20130523

 過去の記憶というものは、そこに中心をなす事件があれば、後からその事件に与えた解釈に従って都合よく整頓されてしまうものだ。従って必ずしもその当時の、事実の得られた順序を追って、現実の持つもどかしげな、不確かな、不鮮明な印象のままに、今も形づくられているとは限らない。その夏に僕の経験したことどもは、その終り頃に起った事件があまりにも強烈に僕の頭脳に焼きついてしまっているために、ともすれば僕は最初から悲劇を予想していた、僕はその事件の進行に立ち会っていた、とつい思いがちなのだが、それは記憶がすっかり整頓され、僕がすべてを知る者の眼から過去を振り返っているからだろう。
福永武彦「廃市」)



11時起床。頭が働かない。外国に行きたい。(…)と日本で一夏すごすよりもまたいっしょにタイをぶらついたほうがきっとおもしろい。ゲストハウスの熱気。天井のファン。市場の腐った魚のにおい。ペットボトルにつめた洗剤。生乾きの衣服。ナイトマーケット。熱気。熱気。熱気。あのすごい日中の熱気!スコール。バイクのふたりのり。滝。洞窟。ジャングル。バス。ソンテオ。トゥクトゥク。食べ歩き。コーヒー。ホットチョコレート。バナナ。名前も知らないたくさんのフルーツ。夜ごとの長話。麻のシャツをはおる起き抜けの肌。汗。路上の水たまり。盗まれたサンダル。言語からの疎外。重い荷物をせおいながら新たな土地でゲストハウスを探しまわるひとときの気まずさ、苛立たしさ、ぎすぎすしたあの感じ。ケンカばかりしていた。ゲッコーの鳴き声。いくつかの誘い文句。レインコートを脱ぎ捨てて傘をさす腕にからむもう一本の腕。奇蹟みたいだった。高揚した。中華街のヌードル。古本屋で見つけたニーチェ、たしか『このひとを見よ』の英訳だったが、それはつい先日まで(…)の鞄の中に入っていたものだ。パーイのアクセサリー。こちらを驚かそうとして背後からかけよる足音にすでに聞き覚えがあるという事実にうたれた別れの四日前。カオサンにいたセネガル人、家族と離れてひとりで暮らしていると告げると、ということはおまえもおれと同じ出稼ぎ労働者かという返事があった。そこで買ったバンダナは(…)への土産だ。帰国三日前。すでに独り歩きのさびしさ。サンダルを盗まれたのはそのタイミングだった。旅行者であふれかえるインターネットカフェ。周囲をかえりみず大声でスカイプする西洋人たち。ローマ字で更新したブログ。撮りそこねた写真。英語で見た夢。帰国後の実家で寝起きする朝方、覚醒手前の頭がそのたびにここはどこのゲストハウスだったっけと記憶をたぐろうとした。美化されていく思い出にたいする必死の抵抗がすべてむなしい。必要としてくれるひとの必要におもいっきり応えてやると決めた。
フラッシュバック!フラッシュバック!どうしてじぶんは日本にいるのか?なぜ今年の夏を外国で過ごそうとしないのか?
