20240605

 Later she heard her children playing in the garden. Lottie's stolid, compact little voice cried: "Ke–zia. Isa–bel." She was always getting lost or losing people only to find them again, to her great surprise, round the next tree or the next corner. "Oh, there you are after all.”
(Katherine Mansfield “Bliss and Other Stories”より“Prelude”)



 8時15分起床。トーストと白湯。
 外国語学院へ。学生らがすでに先着して廊下にたまっている。K.Uくんがこちらが授業中に配布した「道案内」の紙を差し出し、これをテスト中に見てもいいですかと茶化して口にするので、アホと応じる。こちらが教室に入っても学生らは廊下にとどまったまま。柵付きの窓越しにこちらのようすをながめてみせるので、動物園みたいだなと笑う。そういうわけで10時から一年生2班の日語会話(二)。期末試験その一。今日はK.Uさん、H.Yさん、T.Eさん、R.Tさん、C.Kくん、C.Eくん、S.Eさん、K.Uくん、K.Kさんの計9人。確実に「優」をつけることができるのはR.Tさん、K.Uくん、K.Kさんの三人。K.UさんとS.Eさんもたぶんぎりぎり「優」かな。T.Eさんが思っていたよりもずっとできなかったのでちょっと驚いた。やはりほかの学院に「転籍」する方向に意識がかたむいているのかもしれない。ぼろぼろだったのはC.Eくん。これは予想通り。むしろ彼が手こずってくれたおかげで授業時間をつぶすことができてよかった。もし彼がいなかったら、授業の前半だけでテストが終わっていたかもしれない。
 K.Kさんの出来が完璧だったので、発音の良さもふくめて褒めまくったところ、それで気を良くしたのかなんなのかわからないが、めずらしく昼食に誘われた。一年生の時点でこちらをマンツーマンのメシに誘う度胸のある学生は、たとえ既習組であったとしてもこれはかなりめずらしい。麻辣香锅を食すことを提案する。店に向かうべくケッタを持ちあげて無理やり病院内を抜ける。そんなこちらの姿を見たK.Kさんが最近中国で「泥棒みたいだ」みたいなフレーズが流行しているのを思い出したと言って笑う。麻辣香锅の店に来るのははじめてだという。微辣微麻でオーダーする。K.Kさんの故郷は(…)。(…)人の中では辛味に弱いほうだというのだが、オーダーされたものを辛い辛いと言いながら食っているこちらを尻目に、これは全然辛くないですといった。とはいえ、メシについては辛くないものも辛いものと同様に好むようす。将来は日本語を使う職につくべく大連に越したいらしいが、東北料理もまったく問題ないとのこと。四歳上の姉がいる。故郷は(…)であるが、その姉を含む家族はみな(…)で生活しているという。どうしてそんなにリスニングがいいのか、発音がきれいなのかとたずねると、よくインターネットで日本人が会話している動画を見てそれを真似しているという。リスニングについては、高校時代にスマホが禁止されていたので、バスでの通学時間およそ一時間をいつも日本語のリスニングにあてており、それで基礎が鍛えられたのかもしれないとのこと(K.Kさんは高校二年生のときから日本語を学習している)。つい最近モーメンツに、肌を茶色く塗って顔にもけばけばしい化粧をほどこし、サンバみたいな露出度の高いコスチュームに身を包んでいる自撮り写真を投稿していたのをおぼえていたので、あれはなんのイベントだったのかとたずねると、(…)で開催されたダンス大会だという。そういえば先学期、彼女と知り合ったばかりのときに、ダンスが趣味であるという話をきいたおぼえがあったが、これはけっこう本格的な活動らしく、毎週二回、一回につき三時間みっちり練習しているとのこと。大学関係の団体らしく(社团=サークルということだろうか?)、練習がある日は夜の自習も休むことができるというので、ラッキーじゃんというと、来月にN2をひかえているのでちょっと不安であるという。絶対問題ない。過去問をやってみたところ、文法と閲読はほぼ満点であったとのこと。たいしたもんだ。苦手なのは単語。リスニングはまずまず。
