20240530

 私たちが木を見ているとき、私たちは木の時間を見ている。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』 p.398)



 6時15分起床。暑さのせいかなにかわからないが、ここ数日眠りが浅く、夜中や朝方に二度三度と目が覚める。そのために連日いろいろな夢をみているのだが、すべて記録しそこねている。午前中に授業があるのが悪い。午前中に授業がなければ、起きてそのままデスクにむかって日記を記録することができるのに。
 早八の日はだいたい寝不足で授業をするはめになる。たとえ寝不足であっても、歯磨きして洗顔してパンを食ってコーヒーを飲んでとしているうちにしっかり覚醒するのが常であるのだが、今日は寮を出る直前まで眼窩の奥が重く濁っている感じがあり、感覚的にいうとこれは二、三時間しか睡眠をとれていないときのアレであるのだが、昨夜はいちおう2時ごろには就寝したはず。外は雨降り。傘差し運転で外国語学院へむかう。
 8時から三年生の日語文章選読。めずらしくK.Kさんから欠席の連絡があった。下痢だという。「幸福の瞬間」第三回。前半でちゃちゃっと終わらせて後半で同テーマの作文。今日書いた作文をもとにした会話を期末テストの試験にすると説明したので、学生らはわりと真剣だったと思う。文章読解系の授業であるのにテストが会話というのも本当はよくないんだろうが、ま、そのあたりは外国人教師の特権ということで。来週以降の授業をどうするかについてはまだ考えていない。
 10時から一年生1班の日語会話(二)。昨日と同様、期末試験について説明し、自由課題としての早口言葉を紹介し、「道案内」の復習をおこなう。やる気のある学生だけに対象をしぼって授業をおこなうようになってからというもの、2班よりもむしろ1班のほうが活気のある授業をすることができるようになっている。そしてその活気にひきよせられるかたちで、授業には出席するだけして参加しないと明言していた学生らも以前より教壇に視線を送るようになっていて、これって結局アレだな、クラスの中心メンバーが複数人授業を熱心に受けていたら周囲のクラスメイトもその雰囲気に引っ張られるという、K先生がたびたび語る現象とおなじアレだな。人間というやつは本当に周囲の環境の影響を受けやすいというか、環境の重ね合わせが身体においてひとつの方向性としてまとまるそのまとまりが人間であるのだなと思う。授業開始直後、プロジェクターの不具合からスクリーンに映像が映らないというトラブルがあったのだが、S.Eくんがちゃちゃっと直してくれた。クラスメイトらも口にしていたが、S.Eくんは本当に器用で多才。日本語能力も高いし、読書家だし、写真もなかなかセンスがいいし、ピアノもすこし弾けるし、パソコンまわりについてもかなり強いらしい。ほんまにうちの学生け? という感じ。S.Gくんからは「おはよう」というのは何時ごろに使うあいさつかという質問が休憩時間にあった。きのうこちらと外国語学院の廊下で出会したとき、とっさに「おはよう」と口にしたのだが、あのときはすでに正午前だった、だから「おはよう」はおかしかったのではないかとあとで気になったというので、たしかに11時以降に「おはよう」はちょっと不自然かなと応じた。
 第五食堂で閑古鳥の広州料理を打包。食後、15時ごろまで昼寝。きのうづけの記事の続きを書いて投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読みかえす。きのうフラナリー・オコナーの「田舎の善人」を下敷きにした小説の素案がおりてきたと書きつけたところであるが、2023年5月30日づけの記事に、ほかでもないGood Country Peopleの一節が引かれていた。

(…)and the large hulking Joy, whose constant outrage had obliterated every expression from her face, would stare just a little to the side of her, her eyes icy blue, with the look of someone who has achieved blindness by an act of will and means to keep it.
(Flannery O’Connor “Good Country People”)

 これ、オコナーに典型的な比喩だなと思う。オコナーの比喩はある意味飛躍がないのだ。余地や余白がないといってもいいかもしれないが、たとえばここでthe look of someone who has achieved blindness by an act of will and means to keep itという比喩が用いられているが、喩えるものであるこの一節と喩えられるものであるthe lookのもちぬしであるJoyのあいだにずれがない。両者がぴたりと一致している。もちろんachieved blindness by an act of will and means to keep itというフレーズ自体は比喩であり、Joyは現実(物理的)に自分の意志によって盲目になったわけではないのだが、しかし象徴的にははっきりとそのような人物として描かれている。つまり、この比喩(フレーズ)はJoyという人物像とぴたりと重なり合うようになっている。遊びがない。比喩があからさまな説明になっている。それでいて説明くさく感じられないし、このような説明によって(方向づけられぬものとしての)「人間」が(方向づけられたものとしての)「キャラ」に堕しているという印象も受けない。そこにオコナーの秘密の技法がある。ふつうこんな比喩を使ってしまえば、それで「人間」が硬直して「キャラ」になり、筋も(押し寄せる図式化の作用によって)一気に風通しが悪くなってつまらなくなるのだが、オコナーの小説ではこうした比喩による人物の縁取りが、なぜかその人物を殺すことなく達成される。このあたり、一度しっかり分析したほうがいいかもしれない。

 夕飯は第五食堂で打包。チェンマイのシャワーを浴び、20時過ぎから「実弾(仮)」第五稿に着手するも、眠気が眼窩にこびりついておりあたまがうまく働いてくれないため、22時にはやばやと中断。シーン47、大幅に削る可能性アリ。
 モーメンツをのぞくと、ふだん投稿する習慣のないT.Kさんが大学院の卒業写真を投稿していた。こちらが赴任した当時、(…)の二年生だった女子学生。まずまず優秀であったが、専攻を法律に変更したうえで一浪して大学院に入学したという話を、彼女の後輩であるS.Fさんからきいていた。進学先が(…)大学であったことをくだんの卒業写真ではじめて知った。
 寝床に移動後、The Habit of Being(Flannery O’Connor)の続きをほんの少しだけ読みすすめて就寝。