20241224

  • 10時から二年生1班の日語会話(三)。期末テストその2。これで二年生の授業はすべて終わった。残るは一年生のみ。
  • S.Bさん。「思い出の写真」。旅行先の広東省にある海辺で撮影したもの。浜辺に立って両手を横にひろげている彼女の後ろ姿を写した一枚。観光地にいたカメラマンにたのんで10元で撮影してもらったという。労働節に姉といっしょにおとずれた旅行先だったが、姉は社会人であるために二日間しか休みをとることができなかった。それゆえに連休の残りをひとりで旅行したのだが、ひとりで飛行機に乗るのも観光地をおとずれるのもホテルに宿泊するのもすべてはじめての体験だった。だから最初はとても不安だったし緊張もしたが、結果的にとても印象深い経験になったという。「わたしの秘密」。親友とおたがいの変顔を送りあう習慣がある。しかしある日スマホの操作をあやまってしまい、変顔写真を男友達に送りつけてしまった。あまりにはずかしくあまりに気まずいために、どうしたのというむこうからの返事にたいしていまだに返信することができないでいる。ちなみにその男友達というのはクラスメイトですというので、だれ? とたずねると、それは秘密だという。なんとなくだが、おなじ江西省出身のS.Eくんなんじゃないかと思ってそう口にしてみたところ、ビンゴだった。
  • S.Gくん。「今学期、いちばん面白かった出来事」。先日听力の試験があったのだが、よりによってペンを持っていくのを忘れた。周囲の学生もみんな予備のペンを持っていない。それでとなりの席にいたK.Iくんのペンをシェアする格好で試験を受けたという。「思い出の写真」は今学期プレイした「ギャルゲー」の写真。「エロゲー」ではないという。タイトルは『星空鉄道とシロの旅』。ものすごく感動したという。ストーリーもいろいろにがんばって説明しようとしてくれたが、さすがに理解するのがちょっとむずかしかった。
  • K.Iくん。国慶節に(…)の漫展に参加した。好きな女性コスプレイヤーがいたので、写真を撮ってもらおうと思った。彼女との距離がやや離れていたので、小走りで近づいていったところ、途中でサンダルが脱げ落ちてしまって赤っ恥を掻いた(当日は夏のように暑かったらしい)。「思い出の写真」は高校生のときに屋上から撮った夕暮れの写真。雲のかたち、光線のちらばりかた、真っ黒なシルエットになっている建物、そういうすべてがちょっと天国を想起させるという。ちなみに最近ハマっているアニメは『ダンダダン』であるとのこと。
  • K.Kくん。「今学期、いちばん面白かった出来事」。四年生のルームメイトといっしょにジョギングに出かけた。途中でルームメイトの彼が電話をはじめた。電話の内容を聞かれたくないだろうと考えて、すこし離れたところに移動し、電話が終わるのを待っていた。通話を終えたルームメイトはしかし、離れたところで待っている彼に気づかず、そのまま寮に帰ってしまった。「思い出の写真」は高考の二日前に撮影した試験会場の学校のようす。
  • R.Gくん。「今学期、いちばん面白かった出来事」。淘宝で箱を買ったのだが大きすぎたという話。まったく理解できなかったので、中国語で意思疎通をこころみたところ、私物を入れておくための収納ケースのようなものを買ったのだが、肝心のそのケース自体が大きすぎて逆に邪魔になったみたいな話だった。「わたしの秘密」は、中学生のときだったか高校生のときだったか、学妹のことが好きだったが結局告白できなかったというエピソード。R.GくんはこのクラスでK.Sくんとならぶワーストラインであるので試験ははやめに切りあげた。
  • S.Iくん。「他人の悪口」。対象は外国語学院。今学期、学生から外国語学院の悪口を聞くのはこれで何度目だろうとついつい笑ってしまうわけだが、衝撃のエピソードが飛び出した。来学期以降、基礎日本語の授業をのぞいて、二年生の1班と2班は合同で授業を受けるようになるのだという。え? 嘘? マジ!? とびっくり仰天すると、S.IくんはS.Iくんで逆に、え! 先生知らない!? とびっくりしていた。