 会計はこちらがもった。学習委員おつかれさまの意味も込めてのおごりだ。店の外で別れる。Jに立ち寄って食パンを三袋買う。レジでこちらの前に女性ふたりが並んでいたのだが、ひとりが四年生のR.Sさんだったので、わざと声をかけずにじーっとその横顔を眺めつづけた。全然! 気づきやがらん! ようやくこちらのほうをちらっと見たそのタイミングで、なんで気づかないんだよ! と呼びかけると、びっくりした表情になったのち、爆笑。こちらの真ん前にいたもうひとりの女性は、黒と黄のチェックシャツを『青の稲妻』でチャオチャオが日焼け防止のためにそうするようにあたまにかぶっていたのでだれかわからず、おそらくRさんのルームメイトのだれかだろうなと思っていたのだが、そうではなかった、おどろいたことにK.R先生だった。めずらしい組み合わせだったのでその点指摘すると、たまたま遭遇したのだという。先生よく来ますかというので、ぼくはいつもここのパンを朝ごはんにしているんですと応じる。それでさよならになりかけたのだが、K.R先生は例の押しの強さでこちらの分の会計をもとうとした。いやいやいや! それはさすがにおかしい! となったが、マジで全然ひいてくれず、レジ前でかなり長い時間おしくらまんじゅうするはめになったが、いつものように負けてしまった。一部始終をながめながらR.Sさんは爆笑していた。
 帰宅。ベッドで昼寝。胃が唐辛子で燃えている。おそるおそるコーヒーを飲みながらきのうづけの記事の続きを書く。
 16時に図書館前へ。二年生のT.Uさん、R.Uくん、S.Sさんと合流。T.Uさん、だれかほかの人間を連れているのかと思ったが、そんなことはなかった。仮にR.UくんとS.Sさんがいなかったら、彼女ひとりきりでこちらを案内するつもりだったのだろうか? それはさすがにちょっと厳しいのでは? 黒地にカラフルなアルファベットの刺繍が入ったキャップをかぶっていたので、それめっちゃいいねと言うと、韓国語の先生にもらったという。
 まずは北門の外に出る。滴滴で呼んだ車に乗りこんで市税務局へ。T.UさんとS.Sさん、こちらが特にうながすまでもなく、ふつうにふたりでぽつぽつ会話をしていたので、全然だいじょうぶやんけ、どこが「ちょっと気まずいかもしれませんが」やねんと思った。
 税務局に到着。なかなか厳しい建物。入り口すぐのところに受付があり、保安员風のおっちゃんがここにサインを記せというので、名前とパスポート番号を書く。その後、tax recordが欲しいのだがといって、スマホに保存されているサンプルの画面を見せたところ、それはここでは手に入らないという。市役所のほうへ行けというので、ええーとなる。Lに電話して確認したほうがいいんではないかと学生らは言ったが、Lはそもそも財務処の人間でないしこういう場合は役所の人間の言うことのほうが正しいし、なによりも保安员風のおっちゃんがわざわざ市役所までの行き道の印刷された紙をわれわれに手渡したという事実、つまり、そういうものが事前に用意されているということはここにわれわれと同様の目的であやまってやってくる市民が実際多いのだという事情が察せられたので、Lには連絡せずそのまま役所のほうにむかうことにした。
