しかしここで詩的言語は、言語以前に戻るわけではない。意味の麻痺によって構成される詩的言語はまぎれもなく一つの言語である。文化的構築物であり、ミルクではない。「君の瞳は星」というとき、瞳と星は本当に混同されているわけではない。瞳と星は別のものと知っていながら、瞳は星だという言葉を蒙昧とはすることなく私たちは受け取っている。この意味で、文化はここで対象性や十全性を与えるとはいっても、単なる対象性に戻ったり、退行しているわけではない。
フロイトは、文化を「昇華」という概念で記述した。昇華は抑圧のないリビドーの満足である。通常、人は子どもっぽい願望、例えばずっとお母さんにくっついていたいという願望を抑圧する。ここで抑圧という限りでは、その願望そのものは水面下に維持され、夢など退行的な場面で再現される。が、昇華は、抑圧とは異なり、その願望を例えば母への欲望をモチーフにした絵を描くことで形を変えて成就する。
この点で、「消化」である文化は、対象の十全性を与える。
しかし対象の十全性というとき、それは言語以前の世界に遡り、セックスや人との身体的馴れ合いといったアルカイックなものへと遡行するということではない。むしろ意味を求め現実的な認識や知識をもつ人間に、認識の積み重ねの上で納得を与える。高度な芸術は、言語・文化的蓄積を前提にその上に積み上げられるものである。
例えば宗教は、絶対的な他者についての表象や思考を、さまざまな隠喩や芸術などによって作り上げてきた。荘厳な教会、寺院、独特の儀礼などは、日常の世界は処理できない私たちの感情(死や病気や苦しみなど)を合理的な意味作用を麻痺させる形で慰める装置である。しかし、科学が進めば儀礼や教義では私たちは納得できなくなってくる。
これに対し、高度な宗教になると、宗教の無力さそのものがインプットされるような宗教言語が生み出されてくる。「信じるものは救われる」といった、人間にとって意味の限界を突破する隠喩は、私たちの生の矛盾そのものを指し示す。意味の麻痺だけでなく、私たちの行為や存在に対する認識を与え、人を信頼する実践的なレベルを指し示すものとなる。
(樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』より「第三章 なぜ恒常性が必要なのか」 p.136-138)
- 10時半ごろ起床。第五食堂で炒面を打包。厨房の男性、こちらがやってくると優しい笑顔で迎えてくれ、注文もきかずにいつものやつねという感じで饭卡を読みとる機械に8元と打ち込み、そのまま唐辛子抜きの炒面をこしらえてくれるわけだが、今日は注文こそ彼が受けてくれたものの、調理番がひさしぶりにもうひとりのおばちゃんであって、たぶんこちらが辛いもの苦手であることを失念していたのだろう、唐辛子ありになっていた。まあしゃあない。できあがったものを渡される際、そのおばちゃんから冬休みは帰国するのかとたずねられたので、来月の13日に帰国すると応じると、(…)から直接行くのかというので、まず(…)まで高铁で移動する、その後(…)→山東省→大阪と乗り継ぐ、太麻烦了と答えた。去り際には新年快乐とあいさつ。中国語の新年快乐には「よいお年を!」の用法もあると昨夜ネットで知った。
- 食後、阳台に移動して「実弾(仮)」第五稿。15時半まで。追加シーンであるシーン15、骨格はほぼできあがった。これはなかなかちょっとリアルな夢の質感を表現することに成功したかもしれんという手応え。
- 夕飯は第五食堂でふたたび打包。食事をとりながら『クイズ☆正解は一年後 2023』をTVerで視聴する。年末の唯一の楽しみや! フジモンにはがっつりモザイクがかかっていた。フジモンが当て逃げしたという報道に触れたとき、まずあたまをよぎったのはこの番組のことだった。
- 途中、三年生の(…)さんから微信。やっぱり来たか。食事を終えたあとにいっしょにスーパーに行きませんか、と。了承。(…)は20時ごろから値引きをはじめるらしい。だからそれまでそのあたりを散歩しましょうとのこと。準備ができたらいつでも連絡してくださいと応じて番組視聴を続行。
