2016-06-01から1ヶ月間の記事一覧
かつてヴィルヘルム・フォン・フンボルトは優れた個性について、それは出来事のなりゆきと関係なく不意に現れ、新しい系列を拓き始める精神の力だと呼んだことがあります。彼は創造的な者たちのなかに結節点を、つまり過去のものを自分の内部に取りこみ、こ…
下劣な対象を美しく描いた絵という、おなじみの例を思い出していただきましょう。それが美しい絵である事実には文句のつけようがないと考えてかまいません。ところが、ある美しい顔が非難すべき信念を抱いていたとしたらどうでしょう? もちろん事態は何の変…
起きたことすべてには、「偶然」にすぎないという強烈な感じがある。もしわれわれがこの間の歴史的瞬間に体験した決断すべてに、ある一貫した意義の表出を見ようとするなら、歴史の必然性への信仰を、度をすごしたレベルにまで引き上げねばなるまい。あとか…
ひょっとすると生の歴史的事実はまったく一義的ではなく、死んだ事実のみが一義的なのだろうか? (『ムージル・エッセンス 魂と厳密性』より「寄る辺なきヨーロッパ あるいはわき道に逸れ続ける旅」/早坂七緒・訳) 目がさめた。枕元の携帯電話を手にして…
間近で見る世界史は、こんな様子だ。つまり何も見えない。 近づきすぎるからだ、と文句をつける向きもあろう。でもこれは比喩なのだ。物に近づきすぎると、見渡すことができない、という視覚の領域からとってきたものだ。だからといって認識に近づきすぎると…
認識論的な抗議は、当然ながら人びとが認識するという前提のもとにのみ通用する。だが、われわれはいつも認識するだろうか? われわれがエスマンやマーテルリンクやノヴァーリスを読むとき――ニーチェをこれに加えてもよいし、昨今の例としてはルードルフ・カ…
一国の文化は、文化と住人の文化能力の平均値として生じるのではなく、国家の社会構造および多様な状況に左右される。文化とは、国家のために精神的価値を生み出すことではなく、個々人が文化を生み出しやすくする制度、新たな精神的価値が成果をもたらす可…
とりあえずわれわれが政治というかけひきに従事しているのは、何の方策も知らないからだ。われわれのやり方を見れば、それは如実にあらわれている。われわれの政党は理論への恐怖を存立の基盤としている。理念に対しては――有権者は危惧する――常に別の理念が…
わたしはこれまで政治に関心をもったことは一度もなかった。国会議員や大臣といった政治家たちは、わたしにはわが家の召使いのようなものに思われた。つまり埃があまり積もらないように、食事が時間通りにでき上がるように、といったぐあいに生活の瑣事の面…
劇場においては文学と劇場事情という二つの位相が互いに絡みあいつつ緊張関係を保っている。後者は不安と偏見の混合物に俳優側からの正当な要求がつけ加えられたものである。この種の要求について、わたしはとやかく言うつもりはない。演劇は共同作業なのだ…
というのも、文学においては造形の完成が最も重要であるにしても――束縛がまったくないように見える造形においても、安定した時代においても――与えられた内容を造形すれば内容も変化せずにはいないからである。そういうわけで正真正銘のカトリックの芸術作品…
極度に意味を含むものと極度に意味を欠いたものの両極のあいだに、ありとあらゆる混合の度合いをなしながら文学は広がっているのである。文学は、両極が友好的かつ敵対的に浸透し合ったものとして捉えられるのであり、そこでは「世俗的な」思考と「非合理的…
意味なき詩、あるいは対象なき詩はときおり詩人たちのグループによって要請され、しかもその根拠づけには常に破綻が見られるのだが、問題となっている関連においては、そうした詩が実際に美しい場合もあるという点において特に注目に値する。かくしてホフマ…
文がその意味を語から得るだけではなく、語もその意味を文から得るのだ。ページと文、全体とページの関係にも同じことが言える。学問的な言語にもある程度まで当てはまるが、学問的でない言語においてはとりわけ、包括するものとされるものとが相互に作用し…
つまりエッセイストは学者からは、学者の仕事にとってはくず同然のものから自己の本質部分を調達する一種のほら吹きだとみなされ、他方で詩人たちからは概して、一種の妥協の産物、自分たちの輝かしい本質を卑俗な合理性の靄のなかで歪めたものにすぎないと…
カフカの最初の書物『観察』[エルンスト・ローヴォルト社、ライプチヒ、一九一三年]を読むとき、それがヴァルザーの『物語集』よりも先に出版されたにもかかわらずヴァルザー型の特殊例のように思えるのが、わたしには釈然としない。ここにも一種の観想が…
ローベルト・ヴァルザーの『物語集』[クルト・ヴォルフ出版、ライプチヒ、一九一四年]。積極的な志向の持ち主や慈悲深い女性なら、この三〇篇の小さな物語を遊戯的だと思うだろう。ここからは物語の性格がうかがい知れない、気まぐれだ、生と戯れている、…
「抽象する」という言葉は、日常的用法では、ある物を度外視するとか、事物の一面のみを残して他は等閑視する、といった意味で使われる。そうすると、この残された一面に、われわれが特に手を加えなくとも、諸連関が現れてくるのである。それゆえ、芸術の一…
ラーテナウの著作には、こうした欠点を大目に見てもよい貴重なものがある。エッセイ風の書物においてなじみ深くなった表現を使えば、魂の体験とか愛の体験と呼ばれている、人間の例の一群の状態のことである。この著書におけるそうした体験の描写は、素材の…
モラルというものが実はどれほど冒険的な、体験的なものと感じられているかを証拠だてることがある。道徳理論家でさえ功利説という堅固な大地を捨て去って、「汝為すべし!」をしばしば特異な体験へと祭りあげて、――見分けのつかないほど仰々しく「義務」へ…
どんな利他主義的な気持ちも、利己心の作用に起因することが証明されている。ならば同じように、どんなエゴイスティックな行為にも利他的な動機が隠されており、利他的な動機なしにはエゴイスティックな行為は考えられない、と証明できてもよさそうなものだ…
すべての形而上学は、悟性を間違った形で使用しているために、お粗末なものになってしまっている。つまり、彼岸を現実の延長として証明するという、形而上学自体の本性に反したことにその野心を傾ける反面、彼岸を(要求度の高い趣味の持ち主のために)、ま…
なんとも住み心地のよくないこの認識の建物の巨大な切石の堆積の手には、しかしながら、あちこちに死角が見出される。そしてそこでは痴呆化の危険をおかすことなく非科学的であることができるのだ。最初や最後の解決不能な問題(アポリア)、すなわち、因果…
しかしモダニズムは、カトリックの国家に対するとり返しのつかぬ戦いの最後の帰結として、歴史的に見ていかにも特徴的な事態だといえる。この戦いとは、教会がついうっかり、国家のやり方で国家を支配しようとしたことに始まり、教会が国家によって、教会の…
芸術はその起点として、猥褻なもの病的なものを選ぶことができるが、それにひき続いて描かれるもの――表現そのものではなくて、表現された猥褻なもの病的なもの――はもはや猥褻でも病的でもない。芸術家の使命をめぐるあらゆる聖具室のおしゃべりを度外視して…
裸形の母も妹も裸であれば裸形の女性にすぎない。しかもおそらく、まさにそのことが最も忌まわしく思われる状況において初めて意識にとって裸形の女性になる。 (『ムージル・エッセンス 魂と厳密性』より「芸術における猥褻なものと病的なもの」/早坂七緒…