 それまたタクシーに乗った。郊外にむかうこともあってか、窓外の景色が徐々にこちらのふるさとを思わせるものになっていく。このあたりちょっとぼくの地元に似ているんだよなと漏らすと、後部座席のR.Uくんが「高い建物が全然ない」と口にし、それではっとした。こちらが「地元」を感じる景色というのはたしかに、言われてみればおそろしく単純であるのだが、高い建物が視界にひとつもない景色なのだ! おなじ後部座席で女子ふたりが韓国留学について話しているのが部分的に聞きとれた。四年生時の交換留学が決まっているT.Uさんに、むこうの大学ではなにを勉強するつもりなのかとたずねると、R.Uくんがふざけて日本語と答えた。実際は会計学らしい。韓国語での会話はどれくらいできるのとたずねると、ちょっとうつむいてみせるので、どうやらそっち方面にはあまり自信がないらしい。T.Uさんは実際、日本語も会話に関してはあまりうまくない、というか単純に「会話」のための練習が不足しているなと感じられることが多々ある。韓国語に関してはしかし、現在週に二日間練習をしているという。金持ちの彼女のことであるし、家庭教師でもつけているのかもしれない。
 市役所に到着する。総合受付みたいなところへ行って英語で事情を説明する。カウンターの中にいた女性四人全員が固まってしまう。学生らがすぐに中国語で交渉してくれる。のちほど学生らから、ひとりでずんずんカウンターのほうにむかっていく先生がちょっと面白かったと言われた。役所だから英語も通じるだろうとこちらは思っていたのだ。順番待ちのためのチケットを発券する必要があったのだが、これは身分証の番号を打ち込む仕様だった。当然外国人には対応していない。先生ぼくたちがいてよかったねとR.Uくんが言うのに、うんうんとうなずく。
 スタッフにうながされた方向に歩く。税関係の窓口がほどなくして見つかる。カウンターはガラガラ。女性スタッフらが五人か六人ほどいたが、みんな暇そうにしていた。事情を告げると、みんな険しい顔つきになる。この反応にも慣れている。だれも外国人の対応なんてしたことがないのだ。所得税の記録を出すには身分証の番号が必要だというので、外国人なのでそんな番号はない、パスポート番号で代用できるはずだと学生経由で伝えると、代用なんてできないという返事。まあまあまあやってみてくれとパスポートを手渡す。できるのだ。こちらは知っているのだ。身分証の番号がもとめられる場面はこれまでにも何度もあったが、たいていはパスポート番号で解決できたのだ。スタッフらははじめてとなる仕事にかなり手こずっているふうだった。T.Uさんは四年生時に韓国に行くし、R.Uくんはこの七月から日本に行くし、そのときもやっぱりこういう面倒くさい役所の手続きがあるはずだよというと、T.Uさんは同級生四人といっしょに行くので心配じゃないと言った。交換留学に参加するほかの学生はみんな芸術学院の子たちだという。七月からのインターンシップについて、O.GさんとR.Kさんの二人は参加することができなくなったとR.Uくんがいった。仲介会社側の都合らしい。それまで面倒臭い準備をさんざん重ねてきたのに、突然今回は無理だとはねつけられたのだという。R.KさんにいたってはわざわざインターンにあわせてN1の試験までキャンセルしたのにというので、ええー! となった。前代未聞だ。しかしそうなると二年生のスピーチ代表は彼女になるかもしれない。そうなってくれたら正直ちょっとありがたい。
 そうしたわれわれのやりとりを見ていた手隙のスタッフらが、このひとは中国語が理解できるのかと学生らにたずねるので、一点点とこちらがひきとった。得体の知れない外人の得体の知れない依頼にピリついていた空気もいつのまにかしっかり弛緩しつつあった。これも慣れっこだ。よくある光景だ。役所は17時に閉まる。その17時前ぎりぎりにようやくブツが印刷されたので、よかったよかったとなって確認したところ、パスポート番号はこちらであるのに、名義がMさんになっていた。は? となった。所得税の記録もMさんの就労期間にぴったり当てはまる。すぐにピンときた。大学側のミスだ。