- 19時ごろに(…)さんと合流。西門からキャンパスの外に出る。昼間はなにをしていたのかとたずねると、英語学科のルームメイトに日本語を教えていたという返事。夕飯は食べていないというので、どうして? とたずねると、食べたい気分ではなかったとのこと。ダイエットが習慣になっているので、夜はあまりお腹が空かないという。なにも食べないのはよくないよというと、野菜ジュースを飲んだり果物を食べたりはしているという返事。(…)に到着したところで20時までまだまだ時間がある。それでそのまま店の前の交差点を西にむけて歩いていくことに。(…)の広場にはいつもあるメリーゴーラウンドのほかに仮設ステージがもうけられており、そこでマイクをもった女性司会者が子ども向けのたぶんくじ引きかなにかのイベントを取り仕切っていた。野次馬は想像以上にたくさんいた。ここらでこの人出だったら、いま步行街のほうに行ったらやばいだろうなと思う。
- 見慣れない道を歩く。高級マンションやホテルの駐車場を歩く。日本ではどうか知らないが、中国ではうちのような田舎のマンションやホテルの駐車場であってもEV用の充電ステーションがある。大通り沿いを歩いてもつまらないので、途中で南側に入る。ちょっとこわいと(…)さんがいう。路地らしい路地では全然ない。車も二台しっかり通行できる道幅が確保されている通りであるが、ちょっと暗いというので、これで? と疑問に思った。しかし相手は女子だ。じゃあひきかえしますか? というと、先生がいるからだいじょうぶという。それでその道をまっすぐ歩いていく。周囲にマンションしかないつまらない道かと思ったが、カフェや商店やメシ屋とおぼしき店構えがぽつりぽつりと姿をあらわしはじめ、そうそう、こういう知らん通りを歩くのがおもしろいのだよな。
- (…)さんは怖い夢を見たという。妹にナイフで手首を切られる夢。(…)さん、およそ一週間後には帰省するわけであるが、姉妹間の関係はだいじょうぶなんだろうかとちょっと心配になる。怖い夢を見ることはよくあるという。中学生のときに同級生三人が川で溺死した。その三人が夢に出てきた。教室に彼女と三人の学生だけがいた。その三人にあなたたちは死んだと告げると、一人がそんなはずはないと反論した。死者が出る夢はほかにもよく見たという。祖父の友人だったか親戚だったかが死んだ夜も夢に見た。ペットのうさぎが死んだときも夢に見た——そう続けて、ぽろぽろと涙をこぼしはじめる。深刻なムードは嫌だったので、きみはよく泣くねと明るく受けた。はじめてぼくの前で泣いたときのことおぼえている? (…)さんと(…)さんといっしょにはじめてうちに来たとき、きみはビールを飲んで酔っ払って、そのあとにうさぎの話をはじめて今日みたいに泣きだしたんだけどというと、(…)さんはちょっと笑っておぼえていますといった。こちらがこれまでに見たもっともおそろしい夢といえば、やはり歯が全部抜け落ちる夢だろう。過去に四度か五度見ている。はじめて見たときは心底恐怖をおぼえた(実家の浴室でシャワーを浴びている最中に歯が全部グラグラになって抜け落ちると言うもので、あれはちょうど神経を病んで心療内科に通院している時期に見たのではなかったか)。最近では、歯が抜ける=おそろしい夢という回路が強化されてしまったためにか、同様の夢を見ると、あ、これは夢だ、と途中で気づくようになった。ちなみに「実弾(仮)」のシーン15で挿入する夢にも、シャワーを浴びている最中に歯がすべて抜け落ちるという展開を組み込むつもり。
