20230228

 私の家には当時、両親が仕事で使う十数冊の医学書を除くと、四巻本の『毛沢東選集』と赤い宝の本と呼ばれる『毛主席語録』しかなかった。赤い宝の本は、『毛沢東選集』から抽出された言葉を集めたものである。私は元気なく、それらの本のページをめくった。読書欲という化学反応が起こることを期待したが、いくらページをめくっても、まったく読む気になれない。
 私は仕方なく家を出て、おなかをすかせた人が食べ物を探すように、あちこち本を探し歩いた。半ズボンにランニングシャツ、サンダルばきという格好で、炎天下の小さな町の熱を帯びた道を歩き、知り合いの少年を見かけるたびに声をかけた。
「おい、おまえの家に本はあるか?」
 私と同じく半ズボンにランニングシャツ、サンダルばきの少年たちは、それを聞いてみなポカンとした表情を見せた。彼らはこんな質問を受けたことがないのだろう。その後、彼らはうなずいて、本があると言った。私は喜び勇んで彼らの家に駆けつけたが、目にしたのはいずれも四巻本の『毛沢東選集』だった。しかも、すべて開いたことすらない新品だ。そこで私は教訓を得た。相手の少年が本があると答えたとき、私は指を四本立てて質問を重ねる。
「四冊か?」
 相手がうなずくと、私は手を下ろし、さらに尋ねた。「新品か?」
 相手が再度うなずくと、私はすっかり失望して言った。「やはり『毛沢東選集』か」
 その後、私は質問を変え、最初からこう尋ねた。「古本はあるか?」
 私が出会った少年は、みな首を振った。一人だけ例外がいて、しばらく目をパチクリさせたあと、うなずきながら古本があったようだと言った。私が四冊かと尋ねると、彼は首を振って一冊だけのようだと言う。私は赤い宝の本ではないかと疑って、表紙は赤いかと尋ねた。彼は少し考えてから言った。表紙は灰色だったようだ。
 私にとっては望外の喜びである。彼が三回「ようだ」と答えたことで私は興奮し、汗に濡れた手で彼の汗に濡れた肩を抱いた。家に着くまでお世辞を言い続け、彼を喜ばせた。家に入った彼は、苦労して椅子をタンスの前まで運び、その上に立ってタンスのてっぺんを探ると、埃だらけの本を私に手渡した。私はドキドキしながら受け取ったが、この小型の本はどうも赤い宝の本に似ている。表紙の厚い埃を拭うと、残念なことに赤いビニールの表紙が現れた。果たして、それは赤い宝の本だった。
(余華/飯塚容・訳『ほんとうの中国の話をしよう』)



 朝方に何度か目が覚めた。変に寝苦しかった。夢もたくさん見たが、よくおぼえていない。内容はエロかったはずなのだが、ちっとも興奮しない、どちらかといえば悪夢に近いものを見た印象がうっすら残っている。
 歯磨きをして身支度を整える。第五食堂で打包。食し、コーヒーを飲みながらニュースをチェックし、午後の授業の準備をする。きのうづけの記事の続きを書き、ふたたび街着に着替えなおすと、時刻はすでに14時前だった。

