20131114

 つまり、パパのやったのはいまどきのセラピスト連中がやろうとしてるようなことだっていうわけ? 患者に、コンテクストの枠づけ直しや再定義を迫るっていう。
 ヨブの話もそういうとらえ方でとらえられるのがおわかりか? 神は嵐のなかから、ヨブ自身の自己感覚が野生のヤギがいつ子を産むかという知識を含むところまで拡がらないかぎり、自分と神との関係がまずいなんてことで不平を鳴らせないんだと説く。それはヨブの問題をカッコでくくることになるだろう。
 神のサイコセラピストってわけ? 宗教ってほんとにそういうカッコの構築と解体にかかわるものなのかしら? そして、分裂症は失われたカッコの物語として分析できるのかしら?
 まあ、それがどんなものについてでもないことはたしかだな。
グレゴリー・ベイトソン+メアリー・キャサリンベイトソン星川淳吉福伸逸・訳『天使のおそれ』より「メタローグ:秘密」)



10時起床。さみーしかいーね。蕁麻疹がとうとう未踏のサンクチュアリこと足の裏にまで達しやがった。踏み荒らすという動詞の黒幕ともいうべき領域がここにきてしかし踏み荒らされる聖域の側にまわったという図式のしょうもないおもしろさ。腰がすごく痛い。
12時より発音練習&音読。勉強中コーヒーを入れるためにおもてに出ると日射しがポカポカしていてすごく気持ちがよかった。ティファールに注いだ水がぼこぼこと音をたてて沸くまでのわずかな時間をひだまりのなかでのストレッチに費やすのがとても愛おしく、昼間っから公園や河川敷でラジオ体操をしたり太極拳をしたりなにをするでもなくぼんやりとベンチに腰かけている老人の気持ちがすとんと腑に落ちた。窓のある部屋に住みたいとひさしぶりに思った。窓辺に机を置いて作業することができたらどれだけ素敵だろう。カーテンが風に揺れるのを見たい。レース越しに射しこむ光が木漏れ日のような模様を落として机の上や本の表紙やキーボードの上をさまようじぶんの手の甲やをまだらにいろどるのを目にしたい。「虹をつかまえることはできないわ」。それは冬の光景ではない。光が欲しい。もっと光を、死の床についたゲーテはそう言った。それから格子戸を開けてくれとつづけた。格子戸を開けてくれ。なんという言葉だろう!
日射しのあるうちにおもてを歩きたかった。ゆえに16時でいったん勉強を切り上げることにして歩いて図書館まで出かけることにした。あびせられた夕暮れ時のひざしをおもてにたたえながらも決して撥ねつけない建物の壁のあのあたたかな色合いがとても好きだ。昼間の光がさしこむ線であるのにたいして、夕暮れのひかりは包みこむ面である。日射しのあるうちにおもてをぶらぶら歩いているとそれだけでよみがえったような気分になる。よみがえったようになる気分の現実からひるがえってならばそれまで瀕死の淵にでもあったのかと思う。あったのだとすればそれこそがまさしく自覚のとどかぬ域でくすぶるストレスだろう。こいつが発疹となりミミズ腫れとなり12時間ごとの節目に目をさますかゆみとなる。
パーキングエリアに停車した黒い車のボンネットにうつるじぶんの姿をながめながら架空のバットを両手に素振りをくりかえし自らのバッティングフォームを余念なく確認する少年を見かけた。どうしてわざわざこんなところでと思ったが、黒い車の運転席にいままさに乗りこもうとする女性が少年のほうになにかをうながすような目線を送るのを見て、合点がいた。少年は母親がバッグの中から車の鍵をとりだして扉を開きその中に身をすべりこませるまでのわずかなひとときをも逃さず自らの訓練に組み込もうとしているのだ。こいつは同類だと思った。刻一刻と減りつづける砂時計の時間を呪われしものの解像度で明瞭に幻視しているわが眷属。
図書館では中島らも『バンドオブザナイト』を借りた。いまのアパートに越してから通うになった最寄りの図書館は以前通っていた館にくらべると格段に規模が小さくて陰気でぱっとせず利用者層の平均年齢もぐっと高い。(…)の来日する前日、着替えをほとんど持ってきていなかったこともあって(…)兄弟の案内で古着屋をぶらぶらめぐらせてもらったのだけれど、たぶん立川という名前だったと思う地方都市の主要駅みたいな駅におりてそこそこの人手のなかを歩いているときに(…)くんがここにある図書館はとても品揃えがいいといっていて、具体的にどういった固有名を挙げていたのかはさっぱりわすれてしまったけれどへーそんなの貸し出ししているんだと驚くような音源があげられていてさっすが東京と(…)くんの置かれた環境をいくらかうらやましく思ったりもしたのだけれどそうじゃなかった、思い出した、(…)くん自身はたしかその図書館に出かけることはあまりなくて(…)くんのツレだかか頻繁に利用しているとかいう話でフリージャズの音源なんかもけっこう揃っているという話だったのでへーマジかよと思ったのだった。