- 道路の両脇に商店が増えるにつれて、屋台もちらほらと姿をあらわしはじめた。こんなところに屋台が出るのか、ちょっと后街みたいだなと漏らしたところで思い出したのだが、ここら一帯が再開発される以前、つまり、コロナ以前ということになるのだが、あの当時大学の西側にあたるここらは小汚い商店やメシ屋や快递がひしめきあっており、いかにも中国の田舎の路地裏っぽく、実際学生らはこのあたりのことも「もうひとつの后街」みたいな言い方をしていたのではなかったか? そう考えた拍子に、(…)さんや(…)さんと過ごした日々の気分がいっしゅんよみがえり、彼女らとこんなふうに特に用事もなく散歩をしていたじぶんの影を踏んでいるような心地がした。おれはまるで生き霊みたいだなと思った。生き霊じゃない、地縛霊だ。あらたにやってきては四年後には出ていく学生らを散歩のパートナーとして取っ替え引っ替えしながら、じぶんだけは変わらずおなじ土地にとどまり、同じ路地を歩き、同じような会話をくりかえしている。学生らとの関係は四年でほぼ途切れる。ようやく日本語である程度むずかしい話ができるかもしれないと思ったのも束の間、彼女らはこの土地を去り、入れ替わりにまた好きな食べ物の話くらいしかできない子らとのレベル1の散歩がはじまる。潮時かもなとあらためて思った。奨学金の返済にあてる分の金はすでに稼ぎ終わっているのだし、残り1年契約どおりにやるべきことをやったあとはまた日本で、家賃2万円以内の安アパートを見つけてそこに住んで、週に二日か三日だけバイトして過ごすか。
- (…)さんは全然方向感覚がなかった。こちらもじぶんでも嫌になるくらい方向音痴であるが、中国の街並みは基本的に碁盤の目であるのでけっこう助かる。今日たどったルートにしても、(…)を開始点として直角に左折するのを四度くりかえしてふたたび(…)へというクソわかりやすいアレだったのが、彼女は三度目の左折の段階で見当違いの方向を指差し、学校はあっちですか? といった。故郷では深夜1時に点点の散歩に行くこともあるというので、深夜に出歩くのはやめておきなさいといった。中国語でなにやら口にした。その後日本語で、じぶんはかわいくないから危険はないみたいなことを言うので、そういう問題じゃないだろうと思いつつ、きみはじぶんのことを全然かわいくないと思っているの? とたずねると、もしわたしがかわいかったら元カレはもっと頻繁にわたしと会いたがったはずですというようなことを口にするので、何重にもまちがっているよなとあたまを抱えたくなった。言語の壁があるので問題を単純化した。きみはふたつ間違っていると告げた。きみはかわいいです、自信を持ってください、とまず言った。その後、恋愛はかわいいとかかっこいいとかそういう要素だけで決まるものではありません、人間の魅力は外見だけではありません、と続けた。彼氏がきみのことを好きになったのはきみがかわいかったからです、でもそれだけではありません、ほかにも理由がたくさんあります、きみも同じです、きみが彼氏のことを好きになったのは彼氏の顔が理由ですか? 違うでしょう? たとえば、きみは彼氏がとても勉強ができるのがかっこいいと思っていました、そうでしょう? というと、でも中国の男性は顔だけを重視しますという返答。日本の若者と頻繁に交流することなどまずないので比較するのはむずかしいのだが、それでもなんとなくの肌感として、中国の若者たちはルックスというものに対する強いこだわりがある気がする。いや、日本でも「ただし、イケメンに限る」や「かわいいは正義」というおきまりのフレーズが、それが主に2ちゃんねるで使われていた当初は一種アイロニカルなニュアンスをおびていたはずが、いまや(そのフレーズ自体は古びたかもしれないが)ベタに内面化されているように感じられることがたびたびある。さらにいえば、Twitterによって2ちゃんねるのノリが一般化しつつ、自撮り文化(Instagram)の興隆によってルックスに置かれる比重が増した(あるいは、比重それ自体は変わっていないのだが、建て前——建て前とはしばしば理想でもある——として一般的な価値観として共有されていた「ルックス以外」の要素を重視する言説が、その効力を劇的に失った)、そんな殺伐とした印象も受けるし、その殺伐さは「親ガチャ」という言葉の流行にも通じるものである気がする(「結果」に対する「仮定」、「才能」に対する「努力」の位置にあるすべてが広義の「環境」に還元されてしまうと考える人間の増加が必然的に生むことになるこの殺伐とした空気は、ルックスという容易には変更しがたい要素に対する底の抜けた称揚と、ひとむかし前であれば成金趣味として少なくとも表面的には下品なものとしてあつかわれていたふるまいを勝ち組のしるしとしてもちあげてしまうようになった「貧しさ」とも共鳴しているだろう)。