 寮を出る。自転車に乗る。第五食堂の一階にある売店でミネラルウォーターを買う。そのまま外国語学院へ。(…)楼付近で(…)さんと(…)さんらしき姿とすれちがったが、ちょうど曲がり角にさしかかった一瞬だったので確信が持てず、そのまま気づかないふりをして先に進んだ。
 外国語学院に到着。教室に入る。学生らとあいさつ。一年生と比べるとさすがにおとなしい。全員が全員ちやほやしてくれるのはだいたい一年生までなのだ。それ以降は急速に日本語に興味をなくしていく子が増えていく。毎度のことだ。
 14時半から日語会話(二)。初回授業なのでゲーム。例によってビンゴとパーセンテージクイズ。一年前にビンゴはやったでしょうというと、やっていないという返事があり、え? 嘘? となる。それで思い出したのだが、一年前は初顔合わせだったので、今学期の(…)一年生の授業がそうであったように、ゲームの前に自己紹介や写真撮影があり、それでビンゴは省略してパーセンテージクイズだけやったのだった。ビンゴのお題は一年生と同じでは簡単すぎるので、「(…)先生の部屋にあるもの」と「う・さ・ぎからはじまる名詞」とした。思っていたよりもずっと盛りあがった。パーセンテージクイズでは、来週以降の授業でグループ別のアクティビティを行う機会も多いのでそれの予行練習として、こちらの指示でランダムにグループ分けしてみたのだが、おもっていたよりも問題なさそうだった、このクラスはけっこう女子学生同士がギスギスしているようにみえるし、実際ルームメイト同士の仲が悪すぎるせいで解散した寮の一室もあるみたいなうわさをきいたこともあるのだが、まあなんとかなるかなという感じ。しかしピタリ賞が三度か四度出たのには驚いた。出たほうがやっぱり盛りあがるな。教室が沸くわ。
 休憩時間中に教務室を訪問。(…)先生から教学手冊を三冊受けとったのだが、その際、教学手冊のスコア記入方法についての指摘があった。平常点30%で期末試験70%の配分になっている考试の科目の場合、こちらは100点満点でつけた平常点と期末試験をそれぞれ×0.3と×0.7して算出した数値を直接記入していたのだが、その必要はない、どちらも100点満点の数値をそのまま記入すればいい、×0.3および×0.7は成績を打ち込むデータベース上で自動的に処理されるという。おたがいに二度手間になっていたわけだ。不好意思とすなおに謝る。教学手冊は二冊とも(…)さんに渡した。(…)さん、ゲームの合間に学生の名前と学籍番号すべてを記入してくれた。
 16時半から続けて同じ教室で日語基礎写作(二)。「定義」。辞書に通常掲載されている定義文をいくつか紹介したのち、モードを変更して、ネットで調べておいた個性的な定義を複数クイズ形式で出題。例年このクイズだけでけっこう時間を食うのだが、今日はみんな冴えていた、ガンガン声を出してガンガン的中させるので、想像以上にはやくクイズが終わってしまった。そういうわけで、こちらが事前に用意しておいた全6題の定義を考えて書いてくださいという課題を出したのも、授業がはじまってまだ30分も経過していなかったころではなかったか? 学生たち、わりとはやばやと書きあげてしまったようだったので、お題ひとつにつき三つは定義を書くようにとでもいえばよかったとちょっと反省。時間があまったらたくさん書いてくださいといちおう伝えたのだが、それで、よーし! やってやるぞ! となる殊勝な学生はごく少数なので。
 そういえば、授業のはじめ、コロナの感染状況を確認したのだが、33人中31人が感染していた。未感染は(…)さんと(…)さんのみ。(…)一年生と合算すると、71人中69人が感染か。あと、時間割についても確認したのだが、先学期はあった韓国語の授業が今学期はないらしい。

 学生が作文を書いているあいだ、Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きを少しだけ読んだのだが、以下のくだりの比喩を読んで、うわフラナリー・オコナーだなと思った。

After a moment one leg emerged, then her small white crooked face appeared and stared up at him. There was something about the look of it that suggested blindness but it was the blindness of those who don’t know that they cannot see.
(The Comforts of Home)