来学期こちらは当然二年生の会話と写作を担当するわけだが、1班と2班合計で学生数は40人ちょっとか、写作のほうは別に問題なくさばくことができると思うのだが、会話についてはどうすればいいのだろう? というか授業数にしても、一年生の会話、二年生の会話と写作、それからおそらく三年生の閲読か日本文学か読解系の授業をひとつ担当することになるのが例年の感じであるのだが、これだけだと四つきりになってしまうわけで、するとまた国際交流処のほうからなんやかんや言われることになるのでは? となるとこれまで担当したことのない授業を追加でひとつ担当することになるかもしれないし、その準備にまたあくせくしなければならないかもしれない。このあたりはちかぢか主任のC.N先生に確認してみる必要がある。S.Iくんは2班の学生と合同で授業を受けたくないといった。クラスのみんなもそう思っているという。アンケートまでとったのに(そしてみんな2班との合流に反対したのに)、ふたをあけてみれば結局、外国語学院の勝手な都合でクラス合流という話がトントン拍子に進んでしまった。それで腹が立っているというのだった。こちらとしてはしかし、1班の学生に2班の雰囲気を味わってほしいというあたまも多少もある。S.Iくん曰く、1班と2班の学生間の交流はほとんどないらしい。だからきっと1班の学生の大半は、2班の学生らが授業中にかもしだすあの活気——それは別段特別なものではなく、たとえば現三年生や現一年生の授業でも同様であり、イレギュラーであるのはむしろ1班の異様にしずかすぎる空気のほうであるのだが——のなかに身を置いたらびっくりするはず。
  • C.Iくん。「思い出の写真」。万达の広場で開催されていたロシアの物産展の写真。中国の国旗とロシアの国旗があちこちに飾りつけされている。物産展にはひとりでおとずれたらしい。「今学期、いちばんおもしろかった出来事」は、故郷で巨大な雪だるまをこしらえて橋の上から落としたこと。動画も見せてもらったが、そもそも今学期の話ではない。ちなみに故郷はH市。全体的に準備不足が目立った。
  • S.Hくん。元出禁学生その一。会話は三分の二が中国語。「他人の悪口」は外国語学院について。先日実施された監査で专家に良い印象をあたえるべく、辅导员であるS先生の発案で、週末にもかかわらず朝8時にグラウンドに集合、ジョギングをしたり綱引きをさせられたりした、と。S先生は「最美辅导员」の肩書きがほしいだけだ、それで形式主义きわまりないあれこれを学生に押しつける。「思い出の写真」は姉とその娘といっしょに武漢旅行をしたときのもの。国慶節におとずれたという。メシがかなりうまかったとのこと。
  • S.Eくん。「今学期、いちばん面白かったできごと」はFPSゲームをプレイしていたときのこと。日本サーバーでプレイしていたので、プレイヤーたちはみんな日本人。卒業生のG.Kくんといっしょにプレイしていたのだが(ふたりが友人であることをこちらははじめて知った!)、ふだんはほかのプレイヤーと日本語で意思疎通をとるいっぽうで、G.Kくんとは中国語でついつい話してしまう。それでほかの日本人プレイヤーから中国人なのかとたずねられたので、中国語のちょっとだけできる日本人だと身分を偽り、汚い中国語をちょっとだけ教えた。ゲーム中よく飛び交う日本語に「ナイス」があるが、その「ナイス」を中国語では「我是傻逼(わたしはバカだ)」というのだと伝えたらしい。それが冗談半分のふるまいで、あれは嘘だよとのちほどプレイヤーたちにネタバラシしたのであれば、かわいげのある話であるのだが、そういうフォローはまったくなく、ほかの日本人プレイヤーがならいおぼえたばかりの「我是傻逼」を口にしているのをG.Kくんといっしょになって小馬鹿にして笑っているだけというのであれば、それはさすがに趣味が悪いし、その話をこちらに嬉々としてしてみせるのもちょっとアレじゃないという感じである。「思い出の写真」は夜の橋を渡るバスを撮影したもの。愛機のデジカメでいつものように風景をいろいろに撮影していたのだが、寮にもどってから撮影した写真を確認してみたところ、バスのそばを走っているバイクの運転手がカメラにむけてピースしていることに気づき、それで写真の雰囲気が一気にユーモラスになったという。
  • K.Sくん。元出禁学生その二。試験準備はゼロ。ひとこともしゃべれない、というかそもそも試験のテーマすら今日はじめて知ったようす。合格にはしてやると告げてそのまま帰す。