そういう殺伐とした空気のただよう世の中であるからこそ、ニーバーの祈りはやっぱり重要であると思うのだが、しかしこの殺伐さとは「変えることのできないもの」に対する「変えることのできるもの」の地位低下というか、それを変えることができる能力や条件や状況をもちあわせている時点でそれはガチャに成功したのと同様であるのだと突きつける殺伐さであるのだよなとも思う。
- 途中、(…)さんは新疆烤肉の店に立ち寄って饼を打包した。さすがに腹が減ったらしい。しょっぱい味付けをしたナンみたいなもの。ひと口もらったが、まあまあうまかった。(…)に向かうその後の道中では犬二匹とたわむれた。一匹目は赤白のボーダーコリーでたしか生後七ヶ月だったはず。学生らしい男女のカップルが連れていた。(…)さんは興奮して自分も边牧を飼っているのだと言い、ふたりに(…)の写真を見せ、さらにはリードをあずかってちょっとだけ周囲を散歩させてもらった。男のほうは(…)さんとおなじく江西人らしかった。(…)さんは先の店で買った饼をちぎってあげた。何度も何度もあげようとするので、少しとはいえ胡椒と唐辛子がかかっているものだしあまりあげすぎないほうがいいと途中で制した。もう一匹は中年男性の連れたラブラードルレトリーバー。こちらが脇から抱えこむようにして腹をさすってやると、気持ちいいらしく後ろ足をひょいひょいひょいひょい動かした。コビィもときどきやる。じぶんの後ろ足で掻いているつもりなのだ。
- 一周してもどってきた(…)へ入店。(…)さんは(…)のための牛肉を買うつもりだったが、お目当てのものはなかったようす。代わりに豚肉や鶏肉を大量に買う。肉を検分するときに尋常でないくらいの時間をかけるので、ちょっと母親の買い物に付き合って退屈する小学生のような気分になった。肉を選んだあと、じぶんのパンがほしいというのでパンのコーナーにむかったが何も買わず、かと思えば明日の昼飯の材料がほしいといってふたたび精肉のコーナーにもどるという無軌道ぶりで、そういうところもふくめてやっぱり母親の買い物に付き合っているみたいだった、おれは大晦日にいったいなにをやっているんだろうかと思った。精算はセルフレジですませた。有料の買い物袋は買わなかった。肉をつつんだビニール袋をそのまま手に提げて店を出た。全部で3キロくらいあったと思う。
- 西門から新校区にもどり、そのまま女子寮に向かった。途中で三年生の(…)さんから声をかけられた。バッチリメイクだった。友人らとカラオケに出かけていた帰りらしい。步行街の人出はすさまじかったという。
- 女子寮前で(…)さんと別れた。肉を冷凍庫にあずかってくれるお礼にいまから飲み物をおごると(…)さんは言ったが、そんな気遣いは必要ないと応じた。それで帰宅。卒業生の(…)くんから今年はお世話になりましたの微信が届いていたので、大学院試験の手応えはどうなのかとついでにたずねると、思っていたよりもずっと簡単だったという返事があった。しかしおなじ返事をよこした(…)くんは昨年箸にも棒にもひっかからず落ちているのだから、結果が出るまではわからない。ただ、今年は大学の日本語学科のレベルが全体的に下がったという話があるわけだし、それは大学院にしてもおなじなのかもしれないわけで、そう考えると(…)くんにとってはある意味追い風ということになるかもしれない。
- 一年生2班の(…)くんからも微信。年末のあいさつ。日本語には興味のない「転籍」組であるし、授業もほぼまったく聞いていない学生であるのだが、なぜか節目節目にこちらに連絡をよこす。来学期からほかの学部に移動するときいている、しかしたった半年たらずとはいえこうして教師と学生として出会ったのも縁だ、困ったことがあればいつでも遠慮なく相談してくださいと告げる。(…)先生からも微信。うなぎや甘エビなどのっかった食卓の写真。年末のあいさつを軽くかわしたが、ほんの一通二通のやりとりであるにもかかわらず、やっぱり日本語がどことなく不自然だ。このひと日本人教師として活動しているが、母語は中国語だよなとあらためて思った。