 あと、一年生の(…)くんから夕飯の誘いがあった。今日は18時10分まで授業があると受けると、それじゃあ金曜日はどうですかというので、了承。当日、授業が終わってからその流れでメシを食いにいくことに。
 授業は5分はやく終えた。本当はこういうことをしてはならないのだが、学生らはみんなとっくに作文を書き終えているようであったし、なにより18時10分ちょうどに終えると、おなじ時間に授業を終えたほかのクラスの学生らと食堂の取り合いになるに違いないので、19時から夜の自習というハードスケジュールである彼女らの事情を慮って、ルールも規則もなんもしらんあんぽんたんの外人に徹して掟破りを実行したかたち。
 教室を出る。(…)さんと(…)さんが見覚えのない学生といっしょに歩いていたので、追い越すまぎわに今度こそちゃんとあいさつをした。ふたりはケラケラ笑った。先学期ほかの学部から転入してきたふたりであるが、こちらの姿を目にするだけで、しょっちゅうケラケラ笑う。悪意がないのはわかるのだが、そのケラケラがあんまりにもしつこいので、ときどきイラッとすることがある。(…)さんのほうは先学期の期末テストなどそこそこがんばっていたが、(…)さんなんてすでにかなりあやしいし。(…)さんもあのふたりがどうしてわざわざ転入してきたのかわからないと先学期ディスっていた。
 寮にもどる。自転車だけ置いて、徒歩であらためて第五食堂に向かう。打包して帰宅。腹いっぱい食う。食後のコーヒーを淹れ、きのうづけの記事の続きにとりかかる。途中で(…)さんから微信が届く。「(…)」の入賞者らが来月オンラインで(…)講演を行う予定らしいのだが、そこで配布される資料にのせるプロフィールやコメントなどのチェックをしてほしいとのこと。それで軽くのぞいてみたのだが、うすうす予想していたとおり、これは正直まずいだろという文章だった(助詞を普通に間違えていたり、主語と述語が噛み合っていなかったりする——つまり、中国人学生と同種のミスをしている)、というかそれをいえば、そもそも「(…)」に彼が応募した作文自体こちらが添削していたわけだが、いやはや、それにしてもという感じ。
 ちゃちゃっと添削して返却するかと考えていたところで、今度は(…)くんから微信。DCTの結果をあらためて分類するにあたっての質問。文章ではちょっと説明しづらいので電話してもいいかという。了承。それでしばらく通話。DCTの結果については、無効とせざるをえない回答が三分の一ほどある。ところが彼はそれを無理やり有効回答として扱おうとした。当然指導教官から突っ込まれる。結果、いまあらためて無効として再分類、その上で考察の中心となる章を書き直す必要があるわけだが、こちらとしてはそもそも無効となる回答がそれほど多い時点でアウトなのではないか、DCTをやり直すしかないのではないかという懸念がある。ただ、いちおう予備の口頭試問的なものがすでに二回あり、それは問題なく通ったということだったので、そのあたり指導教官が目をつむってどうにかしてくれるというアレなのかもしれない。最終締め切りはやはり来月10日になったという。となるとその添削を依頼されるだろうこちらの週末が今週もまたつぶれることになりそうだ。(…)くんはこちらが添削をすませた第一章から第三章まですでに目を通したといった。忙しいのであればあそこまでみっちり修正してもらわなくてもいい、文法のあきらかな間違いだけ修正してもらえれば十分、あそこまで「表現を高級」にしてもらわなくてもだいじょうぶであるといった。いや、まずい文章を看過するのは、それはそれでけっこう神経を削られるんだが。親友の女の子はすでに博士課程に進学することに決まったという。今回の経験でじぶんはとことん研究に向いていないことがわかったというので、語学と言語学の研究とはまったく別物だからね、それがわかっただけでもよかったじゃん、将来もしあらためて博士課程に進学しようと思ったときに言語学はやめておこうと判断することだってこれでできるわけだし、と応じた。
 締め切りもせまっているので通話はそこそこにした。その通話中、(…)さんから着信があった。先のプロフィールを修正してくれという催促だろうと思い、いまから修正するんでちょっと待ってくださいと微信を送ると、すでに主催者に送信してしまったという返事。しかしあやまりがあればいまからでも教えてほしいというので、正直文章の構成そのものからいじりたいくらいアレだったのだが、ネイティヴでなくともこれはあやまりであると気づくだろうポイントだけちゃちゃっと修正して送った。しかし(…)さん、この能力で一流大学に転職を考えていたわけだから、正気かよという感じだ。ちなみに、荷物の件で(…)ともちょくちょくやりとりしているらしいのだが、その(…)から(…)にある私立大学で外教を募集しているという話をきいたという。数年前、われわれがそろって参加したスピーチコンテストの会場で、スカウトをこころみてきた女性教員がいたが、彼女の所属している私立大学だという。ただ大学のレベルはかなり低いらしく、勉強嫌いの金持ちのボンボンがつどうようなところらしい。だからさすがにそこで働く気にはなれないと(…)さんはいった。ちなみに(…)にある大学で留学生に向けた日本語の授業をするという例の仕事は契約終了したとのこと。しかるがゆえに現在転職活動中らしく、場合によってはふたたび大陸に渡る可能性も考えているようす。
 きのうづけの記事を投稿し、ウェブ各所を巡回し、2022年2月28日づけの記事を読み返す。

(…)2021年2月28日づけの記事の読み返し。木村敏『形なきものの形 音楽・ことば・精神医学』に収録されている「AイコールA」という文章を一年前の日記から引いた上で、以下のように書き記している。対象aが現実的なものとも象徴的なものともつかない半端な位置を占めていることを踏まえると、この読みの筋、全然悪くないと思う。

