20140626

 上海航路の二隻は、双生児のようになにからなにまで似ていた。先には、上海丸にも乗ったことがあるので、私は知っているのだが、一般船客の下りてゆく、畳敷きのひろびろとした船艙からタラップのほうへ吹きあげてくる人いきれのにおいまでまったくひとつだ。これが人間といういきものの正真正銘の臭気かもしれない。男や女の汗や、分泌物のにおいのほかに、金盥に吐いた嘔吐物のにおい、なま干きのペンキのにおいなどもまじってはいるが、悪臭と言うよりも人間が、人間から浮遊することをひきとめる化学薬品の、おそろしく人間離れのした、邪慳なにおいに通じている。もはや師走に近い季節で、顔に寒さが貼りついて甲板に出ていられないというのに、船室のなかでは、すきまもなくつまったからだが、身うごきもならず、うん気と、換気の設備のない、お互いの呼吸でよごれた空気のために仮死に近い状態になって、ごろごろとねている。もちこんだたべものは、半夜とたたないうちにくさりはじめる。玄海に出てからの揺れは、型のごとく大袈裟だ。船酔いを忘れるには、男と女の交歓にかぎると、船員たちからきいたことがある。たちのわるい水夫が船酔いしている女船客にからみ寄って犯し、当時まだ組織ののこっていた女売買のルートに乗せて、金に換えるようなことが、珍しくないとのことであった。首をすこしもたげてあたりの気配をうかがっていると、それらしいうごきや、呼吸づかいが感じられ、神経がしぼりあげられるようであったが、それほどはっきりしないままで、その神経が疲れ、頭が濁って、ぼんやりしてきた。そばで寝ている彼女は、寝苦しそうに、額に油汗をうかべて、私にくっついて眠っていた。股のうち側をさわってみると、火のように熱かった。うなぎ屋の二階で彼女が猩紅熱にかかったときとおなじ熱さにおもえたので、私はあわてて揺りおこしたが、彼女はうす眼をあけて、「夢をみていたところ」と言った。男の夢をみていたにちがいないと嗔恚(しんい)をもやし、その証しをつかもうとさぐると、彼女は、からだをねじってくるくると逃げた。女の拒絶は誘惑よりも男を一そうかきたてるものであるが、こんな場合には、そのかきたてられた情念が、残忍さにつながりやすくて、われながら気がかりになった。
金子光晴『どくろ杯』)



 5時にめざましが鳴った。しんどかったので30分延長した。5時半をいくらかまわったところでようやく体を起こした。歯をみがき顔を洗い部屋にもどってストレッチすると腰のあたりがやはりこわばっていた。パンの耳2枚とホットコーヒーの朝食をとったのち昨日付けのブログの下書きに大幅に手を入れて投稿した。すると8時だった。大家さんがamazonからとどいた荷物を持ってきてくれた。MacBook Airの保護ケースである。夕立の盛んな季節になってきたので、生身のままカバンに入れて持ち運びするのもいいかげんためらわれる、それがために注文したものだった。 8時から12時まで「G」作文。9時ごろにいちど行き詰まりを解消すべく30分ほど畳に横たわって居眠りした。そこからは好調だった。ここ一週間ほど修正しかねていた難所をいくつか切り抜けることに成功した。枚数変わらず252枚。改稿は207番まで。
 炊飯器のスイッチを入れてからダンベルで筋肉を酷使した。それから買い物に出かけた。昼間の屋外にでるのはひさしぶりだった。こんなにもぎらぎらした日射しだったのかと、いつのまにか100%の夏になっていることを知ってたまげた。帰宅してから玄米・インスタントの味噌汁・納豆・冷や奴・塩茹でしたササミ・トマトとレタスとみょうがのサラダをかっ喰らいながらウェブを巡回した。寝床を敷いて横たわり15分間の仮眠をとって起きると16時前だった。体感としては一時間近い眠りだった。夢をたくさん見たが、どれひとつとしておぼえていない。忘れるいっぽうの毎日だ。