  • 荷物をかたづけはじめたところで三年生のO.Gさんが教室に入ってくる。それで思い出した。「転籍」組の彼女は一年生のときに本来受けるべき必修科目であるところの日語会話(一)をまだ受けていない、それで今学期履修する必要があるのだが、履修といっても授業に出席する義務はなくただ期末試験さえ受ければ問題ない、それでその期末試験の日程は今日のこの時間にしようとふたりで以前決めたのだった。急遽簡単なテストをおこなうことに。カレンダーを見せて、日付と曜日の読み方を確認するだけ。O.Gさん、火曜日を「ひようび」と読み、月曜日を「つきようび」と読むという、とんでもないやらかし。決して能力の低い子ではないのだが、基本的に勉強が嫌いであり、日本語はすべてアニメもしくはゲームから吸収しているタイプであるので、ものすごくベーシックなところが抜けているのだ。
  • そのままふたりそろって外国語学院をあとにする。セブンイレブンにむかうというこちらに同行するというのでいっしょに店をおとずれる。入り口の自動ドアにクリスマスケーキの写真がはってあり、ああそうか、今日は平安夜(クリスマスイヴ)なんだなとなる。O.Gさん、あいかわらずうつっぽい雰囲気がないこともないので、体調はどうなのか? ちょっと具合が悪そうにみえるのだが? と遠回しにたずねてみたところ、きのうからずっと頭痛が続いているという。セブンイレブンではおにぎりをひとつだけ買おうとしていたので、それくらいだったらもうおごってあげるよと商品を奪った。今年の夏のインターンシップに参加できなかったO.Gさんであるが、来年の夏こそ参加するつもりだという。今年参加できなかったのは彼女のメンタルヘルスチェックのスコアがすこぶる低く、それで大学側なのか派遣会社側なのかわからないがいずれにせよこれはダメだと判断したという事情があるのだが、その事情を当人である彼女自身は知らない。だから来年もまた申し込みをするつもりでいるのだが、例のスコアは記録されたままであるのだから、結局なにかしらの理由をつけて流れてしまうのではないか? それともメンタルヘルスチェックをもう一度なにかしらのかたちで受けるのだろうか?
  • 午後は(…)学院で一年生の日語会話(一)。2コマ(四节)連続。当初の予定では、K.Sくん、S.Hくん、K.Sくん、S.Sくん、K.Kくん、B.Kくん、S.Sくん、S.Iくん、S.Kくん、R.Kくん、S.Kくん、S.Hくん、C.Kくん、S.Kくん、K.Mくん、S.Sくん、S.Hくん、R.Tくん、R.Sくん、R.Hくんが受けるはずだったのだが、昨夜突然学生会のほうから今日の午後会議に出席するようにという命令が下されたらしく、S.Kくん、K.Mくん、S.Sくん、R.Sくん、R.Hくんはキャンセル。試験内容は曜日と日付の読み方に関するものが20問、それにくわえて教科書にのっている短い文章の音読で、音読用の文章はあらかじめ二種類をこちらが指定、それぞれ三度ずつ音読してもらう(一度目はふつうに読んでもらう、二度目は発音にあやまりがあるたびにこちらが一時停止する、そうして三度目はもういちどひとりで読んでもらうというかたち)。採点は一度目と三度目の音読時に少しでも不自然な箇所があればその都度「正」の字でチェックするかたち。一度目のミスの数は予習不足、三度目のミスの数は修正力不足のバロメーターになるという考え。で、K.Sくん、S.Hくん、K.Sくんの三人をやってみて気づいた。音読用の文章はひとつでいい。三人で45分も費やしてしまったのだ。これじゃあテストが終わらない。それでルールを変更し、音読用の文章はふたつあるが、実際の試験ではこちらがいずれかを指定するので、それを音読するようにというかたちで実施することに。全員終わったのは17時ごろだったように思う。ずばぬけてよかったのはB.Kくん。高一からの既習組であるが、本人にその気があればスピーチコンテストの代表になるのもアリだと思う。K.Sくん(高一組)とS.Sくん(高二組)もけっこうよかった。S.Hくんは高一組であるが、発音は終わっていた。総合成績はまず「優」にとどかない。「良」もあやしいかもしれない。ほかにもそういう既習組の学生は複数いた。