それで驚いたことにその(…)くんの友人というのもこのブログを読んでいるらしくて、というのもそもそものふたりの接近がたしかtwitterだったかskypeだったかfacebookだったかわすれてしまったけれどネットまわりのなんかでその友人がこのブログに言及していたのかだったかどうだったか、そのあたり忘れてしまったけれどとにかくなにかしらの痕跡を手がかりにたしか(…)くんのほうからコンタクトをとってうんぬんという経緯だったはずでいずれにせよ男だったからいいもののこれで女の子だったらちょっとおまえなにひとの手柄横取りしてんだという話であってワイもマイミクほしい。服屋でセール品の七分丈を試着しているとスタッフからひょっとして関西のひとですかとたずねられたのを覚えている。あの瞬間がいちばん関東を感じた。
腰の痛みが右の尻にまでまわってきている。腰痛キャリアの長い(…)さん曰く、悪いときほど尻のほうに痛みがくる。ストレッチはわりとまめにやっているのだけれどそれだけじゃあ誤摩化せない。かといって蕁麻疹持ちが湿布を貼るわけにもいかない。ジョギングと筋トレも今週いっぱいは様子見するつもりだったけれど、しかしこの状況をただ指をくわえてだまって見ているだけというのがまた耐えがたい。ゆえに妥協案として筋トレだけすることにした。ジョギングはたっぷり汗をかくので蕁麻疹の眠りをよびさますことになるかもしれんが(このあたり次の通院時にきちんときいてこようと思う)、軽い筋トレ程度だったらまあ大丈夫なんじゃないだろうかと決めつけて、(…)にもらったバイブル片手に腹筋と背筋をおそるおそるしごいた。せいぜいが一週間かそこらの我慢なのだからとりあえずいまだけでも安静にしておけばいいのだろうけれどそれができない、どんと構えていられずについついせかせかと動いてしまう。ただ耐え忍ぶことができない。ヴァルザー曰く「何かを創り出す人間は楽だ」。口を閉ざし目をつむり両手両脚を動かさずただだまって時のすぎるのを待つほどしんどいこともない。それができないというのは要するにせっかちということだろうか。むしろ、気が小さいのだというべきかもしれない。
一難去ってまた一難ならまだしも一難去らぬうちにまた新たな一難のやってくるような体のつまずきの数々それ自体がなによりも強烈なストレスの要因になっていてこれだと加速度的に事が悪い方向にむけて転がりだしてしまう。あちらも立たなければこちらも立たない全方位インポ野郎だ。クソ忌々しい。
夕食を喰らい仮眠をとったのちシャワーを浴びるべく大家さんのところにむかったら先客がいたので部屋にもどってきてここまでブログを書いた。それからあらためてシャワーを浴びにいった。シャワーを浴びていると内腿のあたりにぽつぽつと赤いのが出現しだし、あーこれやばいなーと思っていたのだけれどそれ以上症状がひろがることはなかった。ゆえに調子にのって、というかほとんど実験のような気持ちで湯につかってみたのだが、すると案の定赤いぽつぽつが増えはじめ、けれどもやはり思っていた以上にひろがることなく内腿の一画でおさまった。これは回復のきざしなのかもしれないと思いながら部屋にもどってストレッチをし、23時より「偶景」にとりかかったのだけれど苦労した。先日の気絶についてブログに書き記したものを基礎に時間と空間の瓦解とその再構成の過程を焦点に考察風の記述を試みたのだけれどこれがたいへんむずかしく、というかそもそもこれ「偶景」でもなんでもないじゃんという話であるのだけれどそれをいえばそもそもお気に入りのアフォリズムやらかつて書いた小説の断片(これについては以前過去作をふりかえったときに書き記しておくのを忘れた。古井由吉『白髪の唄』の影響を受けて文体を一新する契機となった100枚程度の短編で、たしか「絶景」の前に書いたものであるように思うのだけれどこれも結局書きあげるだけ書きあげてどこにも応募せずにボツにした。