連中がMさんの名前とこちらのパスポート番号をあやまって紐づけていたのだ。これ、もしかして相当めんどうくさいことになるのでは? 場合によっては税金の払いなおし払いもどしみたいなアレになってくるんではないか? 学生らがスタッフに確認したところによると、やはり大学側の手続きミスらしい。役所に来る前にわれわれが立ち寄った税務局にて名義変更する必要があるとのこと。変更後に所得税の証明書もそこで受け取ることができるという。そのあたりの手続きについては大学側がするものだろうから、いったんロビーのベンチにもどったあと、Lに微信で事情を伝えることにした。中国語で伝えてもらったほうが手っ取り早いし誤解もないだろうということで、S.Sさんにスマホを丸投げして事情を説明するメッセージを作成してもらう。
 役所の外に出る。クソ大学! (…)垃圾学院! などと学生らと罵詈雑言をたたきながら道路沿いに出る。事前に交わした約束どおり学生らには夕飯をおごるつもりだったが、夜の自習があるからあまりゆっくりできないのかとたずねると、自習には参加しなくてもよくなったという返事。とうとう外国語学院がルールを変更したのかと驚いたが、そうではなかった、日本語学科だけの話だった。何度注意されてもみんな自習に参加しない、それでもう日本語学科の二年生にかぎっては自習は自由参加になったのだという。団結の力です! とR.Uくんがいうので、クソ笑った。そんなことがあるのか! コロナ期間中、うちの大学の理不尽な封校政策をキャンセルさせるために、学生らが一丸となって微博に批判を投稿して見事炎上させたことがあったが、あれとおなじノリなのかもしれない。
 タクシーにのって万达へ。昼間に辛いものを食って胃がやや燃えていたので、浙江料理店のPへ行くことに。万达のテナントはまたしても入れ替わりまくっていた。前回、四年生のC.IさんとR.Mさんといっしょにおとずれたアニメ・漫画グッズの店について話すと、R.Uくんが予想通り興味津々のようすだったので、メシを食う前にそこをのぞくことに。T.Uさんは日本語学科の女子としてはめずらしくアニメにはまったく興味がないタイプ。S.Sさんもおそらくそれほど興味はないと思われるが、それでも彼氏であるR.Uくんの影響はある程度は受けているはず。リアルな犬の顔面を模したゴム製の、手にかぶせて「わんわん!」できるしょうもないおもちゃがレジ前に売っていたので、それを装着したうえでふざけてT.Uさんに「わんわん!」と襲いかかると、想像以上にデカいリアクションがあったのでこっちがビビってしまった。T.Uさん、かなりビビりらしい。
 Pへ。時刻は17時半ごろだったので店はガラガラ。オーダーをすませて女子ふたりがトイレにむかったあと、C.RくんがK.Kさんと付き合うようになってからというもの日本語学習に身を入れはじめたのはけっこうおもしろいよねとR.Uくん相手に話していると、S.Sさんもそうかもしれないという返事があって、あ! たしかに! となった。S.Sさんも元々それほど勉強熱心ではなかったが、R.Uくんと付き合うようになり、そしてそのR.Uくんを介してこちらと交流するようになり、スピーキング能力とリスニング能力が目に見えて向上しはじめたのだ。
 女子ふたりがもどってくる。メシを食いながらいろいろ話す。T.Uさんのアイドルである韓国語の先生の話にまたなる。大学からかなりの額の給料をもらっているというので、いくらなのとたずねると、二コマ(90分)につき1000元とあったので、はァ!? となる。こちらは週に五コマ授業を担当しているので、もしおなじ額をもらっていれば一週間で5000元、一ヶ月で20000元ということになる。マジでもらいすぎやろ。こちらの給料が現状10000元以下であること、赴任した当初は6000元であったことを告げると、三人ともびっくりしていた。まさか外国人教師がそんな安月給で働いているとは思ってもみなかったようす。T.Uさんの母校であるのか、あるいは彼女の故郷にある有名な進学校の話かもしれないが、そこの教員は年収100万元だというので、ええー! と三人そろって声をあげた。
