20240722

 もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。その最初の一行さえ出てくれば、あとは何もかもすらすらと書いてしまえるだろうということはよくわかっていたのだけれど、その一行がどうしても出てこなかったのだ。全てがあまりにもくっきりとしすぎていて、どこから手をつければいいのかがわからなかったのだ。あまりにも克明な地図が、克明にすぎて時として役に立たないのと同じことだ。でも今はわかる。結局のところ——と僕は思う——文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う。
村上春樹ノルウェイの森』)



 10時半起床。バイデンが米大統領戦撤退のニュース。遅すぎる。バイデンの認知症疑惑については何年も前から、こちらの記憶が正しければ前回の大統領選の時点ですでにささやかれていたはずなのだが、支持者らはそうした報道であったり疑問の声であったりをフェイクニュースだのプロパガンダだのといってやりかえしていた。都合の悪い情報を精査することもなければ疑問の声に対して理性的に応じるでもなく、ただただフェイクニュースの一言で一刀両断する(そしてその身ぶりは疑問の声を投げかけた側にではなく、自陣営の側にむけられている)、そうした手口というのはまさにトランプが乱用しはじめたものであるという点がこちらをしんどくさせる。自民党の、もっといえば安倍晋三の乱用した論法であったりフレーズであったりを、彼と対峙する陣営が平気な顔で使っているのを目の当たりにしたときの絶望感とおなじ。
 トーストと白湯。コーヒーを淹れて「実弾(仮)」第六稿作文。12時から15時まで。シーン18とシーン19。作業BGMは『ACK Quartet: Ligeti, Pintscher, Cage & Xenakis - Live At Wigmore Hall』(JACK Quartet)と『NANA-NELSON ANGELO-NOVELLI / AFRICADEUS』(Naná Vasconcelos ナナ・ヴァスコンセロス)と『After the Heat』(Brian Eno, Dieter Moebius & Hans-Joachim Roedelius)と『Cluster & Eno』(Cluster & Brian Eno)。
 きのうざっと添削しておいたK.Kさんのスピーチ原稿四本をあらためて加筆修正&録音。終えると16時半だった。やっぱり時間がかかる。

 39度の太陽を浴びたくなどまったくなかったのだが、食料が尽きていたので外に出ないわけにはいかない。Jで食パンを三袋、Yで冷食の餃子と出前一丁海鮮味と红枣のヨーグルト、第三食堂で夕飯を購入。ケッタを漕いでいるあいだ、ほとんど本能的になるべく日陰を選んで移動しようとするじぶんがいた。シェムリアップの熱気をおもいだした。人生でもっともひどい暑気を感じたのは12年前のシェムリアップでまちがいないと思うのだが、あれは実際どの程度の気温だったのだろう? 実際のところは40度近いことなんて全然なくて35度かそこらであり、それを当時そのような高温にまだ慣れていなかったこちらは過度に喰らってしまったということなんではないかと思うわけだが、と、ここまで書いたところで、ググってみたところ、シェムリアップでもっとも暑い時期は4月ないしは5月、しかし一日の最高気温はだいたい35度ほどで、39度をうわまわることは滅多にないらしい。なるほど。しかし今日は、というよりも今日もであるのだが、日差しがマジで凶器であり、日焼け対策ではなく熱気対策に長袖を着てきたほうがよかったと思われるほどするどいやつがじりじりと裸の皮膚を焦がして端的に痛く、日陰の全然見当たらない通りをやむをえず移動している最中こちらのあたまにあったのはRPGのダメージ床であり、マジで一歩分移動するたびごとにHPが目減りする。地獄や。Jではレジのおばちゃんに日本もこんなに暑いのかと問われたので、地域によってはこれくらい暑いところもあるかもしれない、でもじぶんの故郷はこんなに暑くないと受けたのち、スマホで地元の週間天気予報図を見せた。今週の土曜日に凉快的日本に帰るよと告げると、おばちゃんは笑っていた。
 メシ食う。食後はベッドで『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』(リチャード・ロイド・パリー/濱野大道・訳)の続きを少々。チェンマイのシャワーを浴び、きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の日記を読み返す。K.Kさんから微信。今日は一日中子守りをさせられて心底疲れた、もう死にたい、と。

 今日づけの記事をここまで書いたところで、『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続き。

なにかから引き出してくる信仰と、何かをもっていく信仰。
(1089)

平均人。おお、神様!——と彼は排便のとき満足して、溜息をつく。
(1090)

世俗神学。不死。ひとはもはやとうに欲望をもつ価値がないときにも欲望をもつ。ひとは肉体的に老い、心的には若いままである。人間的葛藤においてもっとも頑強なのは性にまつわる事柄である。それはすでに生において不死の模範ではないだろうか?
(1111)

芸術家の社会的機能とは、誰もがなりたいと思い、誰もが自分のなかにもっている芸術家の生への欲求として)芸術家を代表することである。
(1133)

民主主義的な組織の最大の弱点は、規律の没落である。したがって、この原理を過度に緊張させるファシズムは、理解できるばかりではなく、正当な本能的防御運動でもある?
(1134)

 人間は彼の精神のために生きるか——そのとき、きみたちは犯罪者だ。あるいは精神のためには生きないか、である——そのとき、きみたちは嘘つきだ。
(1156)

追放。私は精神的に出発する。人びとは言うかもしれない。最上の人びとを追放するとは、なんという古めかしい方法への逆戻りだろう。しかしまた、なんという系統学的深さだろう。神々の時代はふたたび近い。
(1167)

退屈な。映画のプロデューサーが、退屈だと思った、もしくは退屈なものとして奨められた、あらゆる本の図書館をつくる。それがなにを意味するのか、ぼくは知らない。しかし「退屈な」という基準(それはあらゆる重要な本を含むことができるだろう)はもっとも重要な問題の一つである。(すでにどこかに、それは成功に寄与することができると書かれていた。もし成功するとすれば、それは尊厳、ないしそれに類するものと混同されるだろう)
(1201-1202)

トーマス・マンとその同類は、現に生きている人びとのために書く。ぼくは、現に生きていない人びとのために書く!
(1206)

文学。ひとは光を投じることによって影を生じさせる。ひとは光をつくら(涵養し)ない。
(1230)

ベーア=ホフマン。ユダヤ人は非常に多くの文学的才能をもっているので、かれらのなかの一人にそれが欠けていると、彼は天才だと信じてしまう。
(1230)

多くの不信心な人びとが祈り、神に呼びかけるという事実、それがかれらの心を鎮静させ力づけるという事実は、なにに由来するのか? それはこういう感情である。私はできるかぎりのことはした。それが心を鎮めるのだ。
(1243)

神を信奉するならば、悪は(未聞の)善である、という結論を引き出してはならないのだろうか?
(1244)

 夜食は冷食の餃子。寝床に移動後は『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』(リチャード・ロイド・パリー/濱野大道・訳)の続き。
 ふと思ったのだが、夏目漱石みたいな一作ごとにスタイルをラディカルに変更していく実験的な小説家が、いわゆる「国民的作家」として文学の保守本流に位置づけられ、あげくのはてには紙幣に肖像が印刷されるにまでいたるというのは、冷静に考えてなかなか狂っているのではないか。