ボツにしたものの、しかしある意味では偶景の連鎖だけで成り立っているような小説であってところどころ見るべき記述があるので、部分的にそっくりそのまま「偶景」に流用することにしたのだ)やらも断章のひとつとして挿入しているわけであるしまあいいかという案配ではあるのだけれど、それとは別になんとなくこの「偶景」がさいきんおもしろくなくなってきているというか、書きだした当初こそ描写に重きを置いていたのが、あるいは情報量の過密な文体に傾いていったその副作用なのかもしれないけれどもだんだんと抽象的かつ思弁的なものになっていっているような気がしないでもなく、たとえば具体的な風景を描写するのにぜんぜん具体的な言葉遣いを採用していないみたいな気がかりみたいなものがあってそれがかえっておもしろくなっているのであれば問題ないのだけれど率直にいっておもしろくない方向に傾きつつあるような気がする。そしてなにより「偶景」に書くべきことはすべていちどこのブログに書いてしまっているという二度手間二番煎じの退屈が書き手としてのこちらにつきまとうわけでモチベーションも低下する。どうしたもんか。ときどき「邪道」とまとめてボツにしてしまいたくなる。あるいはかねてからの構想どおり「偶景」専用のブログをたちあげるか。

 すし詰めになったエレベーターの個室内で、赤の他人同士であるはずの乗員らがみな、あらかじめそうした取り決めを結んでいたかのように、そろいもそろって扉の上手に沿ってならべられた階数を示すランプの横移動を、押し殺した私語の分だけふくらんだ強い瞳でじっと追いかけている。点灯していた数字がやにわに立ち消え、それと入れ替わりに隣接した数字が音もなく灯る、そのわずかな谷間の消灯時間にあわせて息を継ぐ者らの気配が薄くたちのぼる。地層の深みから足裏へとじかに伝わるような移動音と、丁寧にくりかえされる呼気の均一な静まりとの合間に、緊張に強いられた咳払いと鼻を啜る音とが、低く低く圧縮されながらもときおりたまりかねたように爆ぜ、無自覚的な営みによるものか、切り込まれた先陣に応じて続く者らもいる。まなざしを順次点灯していく数字の横移動から逸らしてみれば、視界の全域を無人の空間で保つことはもはや不可能だろう。自らが他者の視界に入り込んでしまっていることを意識する誰彼の強ばった真顔や頬のひくつく横顔などが、必ずやその一画を占めることになる。
 この諒解を崩してみせることもできる。たとえば、気の不確かにも見えるあやしい高笑いによって喉元を激しく震わせることによって。音と思われたものの声であったことに罪の灯がともるのも束の間、不文律を侵犯するふるまいにたいする乗員の抗議と非難の目色がすぐさまたちさわぐが、あからさまな反応はかえってその越権行為を際立たせるだけでしかないことを知るものらによって切り替えられた知略の、無関心をよそおった黙殺の圧迫が開始されるのもしかし意に介さず、それどころかむしろ、けっして目を合わせようとしない乗員らをそれでも湿り気のあるまなざしで這うように見渡しながら、あんなふうにみんながみんな、同じところを一心にながめているのを見ると実に滑稽だね、個人的な縄張りを守るためにああして無人の方角に視点を据える、そのふるまい自体はけれど図ったように画一的なのだから皮肉なものだね、などと、同乗する隣人にむけての私的なささやきの体裁を一応はとりつつも、たてられた聞き耳の数だけ静寂のますます濃く密やかになった個室には十分にいきわたる声量でもって鷹揚にもそう言い放つ。混乱はここに極まる。図星を恥じて動けば動かされたことになり、不動を保てば型通りのふるまいを自認したことになるという、二律背反にいきなり突き落とされた乗員らの間をつらぬく動揺は押し隠しようがなく、いかに冷静な策略家であろうと、聞き落としを前提にした不動といういちじるしく困難な態度表明に苦心するのがせいぜいのところとなる。いずれに振れても回収される罠が仕掛けられる。あるいは、そのような罠を前にしてはじめて、ひとは文脈に強いられることのない思い思いのふるまいに及ぶことができるのだということを、うつむいたり、見上げたり、落ち着きなく視線を動かしたり、じっと不動を保ったり、てんでばらばらな、それゆえにこそ自由と呼ばれうる権利を持った反応を示す乗員ひとりひとりを前にして、すんなりと悟ることもあるかもしれない。

ちなみにこれが上述した100枚の短編から「偶景」に輸入した断片のひとつ。このときにはもういくらかなりと現在の文体に近いものができあがりつつある気がする。観察と描写を起点として微に入り細に入る心理や認識の襞にわけいっていくこの感じは確実に古井由吉の影響だしその祖先たるムージルにもかすかに連なるところがある。