 四年生のK.Kさんの話もする。卒業できないかもしれない学生がいるという話については三人ともS先生から聞いていたというのだが、なんか変なマルチ商法にハマっているらしいんだよねと、「マルチ商法」を中国語の辞書で調べてから伝えたのち、「成功学」がどうのこうの言ってるらしいんだけどと続けると、R.Uくんがびっくりした表情を浮かべてみせる。中国でものすごく有名な詐欺の会社だという。やっぱりそうなのか! しかも上司と付き合っているらしいんだよね、典型的だよね、たぶん家族や同級生とも連絡をとらせないようにしていると思うしというと、警察を呼んだほうがいいというので、でもああいうのって警察沙汰にならないぎりぎりのところで活動しているんじゃないのとたずねると、中国の法律ではアウトなはずだという反応。
 これまでに一番幸福だった瞬間はいつですかとS.Sさんから不意にたずねられる一幕もあった。むずかしい。答えられない。多幸感に包まれたというわけではないが、「これでよし!」というふうに確信がもてたという意味では『A』を脱稿したときか、あるいは出版したときかもしれないなと思われたので、最初の小説を発表したときかなとあいまいに答えた。それからどういう流れになったのか忘れてしまったが、むかしばなしをせがまれたので、地元でヤンキーに囲まれて育ったころの話といろいろぶっ壊れまくっていた家庭の話をしたり、京都にはじめて出てきたときの衝撃、育ちのよい同級生らと知り合ったときの天地のひっくりかえるような混乱、上洛前後で前世と今世くらい別の人生を生きることになった経緯などについて話した。三人ともびっくりしていた。そういうこちらのぶっちゃけ話に動かされるところがあったのだろう、T.Uさんが少し涙目になりながら、自分は子どものころ両親からずっと体罰を受けていたのだと不意に告白した。母からは素手で殴られ、父からは棒で殴られたという。特に学校の成績が悪かったときがひどかったという。Tさんの母親は学がないことで社会に出たあとひどく苦労したらしく、娘には同じ目に遭ってほしくないという理由でそうしていたらしいのだが、そんな理由で正当化される問題ではない。幸いなことに、いまは関係がよろしいとのこと。
 店を出る。帰路はタクシーを利用せず、(…)公园を通り抜けることに。今日は気温が低く、夕方はTシャツ一枚ではやや肌寒いくらいだった。例によってドブ川沿いのトンネルを抜ける最中に「わっ!」とやる。T.Uさんがここでも特段すばらしいリアクションを見せてくれる。T.Uさんはやっぱりかなりのこわがりらしく、たとえば生き物は全般苦手で、犬も猫も鳥も魚も全部ダメらしい。子どものときにせまい路地を歩いていたところ、前方から犬がやってきた、その犬のそばをすりぬける勇気がどうしても出ずに路地で三十分立ち往生したあげく、あきらめて元来た道を引き返したことすらあるという。
 公園内ではおばちゃんらがダサい音楽にあわせて広場ダンスをしている。例によってこちらもふざけて合流する。そしてその姿を学生らがゲラゲラ笑いながら撮影する。この動画はのちほどモーメンツに投稿した。
 T.Uさんにとっては気の毒な話であるが、公園内ではたくさんの犬と出会った。まず、ものすごいデブのボーダーコリーを見かけた。その場にしゃがみこんで手をのばし、おいでおいでとやったが、こいつはこちらのほうをちらっと見ただけで、飼い主とそろってすぐに去ってしまった。次に柴犬を見かけた。こいつはこちらの手招きに気づくとすぐにてくてくとやってきた。最初は少し警戒しているふうだったが、こちらのゴッドハンドによってすぐに懐柔され、最終的にはまるで猫みたいにこちらの腕や体にじぶんの体を何度も何度もこすりつけてきた。