13時より16時半まで発音練習&瞬間英作文。30分の仮眠をはさんで17時より20時過ぎまで音読。きのう肉を食いすぎたので朝から何も口に入れていなかったのだが、この時間になってもまだ空腹が遠いという事実におどろく。いくら腹が減っていないからといって何も食わないというのもまずいだろうというアレから(…)からもらった冷凍チャーハンと納豆で簡単な夕食をすませて入浴。のち22時より逃現郷にて延々と抜き書き作業。1時まで。キャサリンマンスフィールド『幸福・園遊会 他十七篇』と『知の論理』を片付ける。残すところは『レイン わが半生』のみ。抜き書きってやつはどうにも徒労の感が強い。
いまの職場を辞めることになったら次は日雇い労働か短期バイトに限定して探そうと思った。金が底を尽きたら働き、貯まるものが貯まればふたたび遊民と化す。このスタイルにはある意味、自給自足生活に似た優雅なおもむきがある。あるいは、四の五の言わずさっさと物価の安い東南アジア諸国へ渡っちまうか。いずれにせよ、いまの職場は年内いっぱいくらいを目処に辞める方向で舵をきっていったほうがいいような気がする。直観が逃げ道の確保を急げとうながしている。こんなことを言いながら結局いぜんの職場みたいに気づけばオリンピック一周期分居座っているということもおおいにありうるのだろうが。そんな退屈さはなるべく避けたい。退屈を感じるとすぐに死にたくなってしまうのは悪い癖だ。小説を置いてけぼりにしてしまいたくなるほど刺激的な何かがあればそれはすばらしいことだろう。じぶんの七年間をまんまと裏切ってみせるという倒錯したよろこびがそこにはある。いつのまにか小説を書くための時間よりも英語を勉強する時間のほうを優先しているじぶんがいる、と、それはちょっといいすぎか。読書や映画鑑賞が毎日の習慣として組み込まれていたあの時間割がすでに遠いのはたしかだが、この時間割が期間限定の特別スケジュールにすぎないものなのか、それとも夏が過ぎ去ってなお続くたぐいのものであるのか、そこでぜんぶ決まる気がする。
英語の勉強をはじめてたぶん一ヶ月ほどになる。(…)がはじめて来日の意図をこちらに告げたのは年明けすぐだった(…)。なぜ、このときすぐに勉強を開始しなかったのかと悔やまれるが、《とにかく英語の勉強をしなきゃならん。すると必然的にまた読書の時間が減る。これは厄介だ。しかしこれも帰国当初のように毎日五時間六時間みたいなやりかたをとらなければいいだけの話であり、いちおうduoはひととおりやり終わっているのであるし毎日それをちょくちょく見直すなり読み直すなりシャドーイングするなりするだけでいいんでないか。じぶんの悪いところはこれをやると決めたらそのこれに一点集中しなければならないというオブセッションがたやすく働いてしまうところだ。そしてその一点集中が何らかのかたちで不可能であると判明したとたんにそれを完全完璧跡形もなく放りなげてしまう。すぐに「切る」。もう27歳だ。もっと地道な共立併存の道を探らなければならない。しかしいずれにせよ英語の勉強という生活習慣の増加を考えるとここで仕事を辞めることに決めたのは正解だった》というこの日書きつけた決意や見通しの大半を現状すでにうらぎっているのはちょっとおもしろい。毎日五時間六時間は英語の勉強をやっているし、Duoなんてもはや移動時間にちょっと聴く程度でしかないし、これをやると決めたらそのこれに一点集中しなければならないというオブセッションはまんまと働いているし(こうした傾向についてはじぶんでは神経症的めいたものだと思っているが、(…)はpassionだというし、ストイシズムだというひともいれば狂気だというひともいるし、ただのヒマ人やないかと突っ込まれたこともある)、仕事は(…)さんが便宜をはかってくれたそのおかげもあってどうにか続いている。勉強と執筆が共立併存していると、これはかろうじていうことができるかもしれないが、0か1でしかものを考えられないバランスの悪さはあいかわらず健在らしい。
2時より4時前まで自室で「偶景」作文。190枚。《孤独を誇るという矛盾。誇る身振りそのものが、他者のまなざしをしたたかに前提している。》というこれちょっとひねりがなさすぎるなーというくだりをなんとなく追加してしまって、やっぱりアフォリズムめいたものはあまりいれたくないと思う。もったいない精神がついつい働いてしまって、あれもこれもと追加してしまっているのが現状であるけれども、意味のうるささや下品さとはなるべく遠いところで清潔に勝負したいというのが当初の目論みではあったはずなのに、200枚を間近にひかえたいまざっとふりかえってみると、やはり善くも悪くも免れがたい意味の臭気がそこいら中に漂っていて、これはこのまま押し通すべきなのか、それともいちど大規模に滅菌消毒してしまうべきなのか、判断に悩む。