20240723

 永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だった。僕は人生の過程で数多くの奇妙な人間と出会い、知り合い、すれちがってきたが、彼くらい奇妙な人間にはまだお目にかかったことはない。彼は僕なんかはるかに及ばないくらいの読書家だったが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうとはしなかった。そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。
現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくないんだ。人生は短かい」
「永沢さんはどんな作家が好きなんですか?」と僕は訊ねてみた。
バルザック、ダンテ、ジョセフ・コンラッド、ディッケンズ」と彼は即座に答えた。
「あまり今日性のある作家とは言えないですね」
「だから読むのさ。他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥かしいことはしない。なあ、知ってるか、ワタナベ? この寮で少しでもまともなのは俺とお前だけだぞ。あとはみんな紙屑みたいなもんだ」
村上春樹ノルウェイの森』)

 ここを読んでいる最中ふと思ったのだが、というか連想してしまったのだが、この「永沢」のセリフを『ちびまる子ちゃん』の「永沢くん」のモノマネの上手なひとが朗読しているクソ動画って、すでにYouTubeニコニコ動画に存在したりするのだろうか? 存在しなかったとしても、たぶん試してみたことのあるひとは、過去に1人か2人はいるんじゃないだろうか?



 11時起床。13時半から17時過ぎまで「実弾(仮)」第六稿作文。シーン20を片付けてシーン21を途中まで。今日はいまひとつ集中できなかった。シーン20、なんとなく弱い。パンチラインがひとつくらいほしい。作業BGMは『After the Heat』(Brian EnoDieter Moebius & Hans-Joachim Roedelius)と『Cluster & Eno』(Cluster & Brian Eno)と『Various / Singles』(Geotic)と『Realms』(Geotic)。Geoticの二枚は10年前の日記に記録されていたので、そういやそんなものもあった気がするなとなつかしくなってひさしぶりに流してみたのだったが、全然ききおぼえがなかった。ワシの聴取能力なんてしょせんそんなもんや。土鳩のほうがよっぽど上。
 作業中、卒業生のR.Sさんから日本語に関する質問。彼女は今年浪人してもう一度院試に挑戦するつもりでいる。がんばってほしい。
 第三食堂で打包。食しながら『世界』(ジャ・ジャンクー)を25分ほど視聴。wiki曰く「世界各地の遺蹟や建築物を主に1/10スケールで再現した46.7ヘクタールの広さを有すミニチュアパークである」北京世界公園が舞台。テーマパークのキャッチコピーらしき「北京を出ないで世界を回ろう」という文章が画面中央にデカデカと表示される冒頭ですでに皮肉たっぷり。そりゃ検閲されるわ。テーマパークでダンサーとして働くタオ(『青の稲妻』でチャオチャオを演じている、ジャ・ジャンクーのパートナーである趙濤だ)のもとに、世界を飛び回って仕事をしているらしい元カレがたずねてくるのだが、おなじテーマパークで保安员として働いているらしい今カレがやってきて、ふたりの逢瀬を阻む——その構図もまた、縮小された偽物の「世界」で生きるタオ=人民が、その外にひろがる本物の世界で生きる元カレ=翻墙した人民と触れ合うことを、どうにかして阻もうとする保安员=検閲制度およびGFWという、わかりやすすぎる構図におさめて「読む」ことをあえて可能なままにしているという印象。
 ところで、『青の稲妻』では、ビンビンが違法DVDを路上で売り捌くシーンがあり、そこで客の男が『一瞬の夢』や『プラットホーム』など当局によって検閲されているジャ・ジャンクー作品のDVDをもとめるという、ちょっとしたお遊びみたいなやりとりが仕込まれているのだが、それを踏まえて「実弾(仮)」でも、こちらの自作である「A」や「S」に対する言及をしのびこませておけば楽しいかもしれないなとふと思った。それに近いことは実はすでにしていて、いや近くないかもしれないがとにかく、第五稿の段階でMという名前の登場人物を追加していて、ほかの登場人物らが交わす会話のなかで一度だけ言及されるにすぎないのだが、とはいえこちらをモデルにした人物であるわけではまったくない。単純に、小説のなかにその小説の書き手とおなじ名前の人物が出てきたら、読み手はふつう両者を同一視する、そうでなくても一種のメタフィクションとして受け取ろうとしたり、あるいは『青の稲妻』がそうであるようなお遊びとして理解しようとしたりする、そういう(ある意味マニアックな)「お約束」に対するうらぎりとして、作者とおなじ名前でありながら作者とはまったく無関係である、ほかの名前と徹頭徹尾交換可能である、そういう人物を挿入してみたくなったのだ(「メタネタかよ、やれやれ」という苦笑じみた期待をまるきりすかすみたいな、ただそれだけのこころみ)。
 チェンマイのシャワーを浴びる。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返す。1年前の記事と10年前の記事で記述が重複していた。実家のある団地に住む弟の小中時代の同級生らに対する言及。記憶のバイオリズム仮説更新。

 今日づけの記事をここまで書く。作業BGMは『Codona』(Collin Walcott, Don Cherry, Naná Vasconcelos)と『Avery Fisher Hall (Live New York '82)』(Don Cherry, Collin Walcott, Codona)。ドン・チェリーなんてクソひさしぶりにきいたわ。
 『ムージル日記』(ロベルト・ムージル/円子修平・訳)の続きを読みすすめる。夜食のラーメンを食しながら『世界』(ジャ・ジャンクー)の続きを観る。タオがバスで移動するシーンで突然映像がチープなアニメーションに切り替わる。メールを受信した携帯の画面→夜の道路を移動するバスのカットがアニメーションで描かれるのだが、あまりにも唐突だったので、最初、ここだけ検閲でアウトと判定されたためにほとんど腹いせみたいなアレで、こんなにもチープなアニメーションを差し替えとして使っているのかなと変に裏読みしてしまったが、そんなことはなかった、その後もたびたび同様のアニメーションは挟まれた(バスに続けて、飛行機や白馬など「(外の世界への)移動」を象徴するものが映ったあと、ほとんど子どもむけみたいなアニメーション(=絵空事の象徴?)が挟まれる造りになっているという理解も可能)。しかし北京世界公園はよくこの映画に対して撮影許可を出したなと思う。上のほうでも書いたが、北京世界公園というこの場所自体が中国という国家に対する痛烈な批判として機能する、そのような脚本や演出が組まれているわけで(身も蓋もない言い方をすれば、北京世界公園というテーマパークがおもいきりコケにもダシにもされている)、公開は2004年、20年前の中国はいまよりもずっとおおらかだったのかもしれない(あるいは単純に審査する側が作品の意図や文脈を読み込めていなかっただけというまぬけな話かもしれないが)。なんでもかんでも馬鹿のひとつおぼえのように「正能量」がうたわれる2024年現在ではまったくもって考えられない作品。
 中国語版のWikiジャ・ジャンクーやその作品などについてざっと斜め読みして知ったのだが、デビュー作である《小武》(邦題は『一瞬の夢』)の主人公は、『青の稲妻』に「ウーさん」として登場しているあのチンピラらしい。世界観を共有しているのだ。知らなかった。『一瞬の夢』はジャ・ジャンクーの他の作品とちがって動画サービスに登録されておらず視聴することができない。気になる。ちなみに中国語版のWikiはいろいろ情報がしっかりしていたが、百度百科のほうは端的にクソで、たとえば『青の稲妻』の主人公であるシャオジイ=小济は小李になっている。これも壁の内外の差。
 寝床に移動後、『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』(リチャード・ロイド・パリー/濱野大道・訳)を最後まで読みすすめて就寝。