- シャワーを浴びる。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、一年前と十年前の記事を読み返す。モーメンツに投稿するために今年の10冊および今年の10枚をまとめた画像を作成する。本は『わたしは真悟』(楳図かずお)/『水死』(大江健三郎)/『ネオリベラリズムの精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』(樫村愛子)/『あのこは貴族』(山内マリコ)/『出会って4光年で合体』(太ったおばさん)/『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』(フィリップ・K・ディック/浅倉久志・訳)/『それは誠』(乗代雄介)/『蜜のように甘く』(イーディス・パールマン/古尾美登里・訳)/The Complete Stories of Flannery O’Connor - Flannery O’Connor/The Garden Party and Other Stories - Katherine Mansfieldの10冊。正確にいえば、The Complete Stories of Flannery O’Connorは読んでおらず、A Good Man Is Hard To FindとEverything That Rises Must Convergeを再読しただけだが、あわせてThe Complete Stories of Flannery O’Connor一冊とカウントすることにする(しかしさらに正確にいえば、The Complete Stories of Flannery O’Connorのなかには、先の二冊に未収録の短編も収録されている!)。再読はO’ConnorとMansfieldと楳図かずお。音楽は『Tomorrow Was the Golden Age』(Bing & Ruth)/『Hydration / 水分補給』(天花)/『Intaglio』(濱瀬元彦)/『Private / Public』(高木正勝)/『Tracks』(空間現代)/『The Beat My Head Hit』(Ben Vida, Yarn/Wire & Nina Dante)/『Practice chanter』(Léonore Boulanger)/『J.S. Bach: Goldberg Variations』(Víkingur Ólafsson)/『我用什么把你留住』(福禄寿)/『unpeople』(蓮沼執太)の10枚。
- 大晦日恒例であるが、カール・リヒター指揮の『マタイ受難曲』を流す。そうして今日づけの記事を書きはじめる。そうこうするうちに年明けを迎える。年明けの瞬間は日記を書いていたことになるわけで、じぶんの生活を象徴するアレだよなと思う。モーメンツがまたたくまに新年を祝う学生らの投稿で埋まる。あけおメールも続々と届く。卒業生の(…)くんからは23時ごろに届いたが、彼は現在札幌で友人といっしょに遊んでいるとのこと。時差の関係で一時間はやい連絡だったわけだ。中国時間24時と同時に連絡があったのは、うすうす予想していたとおり、三年生の(…)さんと(…)さん。それからやや遅れて、二年生の(…)くんと(…)さん、一年生1班の(…)さんと(…)くん、三年生の(…)くん(意外すぎる!)、重慶の(…)さんと続いた。
- モーメンツに新年のあいさつを投稿してベッドに移動。『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』(西川アサキ)の続きを読み進めて就寝。