これを読んでふと、愛着のあるものを対象aとして考えるという大雑把な筋もありではないかと思った。この場合の愛着のあるものというのはもちろん、わたしという特異性を成立せしめる特異的な意味(歴史)を持つものというような意味である。対象aというのはそれを介して現実界に触れ得るものであるという意味で、こちらはわりと大雑把に、物語化されることのないできごと、象徴化されることのない現実的なものとして理解しているので、その筋でいくと、対象aを「わたしという特異性を成立せしめる特異的な意味(歴史)を持つもの」とするのはちょっと意味不明にみえるかもしれない。しかし特異的であるわたしの同一性を支えるものとして、やはり特異的な意味(歴史)を持つ身の回りの品があると考えると、その品の損失とはそのままわたしの同一性を揺るがす一種の脅威となりはずであり、そしてそのような同一性の揺らぎ、一瞬垣間見える裂け目とは、まさに物語の破れ目であり、現実的なものの出現といえる。そういう観点から、わたしをわたしたらしめる数多の要素(意味)の、そのなかでも特に力を持ったもの、つまり、その喪失その損失それとの別離がわたしの同一性を揺さぶるもの、そういうものをひとまず対象aの具体例として考えてみることもできるのではないか(この場合、ラカン対象aの例として挙げた「まなざし」「声」「糞便」「乳房」のうち、少なくとも「まなざし」と「声」は理解しやすいものとなる。他者からの親しい「まなざし」および「声」、あるいは、敵意に満ちた「まなざし」および「声」は、それを受けとる私が他者にとってどのような存在であるのかというイメージ(同一性)をそのたびごとに作り替える)。

 それから2013年2月28日づけの記事も読み返し、「×××たちが塩の柱になるとき」に再掲。全体的に筆がのってんなという感じ。
 コーヒーをがぶがぶ飲みながら、今日づけの記事も書きはじめる。先日ひさしぶりに読み返して再掲した詩「花と雨」であるが、同名の楽曲があることをはじめて知った。SEEDAの『花と雨』に収録。SEEDAの名前はきいたことがあるが、楽曲をきいたことはなかったので、これも縁だというわけで流し、作業を続ける。
 22時半前になったところで作業を中断してシャワーを浴びる。鏡の前に立ってみて思ったのだが、たぶん懸垂をしているからだろう、広背筋が微妙に発達しつつあるのか、上半身が逆三角形のラインをかたどりはじめていることに気づき、うわ! ハゲで、ヒゲで、細マッチョ! ダッサ! 気持ち悪っ! と思った。最悪や。おそらく前世で相当やらかしたんやろな。むかしのことなんでもうよくおぼえとらんが。
 あがってストレッチ。今日は疲れていたので筋トレはお休み。三時間ぶっとおしで教壇に立つと、それだけでやっぱりけっこう体力をもっていかれるものだ。トーストとプロテインの夜食をとり、『ラカン入門』(向井雅明)の続きを少し読み進める。以下のくだりを読んだとき、藤富保男の詩を思った。

 一つの文を構成しようとするとき、まず初めに一言発せられるが、そのときにはまだ実際に、どのようなフレーズになるかは未定である。そこでは最終的な意味を予知しているにすぎない。そして、最後の単語が終わるときに初めて、最初に発せられた言葉の意味が確定する。これは句読点の遡及的効果である。一つのパロールが始まるとき、その意味はまだ固定しておらず、単にそれを予知しているだけなのだ。また一旦始まったフレーズを予知通りに終えるのは大変困難である。公衆を前にして話したことのある方は、この経験をお持ちであろう。言葉が予期した方向に進まず、最初の意図とは違ったことを言ってしまうこともしばしばある。この予知—遡及効果の間で、無意識の形成物の一つ、言い間違いが起こる。
(60-61)

 藤富保男の詩を読んでいると、日本語における各助詞が、接続詞と同様、文の意味-方向を先取りするかたちで制限する役割をになっていることがよくわかる。こちらが『S&T』を書いたとき、どれだけ複雑な文章を書こうとしてもそれが登場した瞬間にその複雑さが単純に方向づけされてしまう助詞はほとんど忌むべき敵だった。だから格助詞「が」を「の」で代用できる場面は可能なかぎり「の」を使用し、破格には踏み出さないままで(文法という法の内側にとどまりつつ)、読み手の意識のなかでその文の意味-方向が可能なかぎり宙吊りにされるようにしたのだった。
 それから歯磨きをすませ、ベッドに移動し、Everything That Rises Must Converge(Flannery O’Connor)の続きを読み進めて就寝。