S.Sさんも犬がちょっと好きらしいが、あたまを上からなでにいこうとするので、初対面の犬にそれはやめたほうがいい、手は下から出しなと助言した。別れてほどなく、その柴犬と追いかけっこしている白い大型犬の姿を遠目に認めたが、なぜかそいつがはるか遠方にいるこちらのほうに猛ダッシュでやってきた。T.Uさんは当然悲鳴をあげて逃げようとする。逃げたら追いかけるおそれがあったので、その進路にたちふさがるようにしてから手を下にのばして待ち受けてやると、こちらの足元ですぐに停止して、初対面にもかかわらずなでろなでろと催促しはじめたので、そのとおりにしてやった。R.UくんとS.Sさんはびっくりしていた。どうしてあんな遠くにいたのに突然先生のところにやってきたの!? というので、たぶんぼくの腕はおいしそうなにおいがするんだよ、ケンタッキーのにおいがするんだよと答えた。白い大型犬は雑種だった。水場で遊んだ直後なのか、毛の一部が濡れていた。さらにその先でさっきとは別のボーダーコリーを見かけた。これはものすごく小さかった。中年夫婦が散歩させていたので、何歳なのとたずねると、四ヶ月であるとの返事。うちには14歳の子がいるよというと、旦那さんのほうがびっくりしていた。四ヶ月の子の名前は多福。いい名前だ。その場にしゃがみこんで手をのばしてやると、多福は最初警戒したようすだったが、じきにこちらに体を許した、ほどなくしてその場にあおむけになってこちらに腹をさらした。飼い主の夫婦がなにやらぼそりとつぶやいた。あとで学生にきいたところによると、多福はこれまで飼い主以外に体をさわらせたことが一度もなかったらしい、それが突然あらわれたこちらに腹までさらして甘えていたのでびっくりしたとのことだった。犬にはこんなにモテるのに人間にはなかなかモテないね、犬の世界に生まれていたら38歳独身ということもなかっただろうねというと、三人は笑った。
 大学にもどる。そろそろキャンパス内でフリーマーケットが開催される時期ではないかというと、ほかでもない今日から開催だとT.Uさんがいう。だったらついでにのぞいてみましょうという流れになったのだが、例年よりもはるかに売り子が多かった。第三食堂から第四食堂まで道の両脇がすべて売り子で埋まっており、かつ、第四食堂近くにあるバスケコート付近もそのぐるりを取り囲むかたちで売り子に占められていた。第一夜ということもあって買い物客も非常に多く、学生のみならず近所のおっちゃんおばちゃんらものぞきにきているのだが、店を出している学生の大半は卒業生であり、寮を出るにあたって不要な私物を捨て値で販売するというその性質上、売り物としては中古の教科書、使いさしの化粧品、女性用の衣類などが多く、こんなもんおっちゃんおばちゃんが見てもしょうもないやろとちょっと笑った。
 しかしとんでもない混雑だった。全部の店を丁寧に見てまわることなど全然できない。とりあえず第四食堂のほうまで道なりにおざなりに見学したのち、バスケコートの周辺をぐるっとまわった。第三食堂付近に雲南省の手作りの民芸品を売っている女子学生がいて、あれはちょっとほしかったが、いやああいうものって買った時点がピークであり、帰宅してさてどこに飾ろうかなとなるころにはその魅力がすっかり失われてしまう、そういうブツである気がする——と思ったが! もうすぐ帰国なのだった! ということは弟に「いやげもの」を買っていく必要があるではないか! やはり買っておくべきだった。途中、日本語の教科書を売っている学生がいた。見知らぬ顔だった。ルームメイトの私物だ、ルームメイトはいま席を外していると売り子の男子学生がいうので、なんという名前かとたずねると、刘なんとかいう男子学生だという。四年生の男子に刘くんなんていないぞと思ったところ、そのルームメイトは日本語学科の学生ではなく、ただ高考にあたって日本語を選択しただけの他学部の学生であることが判明し、なーんだとなった。そのそばではクレーンゲームの景品にありそうなちいさなキーホルダーっぽいぬいぐるみを大量に売っている女子がいた。