今回はじめて音読形式のテストを実施することにしたのは、既習組が半分以上を占めているこのクラスでなるべく公平な試験を実施するのであれば、初学者と既習組に差がつきにくい発音重視のものを用意するのがベターだろうと思ったからで、というか既習組は毎年一年生時の授業をなめてかかるので、その鼻っ柱をはやい段階で折っておきたいという個人的な思惑もあった。完全に終わっていたのはS.Hくん。初学者であるが、日付と曜日をまったく暗記してきていないふうだったので(カレンダーの数字を指さすこちらにたいして「わかりません!」と即答する)、それは3問で打ち切った。音読にしてもそもそも教科書の何ページに記載されている文章であるかすら把握しておらず、さすがにイライラしたというか、おまえ弟子やったらパンパンやなというわけで、こちらも早々に打ち切った。時間の無駄や。
  • 帰りのバスの車内で二年生1班のY.Tさんとしばしやりとり。大晦日はコナンの新作映画を観に行く予定だという。Y.Tさんはコナンと灰原哀カップリングが絶対に許せない人間であるのだが、先日わざわざ大枚はたいて購入したコナンのアクリルシートだったかが、全12種類からランダムに1枚ゲットできるという趣向であったにもかかわらずよりによってそのふたりの組み合わせのものだったので、すぐに灰原哀の熱心なファンであるというS.Gさんにあげたという。
  • 夜、『中国民衆の戦争記憶 日本軍の細菌戦による傷跡』(聶莉莉)の続きを最後まで読んだ。

 その頃は本当に恐ろしかった。毎日、一時間ごとに死者が出た。生きた人が死んだ人を担ぎ出して戻ってくると、自分も発病する状態となった。墓地へ埋葬に行く途中でぱたっと倒れて動けなくなった人もいた。
 死者が絶え間なく出るために、担ぎきれなかった。先に亡くなった人の棺は八人で担いだが、その後、死者がどんどん増えたので四人で担ぐようになった。棺が無くなると、二人で板を持って死者を担ぎ、板も無くなると、一人が天秤棒で二人の死者を担うこととなった。
 死者を埋葬するための穴を掘るのも間に合わなくなり、大きな穴を掘っていっぺんに何人もの死者を一つの穴に埋めることにした。ある穴に二人を埋葬し、ある穴に三人を埋葬し、また、ある穴に四〜五人も埋葬した。生きている者が、重態となって死を待っている人に対して、「早く亡くなった方が良い。そうじゃないと、あなたを埋葬する人さえいなくなるよ」と声を掛けた。
(「第3章 記憶にある細菌戦被害」 朱方正の話 p.152)

 一九三八年の冬から、日本軍の飛行機が常徳を爆撃し始めた。
 最初に爆撃を受けた日の午後、城内下南門の漢寿街あたりに十数体の死体が並んでいるのを、私は自らの目で見た。当時、「天も恐れず、地も恐れず、ただ日本軍の飛行機が大便する(爆弾を落とす)のを恐れる」という唱歌があった。
 一九四〇年五月七日と八日に日本軍の飛行機が落とした焼夷弾によって、我が家は全焼し瓦礫となった。その後、父は、高山巷口に木造の家屋を建てた。その時、常徳はほとんど毎日のように日本軍の飛行機に爆撃されるようになった。
 一九四一年秋のある朝、空襲警報が鳴ってすぐに飛行機が飛来した。父と私は近くの防空壕へ急いだが、途中、爆弾の一つが隣の筆屋に命中して店の主人が家族と共に死んだ。その主人の頭が爆弾で半分削られているのをこの目で見た。私も左足に被弾し血が止まらなかった。私は、大声で叫びながら城外の方へ走った。城門から四キロメートルほどの姻縁橋のところで、やっと祖母や母親と合流した。
 午後、警報が解除され常徳に戻ってみると、道には頭部や手足が欠けた遺体があちこちで見かけられ、電信柱にも人の手や足がくっついていた。たいへん怖かった。その後、足のけがが化膿して長期間にわたって治らず、一九五〇年以後にやっと回復した。
 一九四二年四月、女中毛妹子と五歳の弟国民、三歳の国成がペストで死んだ後、祖母は死んだ孫たちのことを思い出すたびに泣き、悲しみのあまり体は痩せ衰えて、同年の冬に亡くなった。韓公渡郷で農業に従軍していた祖父は、一九四三年九月に村にペストが流行したときに感染して死亡した。
 一九四三年の秋、日本軍が攻めてくる前に政府は市民に対して城内を離れて農村地域に疎開するように勧告した。家の女中四〇歳の厳媽は、帰るところがなく自分一人留守番で残りたいと両親に願い出て、両親はそれを承諾した。