 風呂場におもむいた。あしたは人前に出るほうの仕事なのでひさしぶりにひげを剃った。部屋にもどってストレッチをすると17時だった。22時就寝を目安として考えていたから、これはまずもっていいペースだということができた。後半戦は英語の勉強にあてることに決めていた。二三日前からずっとそう思っていた。たぶんもう二週間、場合によっては三週間くらいご無沙汰している。執筆時間は毎日早朝に確保することとして、休日の夕刻は英語の勉強にあてる、週休五日制の破れたいまこれが次善策だろうと思われた。読書よりも英語を優先するという規則はイレギュラーな時間割に転ずる以前からの決定だった。あたらしい時間割が仕上がりつつあった。
 早寝早起き生活にきりかえると作業場を深夜カフェに限定せずにすむという強みがあった。これはかなりおおきいメリットなんではないかと思われた。週休五日制に復帰してからもこのリズムを維持してもいいかもしれない。たまには趣向を変えて北大路のスタバにでもいくかと思ったが、よくよく考えてみればひとりでスタバを利用したことがなかった。スタバにいくときはだいたいいつも女の子がいっしょだった。聖域は聖域として踏みにじるまいというアレから結局ビブレのなかに入っているフレッシュネスバーガー(次回からは新鮮馬鹿と記述することとする)に向かうことにした。最後におもてで英語の勉強をしたのもおそらくこの店である。眠気にうとうとしてばかりだった記憶がある。
 前回同様チャイティーをオーダーして20時まで滞在した。食事時の混雑をおそれたが、席が埋まるということはなかったのでほっとした。昼間のサイゼリヤとちがってバタバタせず使えるというわけだ。とちゅう隣席に西洋人の老夫婦が着席した。男性のほうが嗄れ声で英語を話していたが、どことなくフランス訛りっぽく聞こえた。和食と中華料理を比較してうんぬんと語っていたが、ほとんど聞き取れなかった。Sのあやつる英語だけがじぶんのよく知る英語で、ほかの英語はもっと遠くて親しみのないとんちんかんな異国語にすぎない。
 ビブレのなかに入っているスーパーの総菜品を物色しにいったら半額品ラッシュだったので塩焼きそばとやらを購入した。総菜コーナーはたくさんのひとでにぎわっていた。まるで狩り場だった。半額シールを打つ道具を手にした店員があらわれると、あらかじめめぼしいものを買い物かごのなかにいれてキープしていた常連客らしいひとびとが続々とそちらにむかっていってシールを打ってもらっていた。そういう高等テクがゆるされるのかと思った。目の前の天津飯を持っていって値下げしてもらいたい誘惑に駆られたが、なじみのないスーパーで常連面をひっさけながらふてぶてしい請願をこころみるおのれの姿にはさすがに気後れするところがあったので、もういいやとすでに半額シールの貼りつけられてあった塩焼きそばだけもってレジにむかった。ビブレのなかの駐輪場を使うときはだいたいJかPの列に停めることにしていて、今日はJ-19番だったので、19歳のときのJさんというふうに頭のなかで記憶していた(その背後では19の紙ヒコーキの歌のメロディも流れていた)。アルファベットをイニシャル、そのあとに続く数字を年齢に見立てたうえでたとえば壮年のJさん、あるいは幼少期のP(渡米前)みたいな図像を脳裡に刻印することで番号を忘れないようにするというわけのわからない記憶術を実践するのがここをおとずれるたびごとのならいとなっている。
 帰宅してから塩焼きそばを食べた。あぶらっぽくて就寝前に食べるもんではないなとつくづく思った。軽く調べものをしてからブログをまとめて書き記した。21時半にヘレン・ケラー片手に寝床に就いたはいいものの、二度にわたる昼寝のためにかさすがに眠気も間遠で、おかげで読書がはかどる小一時間だった。22時半消灯。