売り物の量から察するに、これは学生ではなく業者だな、学生のふりをして在庫をここで売り捌いているんだなという感じだったが、R.UくんはここでS.Sさんのために長ネギを模したキャラのかわいいぬいぐるみをひとつ買ってあげていた。9.9元。われわれのやりとりをききつけた売り子のお姉さんが、あんた日本人? というので、そうだよと応じると、好酷〜好酷〜とくりかえし口にした。あんた日本語上手だねと続く言葉にはみんな笑った。例によって連絡先を教えてよとせがまれそうだったので、ここははやめに退散することに。
 三年生のC.SさんとR.SさんとK.Kさんが店を出していた。C.SさんとR.Sさんの手作りのブレスレットを売っている。売り上げは上々のようす。C.Sさんは一年生のときも裏町付近で自作のアクセサリーを販売していた。今日はC.RくんとデートしないのとK.Kさんにたずねると、「彼はバカです!」という返事。どうやらケンカしたっぽい。くわばらくわばら次元刀。お客さん呼んであげようか? とC.Sさんに言ったあと、ひとだかりのほうにむけて、同学们, 来来来〜! と声を張りあげると、社恐のS.Sさんがすぐに逃げた。C.Sさんは爆笑していた。
 近くでは本を大量に売っていた。英語の本はないかとたずねると、ディケンズのなにかとJane AustenのPride and Prejudiceだけがあった。せっかくなので後者を買うことに。10元。大学内では以前Wuthering Heightsの原書も買っている。
 フリーマーケット見物はそれで終わり。どっと疲れた足取りで寮にもどる。学生三人は図書館に行くという。四級試験が近いので勉強する必要があるのだ。

 その四級試験について、今回がダメでも来年またチャンスがあるんだからあせらなくてもいいよというと、S.Bくんは現時点ですでにあきらめている、四級試験の本番は来年だと言っているとR.Uくんが言った。するとT.Uさんが、S.Bくんは彼女といっしょに図書館で勉強している、このあいだもN2の問題集をひらいていたと言った。R.Uくんはわざわざその場に立ちどまり、あごが地面につくほどのいきおいで大口をひらき、ああ!? と叫んだ。よほど信じられないのか、あのS.Bだぞ!? (…)! (…)! (…)! だぞ!? と中国語で彼の名前を漢字一字ずつ発音してたしかめた。T.Uさんは、そうだ、あのS.Bだ、わたしも最初見たときはびっくりしたと受けた。R.Uくんはマジで信じられないようすだった。S.Bくんとはルームメイトであるが、彼はいつもゲームばかりしているし、勉強は好きじゃないと公言している、それが彼女といっしょに図書館でひそかに勉強しているなんて! というおどろきであたまが混乱しているようすだったので、Sくん学婊だなと笑うと、S.Sさんがびっくりした顔でこちらを見た。まさかそんな単語を知っているとは思ってもいなかったのだろう。
 交差点で三人と別れる。帰宅し、チェンマイのシャワーを浴びる。支払いを立て替えてくれていたT.Uさんに食費とタクシー代を払う。三人からそれぞれ今日撮影した写真や動画が送られてくる。T.UさんとS.Sさんはこちらが広場ダンスしている写真やゴム犬を手にかぶせてわんわんやっている写真をモーメンツに投稿していた。今日はMの話をたくさん聞いた、感じ入るエピソードが多かったみたいなことをコメント欄に投稿していたので、むかしばなしをしたのがよかったのかなと思った。
 きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、1年前と10年前の記事を読み返した。明日の授業の準備をちゃちゃっとすませ、今日づけの記事の下書きとしておもいだせるかぎりの瞬間を箇条書きしておいたのち、ベッドに移動。The Habit of Being(Flannery O’Connor)の続きを読みすすめて就寝した。