 約一ヶ月後、日本軍が撤退し、私たちが家に戻ると家屋は壊され、室内のものはほとんど奪われていた。厳媽は庭に下半身裸で倒れて死んでいて、すでに腐乱し始め、体には銃剣で刺された痕跡があった。日本軍の暴行によって我が家ではまた一人死んだ。
 ほぼ二年の間に、我が家では六人が死んで、家屋は焼かれたり壊されたりして財産もほとんど失った。この一連の惨禍が衝撃となり、父は病の床についた。一九四四年の秋、意識を失い植物人間となった父は死んだ(本人の陳述書と聞き取り調査による)。
(「第7章 被害記憶の保存」 張礼忠(一九三三年生まれ)の話 p.298-299)

 日本兵は、村の娘たちに対して残虐な暴行を加えた。李開成の娘が日本兵に集団で乱暴された後、尻から銃剣が刺され高く上げられて投げ殺された。鄭家の娘はわずか一五歳であり、たいへん可愛らしい娘だったが、日本兵に捕まえられ、集団で暴行された後、真っ裸のままで池に投げられ殺された(常徳細菌戦被害調査委員会が合興村で開かれた被害座談会の記録による)。
(「第7章 被害記憶の保存」 李腊珍(一九二八年生まれ、当時、河伏鎮合興村に住む)の話 p.302)

 日本兵は男性を捕まえると殺し、女性を捕まえると暴行した。
 村の近くに楓樹堰という池があり、日本兵は捕まえた七二人の農民をその池に沈め、誰かが水面から頭を出すとすぐさま土のかけらで打ちたたき、全員が溺れて死んでしまうまで殺人を楽しんでいた。
 また、日本軍は、項家大堰という池のそばで、日本軍に捕まり馬丁や運搬夫として働いた男性や制服を着た男性(政府関係者と思われる)と、暴行を加えた女性の合わせて約一五〇人を殺し、遺体は全部池に捨てた。殺された男性の半数以上の遺体に頭がなかったのに対して、女性のほとんどは陰部を銃剣で刺されて死亡したようである(本人の陳述書による)。
(「第7章 被害記憶の保存」 李本福(一九四九年生まれ、当時、家族は河伏鎮雷壇崗村聚宝集落に住む。常徳細菌戦被害調査委員会の成員)の話 p.303)

 日本鬼は人殺しばかりでなく、食糧を奪ったり、家畜を殺したり、また家財を破壊したり、竈や鍋に排便したりもした。
(「第7章 被害記憶の保存」 項興武(一九一六年生まれ、当時、雷壇崗村聚宝集落に住む)の話 p.304)

  • ふたつめの引用にある「電信柱にも人の手や足がくっついていた」というくだりを読んで、こちらが京都時代にひとづてに紹介してもらった老人から聞いた戦争体験の話によく似たエピソードがあった。たしか静岡で空襲にあったときの話だったと思うが、防空壕に逃げこんで命からがらどうにか助かった当時少年の彼が父親といっしょに焼き払われた町に出たところ、焼け残っていた電柱に人間の手足がひっかかっているのを目にしたのだ。いや、手足ではなく、人間の髪の毛だったかもしれない。
  • しかしこうした証言を書き写していてやりきれない気持ちになるのは、たとえば日本軍による戦争犯罪をいっさい認めないタイプの人間は、たとえこのような証言を目にしたところで、そしてそれが実名および本人の写真付きのものであったとしても、エビデンスになりえないとか捏造であるとかそういう反応を平気でとることが容易に想像されるからである(その手の連中の口にする「エビデンス」ほど軽薄な響きを有する言葉もこの世界にはなかなか存在しない)。本当に暗澹たる気持ちになる。
  • あと、証言のなかに、泣きまくったために失明したという種類のエピソードが複数あったのが気になった。手元に残してある記録だけでも「泣き続けたために失明した」(152)「だが、母は毎日姉や兄たちのことを口にしながら泣いたので、解放の年(一九四九年)に母の目は見えなくなった」(181)「二人は毎日悲しみ泣き明かしたため、来福は目が見えなくなった」(273)「息子や孫を失った祖父は、何度も気絶し、毎日泣き続けたせいで目が見えなくなった」(277)と四つある。実際にそういうことがありうるのかどうかこちらにはわからない。なんとなくだが、中国には「泣き続けて失明する」というエピソードが一種のパターンとして古くからの物語や伝承のなかに存在しており(たとえば日本の怪談には「恐怖のあまり白髪になる」というパターンが存在する)、そのパターンが古い記憶にまぎれこんだということなんじゃないか(だから当然、このような「非科学的」なエピソードが語られていたところで、これらの証言がその有効性を失うということにはならない)。