスト風土」という命名によって、ようやくそうした空間に光があてられたと思うが)。そうした地方の閉塞的などん詰まり感というものが、やはりこちらの実存には刺さってしまう、じぶんの分身がここにいると訴えかけてくるものがある。
基本的にワンシーンワンカットであるのだが、高校生のブーが柵越しにジジイと罵り合うシーンだけはなぜか途中でカットが割られていた。それも本来地続きのシーンの一部をまるでスキップさせたみたいな割り方だったので、あれ? ここなんかトラブルがあったのかな? と思った。ブーがその後駅前をぶらぶらするシーンでも同じような仕方でカットの割られている箇所があったが、こちらは一目で狙ってやったとわかるものだった。持続するワンシーンの中抜き(スキップ)を細かくくりかえすことで時間の経過をあらわす技法。これ、古い映画ではあまり見かけないのだけど、最初にやったのはだれなのだろう。こちらがはじめて把握したのはたぶんオリヴィエ・アサヤスかアルノー・デプレシャンだったと思うのだけど。
あと、外卖が字幕では「テイクアウト」と訳されていた。これ、むずかしいよなと思う。システムとしては「テイクアウト」ではなく「出前」であるのだが、日本語の「出前」につきまとう昭和っぽい古いイメージと現代中国で使われる外卖という単語には微妙にずれがある気がする。いちおう学生に訳語を教えるときには「出前」と伝えているのだけど、でも「出前」って日本語としてつい最近までほぼ死語だったもんなァと思うというか、幸いにも(?)コロナがきっかけとなって日本でもウーバーイーツみたいなサービスが一般化したし、「出前館」なんて名前のアレまではじまったわけだからもしかしたらいま日本人のあいだで「出前」という言葉はふたたび一般化したのかもしれない。でも日本でいまあの手のサービスを利用するときってどんな言い回しを使うんだろう? 「ウーバーとる」みたいな感じなのかな? あるいは「出前とる」とかふつうに言うのか? と、こんなふうに書いているいま、じぶんが長らく外国で生活している人間であることをはじめて実感した。
『象は静かに座っている』は『凱里ブルース』とちがって単語がかなりききとりやすかったし、街並みから察してたぶん東北のほうなんだろうなと思っていたが、最後のほうで「石家庄北站」という看板の出ている駅が映ったので、あ、河北省なんかとなった。北京にも近いし、だから訛りもほとんどないのだろう。ちなみに作中で特権的な地名としてあつかわれている満州里は内モンゴル自治区。
チェンマイのシャワーを浴びる。微妙に頭痛のきざしを感じたのでコーヒーをいれる。ちびちび飲みながら『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』(リチャード・ロイド・パリー/濱野大道・訳)の続き。さらにトーストを食し、飲むヨーグルトも飲んだ。するとさすがに腹痛に見舞われた。細かく描写するのもアレだが、昨日までとちがってかろうじてかたちをなしているといえなくもないクソが出た。つまり、完全液状のものではようやくなくなった。三日か四日かけてやっとここまできた。今日は小便も一度か二度はしている。小便が出るのは下痢がおさまってきた証拠らしい。